アスモデウスの悪戯

ミナト碧依

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31.失踪の真相

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 リチャードはちぐはぐな男。それが最初に抱いた印象だった。
 裏社会に身を置き不法滞在など可愛く思えるほどの犯罪集団の中にいて、一人の女性としての尊厳や安全を気遣ってくれた。
 清廉潔白という訳ではない。おそらくシズカ――沙羅さらが当時名乗っていた偽名だが――を脅したのも、おそらく半分本気だった。彼はそれが必要だったなら沙羅を抱いただろう。
 けれど、なんというのだろうか。彼は沙羅を『抱く』ことはあっても『犯す』ことはないと感じた。
何故そう思ったのか、根拠などない。女の勘としか言いようがない。二十代半ばの若い女性で、東洋人で、組織の新人で。差別する理由はいくらでも出てくる。それが差別であるとすら気づかない者ばかりだ。そんな中でリチャードは対等に扱ってくれた。
 犯罪者だと認識しながらも彼に惹かれていった。そんな自分に悩んだこともあったが、彼がFBIの潜入捜査官だと知ったとき妙に納得した。悪ぶった振る舞いの中に感じていた正義感や責任感を感じ取っていたのかもしれない。
 ザック・ブラウンの愛人になり、情報を引き出せ。その命令が下ったとき、真っ先に浮かんだのはリチャードのことだった。ザックの愛人になった姿を見られたくないと思った。もう認めざるを得なかった。リチャードを好きだと。
 ザックがシズカを愛人に望んでいる。その噂は少しずつ組織内に広まっていった。リチャードもそれを知ったらしい。どこか様子がよそよそしくなった。それなのにまるでガードマンのように側にいる時間が増えた。そういうところがまた好きだと思った。
 ザックが愛人に望む女に手を出す構成員はそういない。そう言う意味では安全になった。けれど今まで以上に下品な視線を向けられるようになったし、ザックと対立する者からは狙われる危険が増した。日々向けられる、肌を舐めるような視線。過剰に意識して、街中ですれ違う人のなんでもない視線でも嫌悪感を抱くようになってしまった。
 リチャードが側にいるときだけはそれを忘れられた。この人に抱かれたら、その思い出があれば耐えられるだろうかと思った。そんなことを考えてしまう自分が滑稽だった。
 第三ラボの事件の日、体を繋げたのは本当にリチャードの症状緩和のためだったのか。多分、否だ。
 ――シズカ、シズカ……!
 あの夜、リチャードは何度もシズカを呼んだ。欲情するのはアスモデウスの症状だとしても、目の前にほかの女がいなかったからだとしても、リチャードは「シズカ」を求めてくれた。呼ばれるたび、ドラッグの作用に付け込んだ沙羅の罪悪感を隠した。
そして。
 ――ザックになんて渡したくない。
 独白のように囁いたリチャードの瞳は嫉妬に燃えていて、そのまま独占欲を示すかのように何度目かの射精をした。沙羅は幸福感で泣きながらそれを受け止めた。
 だが事件後、リチャードはシズカを避けるようになる。最初は気まずいのかと思った。何よりザックが目をつけている女を寝取ったとなれば、リチャードの組織内での立場は絶望的だ。
 それが自分の勘違いで、リチャードがシズカと寝たことを覚えていないことに気づくまでにさほど時間はかからなかった。
 神の――いや、悪魔のいたずらに思えた。
 沙羅はあの夜を自分だけのものにした。リチャードは知らないままでいい。そうしてザックの愛人になる覚悟を決めた。はずだった。
 妊娠がわかった時、この男と一緒に逃げる未来を想像した。けれどリチャードはあの夜シズカに会ったことすら覚えていない。結局は口を噤んだ。
 再会して彼がFBI捜査官だと知ったときも、打ち明けるか迷った。しかし崚介りょうすけが覚えていないことには変わりないし、娘を産んだのは沙羅の勝手だ。だから言わずに別れようとした。
 渡米してからもずっと迷っていたが、彼と過ごす時間が長くなるにつれ話すことは義務のように思えてきた。あんなに可愛い娘の父親である権利を、これ以上奪ってはならないと。
 ナーヴェの摘発が叶ったら話すつもりだった。娘がいること。あの子がどれほど可愛らしいか、あの夜からこの五年どれほど沙羅が幸せだったかを。
 そして、愛していたこと。五年前の沙羅にとってリチャードは犯罪者だった。だから彼に正体も妊娠も明かさず姿を消した。それでも彼の痕跡を何か残したくて、リチャードの愛称である『リック』をもじってペンネームに『陸』と入れたことも、すべて。

 翌日FBIに行くと、カレンが心配したように駆け寄ってきた。
「昨日は大丈夫だった?」
「うん。まあ、これまで通りとはいかないけど、大丈夫だよ。気を遣わせてごめん」
 多くを語らずに曖昧に微笑む。カレンは気になっているようだったが、結局は聞かなかった。用意してくれていたらしいコーヒーショップの紙カップを差し出しソファを進めてくれたので、ありがたく受け取った。
「ちょっと安心したわ。言わずに帰国するのかと思ってたから」
「もしかして気付いていた?」
「まあね」
「娘は崚介と似ているものな」
「それについては少し自信がなかったわ。リョウ以外のアジア人の顔を見慣れてないから」
「じゃあどうして?」
「リョウを愛してるんでしょ。あなたたちは再会したばかり。きっと五年前から気持ちがあったんでしょう。そんなあなたが他の男性の子を妊娠したっていうことに違和感があったの」
「鋭いな」
 捜査のことでは少し抜けていることがあるが、女性としての観察眼は沙羅よりよほど優れている。
「妊娠を告げなかったのは、リョウを守るため?」
 カレンの指摘に、沙羅はどきりとした。昨夜崚介にはしなかった話だ。
 ザックが愛人にと望んでいた女を寝取ったとなれば、沙羅ともども殺されてもおかしくない。逃げ切れる保証もなかったから、それならばと沙羅は一人で失踪した。父親である彼にすら告げずに。
「そんな綺麗な話にしていいのかな」
「どういう意味?」
「たしかにそんな意味もあったけれど、一番はたぶん、娘を犯罪者の子にしたくなかったんだ。あのときはリチャードの正体を知らなかったし」
「それなら再会したときに話さなかったのはなぜ? FBI捜査官だと知ったならその不安はないでしょう?」
「一度隠したのだから打ち明けるべきじゃないと思った。五年前のあの日、崚介は正常な状態じゃなかったし、私と寝た記憶もない。あの妊娠は私だけの責任だ。日本で再会したときもそのまま別れるつもりだった。この先会うこともないと思ったしね」
 互いに連絡先も聞かなかった。あの事故がなければ、沙羅が組織に見つかりさえしなければ、きっと実際にそうなっていた。
「けれど行動をともにして、FBI捜査官としての彼を見て、話すべきだと考えるようになった。それに事故とかはずみとか、そういうのじゃなく自分たちの意思で深い関係を持った。余計に黙っているのはフェアじゃないと思った。彼に話そうとは決めたけれど、今は捜査もあるし、すべてが終わってからと考えていたんだ」
 先延ばしにしたかっただけかもしれない。こんなにも似ているのに隠し通せるなどとどうして思えたのか。娘の存在を知った崚介がどういう反応をするのか怖くて、楽な方へ逃げてしまっただけという気もしてくる。
 己の弱さが嫌になる。結果的に崚介を傷つけてしまった。
「この際だからぶっちゃけて聞くけど、わざと妊娠を?」
 それはいつかもさりげなく聞かれたことだった。崚介も沙羅が自衛を怠ったはずがないという認識だったので、少々居心地が悪い。
 沙羅は首を振った。
「いいや。私は彼を好きだったし説得力がないのは自覚しているけれど、それでも任務を放棄するつもりなんてなかった。あの日は私も気が動転していたんだ」
 あの日の光景が、今でも脳裏に焼き付いている。
「ラボの惨状は酷いものだった。そんな中でリチャード……崚介を見つけたときは心底驚いたよ。しかも彼もアスモデウスの中毒症状が出ていた」
 本当に肝が冷えた。何故あの場にいたのかという驚き。そして彼を喪ってしまったのではないかという絶望。アスモデウスの症状に苦しむ姿を見て、まだ生きていると安堵すらした。そんな楽観的な感情もすぐに消え失せたけれど。
「少量でも死に至ることがある危険なドラッグだ。彼が生き延びられるか気が気じゃなかった。アスモデウスは性的に発散すると多少は症状が落ち着く。血圧がもっと上がってしまうリスクもあったけれど、彼は理性的に見えたし、数回発散すればなんとかなるかと思ったんだ。避妊具も少しは持っていたし」
 セックスドラッグの潜入捜査だ。潜入開始時から念のため携行していたのだ。
「けれど症状はおさまらなかった。まさか記憶が残らないほど意識が朦朧としていて、一晩中……」
 途中で自分の失言に気づいた。ナニをどこまで言おうとしているんだと己に呆れる。咄嗟に口を覆うと、カレンがにやりと笑った。沙羅は赤くなった頬を誤魔化すように咳払いをする。
「その、そんなに強くアスモデウスの作用が出るとは思っていなかったんだ。目が覚めた時には襲撃から丸一日経っていた。彼は深く眠っていて、話ができないままDEAに報告に行った。案の定、局は大騒ぎだったよ。私も行方不明扱いになっていたし。報告や後処理で目まぐるしくて、時間の感覚が変になっていたんだ。ピルを二回分飲み忘れたことに気づかなかった」
「アフターピルは?」
「普段から私の体質に合わせた特別なピルを服用していたし、アフターピルは私の体質に効くかわからなくて、選択肢として思い出しもしなかった。ピルの残数からおかしいと気づいたときには、七十時間以上が経過していた。そのとき市販のアフターピルも服用したけれど、二週間後に妊娠が分かった」
 最大級の喜びと、同じくらいの戸惑い。人生でもっとも感情が忙しない日々だった。
「ラボの惨状や崚介の症状を見て、絶対にこのドラッグはなんとかしなきゃいけないと思った。やっとザックに犯される覚悟もしたときだった。産むことを迷いはしなかったし娘のことは人生最大の喜びだ。けれど、任務を放り出した罪悪感だけはずっと消えない」
 妊娠のことは後悔していない。だがほかのことはそうも言い切れない。れいのせいにするようなのが嫌で、考えないことにはしている。それでも当時解決できていたらという思いはふとした瞬間に沙羅の罪悪感を刺激する。
「まったく、君は相変わらず真面目だね」
 不意に聞こえた男性の声に、カレンともども振り返る。戸口に立っていた人物に、沙羅は目を丸くした。
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