アスモデウスの悪戯

ミナト碧依

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26.密かな決意

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 触れ合った互いの肌が、汗でしっとりとしている。セックスの余韻を心地よく感じながら、崚介りょうすけは穏やかに寝息を立てる沙羅さらを見つめた。その顔には疲労が滲んでいる。
 やりすぎた、と。崚介は反省する。
 さも彼女の不安を取り除こうというふりをしたが、結局は嫉妬だった気がする。崚介が何度抱いてもどれほどセックスに溺れさせても、沙羅の一番は遠い日本に残してきた娘のれいだ。暇さえあれば怜の写真を眺めているし、他愛ない会話でもすぐ怜の名前が出る。
 当然のことなのに面白くないのは、娘の父親のことを考えてしまうからか。
 ――愛していたよ。彼のこと。
 そう言ったときの強い眼差しが忘れられない。過去形だったけれど、それは到底過去のものとは思えなかった。強烈な嫉妬心と羨望を抱いた。おそらく彼よりも娘の優先順位が高いだろうことだけが救いだった。果たして崚介の順位はいかほどか。そんなことを考える己が滑稽だ。
 頬にかかる髪は、うっかりすると毛先がよく口に入りそうになっている。昔は長くてそんなこともなかっただろう。美しい髪を切ってしまったことが惜しいが、子育てには邪魔だったと語る彼女がどこか誇らしく、美しいと思った。
 だからこそ真面目な彼女は自分を責めるのだろう。母親の役目を果たせていないと。崚介に言わせれば、沙羅は母親だからこそここにいるというのに。自身をさいなむ彼女の悩みや苦しみを、少しでも軽くしたいと思った。叶うなら分かち合いたいと。
 この件が終わったら。崚介の中で一つの決意が生まれようとしていた。
 五年前、行動に移さなかったことを後悔した。
 FBI捜査官の崚介にとって優先すべきは任務だ。恋愛にうつつを抜かしている場合ではない。ましてや当時の彼女は崚介にとって、犯罪組織ナーヴェに自ら身を置く女だった。
 シズカは決して崚介に言わなかったが、当時ナンバー3のザックが彼女に目をつけたのは知っていた。しかも用心深い彼が一晩の娼婦ではなく愛人にと望んでいるという。言いようのない、けれど確かにネガティブな感情が胸を覆った。
 それでも鈍感にも己の気持ちに気づいていなかったリチャードこと崚介は、シズカをFBIの協力者にできないか本部に掛け合っていた。愛人となったシズカがFBIに有益な情報をもたらせられれば、不法滞在も組織での罪も帳消しにして日本へ帰国する算段をつけてやれる。彼女のためだと信じて動いた。
 そんな中、第三ラボの襲撃事件が起こる。
 崚介は現場に先行したが間に合わなかった。少しでも怪我人を救出しようと突入したのが間違いだった。飛散したアスモデウスを大量に吸い込んだ。そこからの記憶がない。気が付いたときにはリチャードの部屋にいて、全裸でベッドに転がっていた。
 ベルトで片腕をベッドに拘束しようとしたらしい。利き手とは逆の手首が擦れて赤くなっていたが、途中で失敗したのか外れたのか。
 全裸だが女性がいた痕跡は見つけられなかった。記憶ははっきりしないが妙にすっきりしているので、一人で部屋にたどり着き抜きまくったのだろう。服やシーツは後から洗濯乾燥機の中で見つけた。
 朦朧とする意識の中で強く女性を欲したのを覚えている。そんな自分に嫌悪感が込み上げた。組み敷いて乱暴なほどに抱いて欲望を満たしたいと思ったから。その妄想は次第にシズカの姿を結んでいったから。
 次に組織で顔を合わせた際、シズカは珍しく心配そうに崚介を見た。
「リチャード。あの日のこと」
「あの日?」
「ラボの襲撃があった日のことなんだけれど」
「ああ、君も聞いたのか。現場は惨い状態だったらしいな」
「らしい?」
「俺もさっき聞いたんだ。休暇だったし。君も休暇で家にいると言っていただろう? 読書は捗ったか?」
「あ……うん。仲間から電話をもらって驚いたよ。あんなところにラボがあったんだな」
「ラボの場所は秘密だからな。知ってたら応援に行けたのかもしれないが」
「あなたが無事だったならよかった」
「ああ。じゃあ、これからちょっと用があるんだ」
「うん、また」
 本当は用などなかった。罪悪感が彼女を避けさせた。妄想の中で激しく彼女を求めた。彼女の安全のためにともに行動していたのに、FBI捜査官である崚介が彼女を犯したいだなどと。
 彼女をFBIの協力者にする話も、本部から許可が下りなかった。シズカ・キサラギは確かに逮捕歴があり、不法滞在者だった。けれど日本での経歴や素性に不透明な点が見つかり、信用できないとの判断が下ったのだ。今思えばそれは作られた経歴だったからにほかならない。とはいえそんなこと当時は知る由もなく、何度も再検討を求めたが許可がおりなかった。
 彼女が姿を消したのは、それからすぐのことだった。崚介に何も言わず失踪するなんてあり得ないと思った。だから一度は絶望した。彼女は殺されたのではないかと。
 自分の気持ちに気づいたのはそんな絶望の中だった。己を呪った。どうして「好きだ」と言わなかった。どうしてもっと早く組織から助け出さなかった。
 五年経って再会したとき、彼女は沙羅という名前で幸せそうに娘の手を繋いでいた。嫉妬した。一緒にいた男に。それが弟だと知った後は、顔も名も知らない男に。けれど五年前の絶望に比べたら、彼女が生きている喜びの方が勝った。今幸せなら、そのまま別れようと思った。けれど。
 彼女は娘のために危険を顧みず渡米し、今こうして崚介の腕の中にいる。沙羅が崚介と関係を持ったのは心細さからだ。きっと彼女はまだ、娘の父親を愛している。それとも彼はもうこの世にいないのだろうか。なにも知らない。
 この事件が片付いて彼女が安心できるようになったら、今度こそ口説こう。ほかの男の娘を大事に思っていても、今崚介を選んでくれるならそれでいい。沙羅によく似た娘ごと愛する自信はある。FBIを辞めて三人で日本で暮らすのもいいかもしれない。
 だがそのためには、彼女の安全を確保しなければならない。そのためにアスモデウスの件を片付けなければ。
 沙羅の頬にかかった髪を払ってやると、少し身じろいで長い睫毛が揺れた。瞼が鈍く持ち上げられ、漆黒の瞳が崚介を捉える。
「もう朝……?」
 ぼんやりと掠れた声で尋ねる彼女に、またしても欲望が疼く。これほど性欲が底無しになるとは、本当にティーンエイジャーのようだ。沙羅の声が枯れているのも崚介のせい。
 ――あなたが、私の体に飽きてしまうんじゃないかと思って。
 なぜそんな不安を抱いたのか理解に苦しむ。たった二日でこんなにも沙羅の体に溺れている。セックスはたった二日でも、もう五年も前から焦がれていたのだから当然といえば当然だった。それでも五年も待ったのだから、もう少し理性的に振舞えると自惚れていた。できるだけ紳士的に振舞いたいのに、彼女に触れるともう欲望に歯止めが効かない。自分勝手な抱き方をして愛想を尽かされるんじゃないかと不安なのは崚介の方だ。
「いや。まだ夜明け前だ」
「眠れないの?」
「君に見惚れてた」
 崚介が言うと、沙羅は目をぱちくりさせて唇をあうあうと迷わせた。寝ぼけているのもあって上手く返事ができないようだ。アメリカ暮らしが長かったはずだが、こういうシャイな部分は日本人らしい。それが可愛くて、崚介はつい彼女を褒め殺したくなる。
 さすがに今は自重して、沙羅の額にキスをした。細い腰を抱き寄せ、温もりを楽しみながら髪を撫でる。
「もう少し眠るといい」
 沙羅は小さく頷き、崚介に身を寄せて目を閉じた。普段凛として隙のない彼女が、こうして甘えてくれるのがたまらなく愛おしい。幸せな気持ちで、崚介も目を閉じた。
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