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33.合同捜査
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ウィルとカレンで長い時間をかけ、捜査状況や科学捜査の結果をルイスに説明した。
ルイスが殊更興味を示したのは、やはり科学捜査の結果だった。ルイスはカレンの分析結果を見て、素直に感嘆した。
「すごいな。よくここまで分析したね」
「天才にお褒めに預かり光栄だわ」
分析結果と自身が持つデータとを照合しているのだろう。腕を組んで難しい顔で黙り込んだルイスは、長い時間をかけたあと一つの可能性を口にした。
「ねえカレン。アズモスはある意味では完成していたとは考えられない?」
どういう意味だろうと思っている沙羅に反して、カレンはその言葉を予想していたようだった。
「やっぱりそう思う?」
「うん。こうなるとやっぱり……」
ルイスが珍しく言葉を濁す。沙羅には話が飲み込めなかった。
「カレン、ルイス。どういう意味?」
「言ったでしょ。あなたの血液データとアスモデウスを比較したって。アスモデウスから強い興奮作用を取り除いたもの――アズモスはあなたの血液そのものよ」
「つまり君が薬の原材料――アズモス・プランツじゃないかって話だ」
「まさか」
沙羅はにわかに信じがたかった。母がそんな研究をするなんて。
「サオリの研究資料の中に、君に関する記述やデータが一切ない。ここまで類似しているのに、だ。これは不自然だよ」
「母が私の血液から『アズモス』を作り出したっていうのか?」
「それならサオリ・ハヤサカが発表できなかった理由に説明がつく。娘の体質を救うどころか娘を生贄にするような研究なんだから」
「だから最重要部分を隠したのよ。だとしたら絶対、沙羅の血液から抗体を抽出する方法は別で保管されているはず」
ウィルが「待て待て」と口をはさむ。
「でもアズモスとアスモデウスの原材料は同じという話だったろう」
ウィルも二人の推測には懐疑的なようだ。
ルイスもカレンも頷いた。
「だから『ある意味』なんだよ。娘を材料にした薬なんて、サオリにとっちゃ完成とは言えないだろう。娘を生贄になんてできないんだから。ほかの方法を考えたはず。そしてアズモスの原料にたどり着いたんじゃないか? けれど研究過程でアスモデウスが生まれてしまった」
そこでウィルが言いにくそうに一つの可能性を口にした。
「本当に彼女が娘の体から薬を作った研究者だとしたら、サラの体質が後天的なものだという可能性もあるんじゃないか? ほら、血清療法なんかは動物に毒を投与して抗体を作らせるだろう」
毒を投与されることで抗体がつくられるなら、さおりが娘の体でそれを行ったのではないかというのだ。
ウィルの指摘にかっと頭に血が上るのを感じた。
だが二人の研究者は、どちらも首を振る。
「完全に否定はできないけれど、アスモデウスは大の大人でも少量で命を落とすことがある。体の小さな子どもにそれをやってしかも生き延びているなんて、可能性は低いと思うわ」
「そうだね、僕もカレンに同意するよ。予防接種みたいに子どものころに投与された可能性も考えるべきかと思ったけれど、ワクチンは毒性を抑えたものだ。それが成功していたならそもそもアズモスは完成していたといえるよ。今頃とっくに実用化されていただろうね。それがないということは未完成だったろうし、毒性がこのままの薬を幼児に投与するのはリスクがありすぎる。それにこの年齢まで抗体が持続する可能性は低いかな。もちろんそういう抗体もあるけれど、アスモデウスでほかにサラのような薬効体質を得た事例はないし」
「ええ、リョウもその症状はないわね」
カレンとルイスの考察に、沙羅は冷静さを取り戻した。
ウィルが気まずそうに詫びる。
「いやすまん。君のお母さんを貶めたいわけじゃなかったんだが、可能性はすべて検討すべきかと」
「うん。私こそ冷静になれなくてすまない。ウィルは自分の仕事をしているだけだ」
こういうとき自分が情けなくなる。沙羅だって組織は違えど捜査官だった。捜査はあらゆる可能性を考慮すべきだ。それなのに身内のこととなると冷静さを欠いてしまう。それを実感する。根拠のない先入観は判断を鈍らせるだけだというのに。
反省する沙羅に気づかず、ルイスは考察を続けた。
「これは推測だけど、君の体質はリスクが大きい。サオリはサラの体質に有効な薬物投与の方法を探していたんじゃないかな? その過程で彼女の血液から抗体を分離する方法を見つけた」
「確かに、抗体が取り出せればそれを無効にする研究にとりかかれるわ。その分離したものがアズモスだったのね」
さっきは母が沙羅を実験体にしたように聞こえて否定的に考えてしまったが、確かにそれならば大いにあり得ると思った。
「アズモスそのものが、サラの体質を研究する上で生まれた副産物だったんだよ。研究が派生していくことは珍しいことじゃない。それを薬物中毒の治療に転用することを思いつき、アズモスの研究を進めていた」
「彼女ほど優秀な研究者なら大いにあり得る話ね。それがサラに伝えられていないってことは、サラの体質に有効な方法は見つからなかったのかしら」
「そうだね。僕も五年前のサンプルを研究していたからなんとか遅効性の錠剤を作れたけど、完全に無効化するには至っていない。難しい研究だと思う」
「じゃあこのドクター・アマヤはサオリ以上に優秀なんだな。サラに有効な薬の組み合わせをいくつも発見してる」
ウィルの言葉にルイスは完全には同意しなかった。
「優秀なのは同意するけど、どちらがという話じゃないよ。アプローチが違うからね。それにドクター・アマヤのやり方だと試していない薬の組み合わせに対応するのが難しい。想定以外の治療や薬が必要になったときに対処が遅れる。けれどサオリの研究が成功していたら、サラに普通の人間と同じような治療ができる」
さおりは沙羅を『特別な子』にしないように心を砕いてくれたのだ。
「母は私が普通の子と同じように色んなことを体験させてくれた。怪我をしそうなくらいやんちゃにしても『いいぞ、もっとやれ』と言って自分もやり始めるような人だった」
「それ、お父さんじゃなくてお母さんの話?」
「うん。子供らしい怪我も病気も『普通』に経験させたがってくれた。その治療が適切に行えるように研究してくれたんだな。父は少し心配性なところがあったけれど、それは私の体質のことがあったからかもしれない。それでも母や私の意見を尊重してくれた。私の両親はこんなにも愛情深い人たちだったんだなぁ」
最後の言葉は、半分独り言だった。遠い過去に思いを馳せる。もう記憶の中の声はおぼろげだ。顔はこうして写真があるから思い出せるけれど、細かい表情も覚えているというより印象が心に残っているだけだ。
「素敵なご両親ね」
「私は、怜が怪我や病気をしないように注意を払うので精一杯だった」
「もしかして、娘さんも同じ体質なの?」
沙羅は頷いた。驚いたカレンの様子に、朔人が送ってくれたカルテに娘のデータがなかったことを知る。朔人は沙羅の心情を汲んでくれたのだろう。怜をこの国で重要人物にしたくないと。本当に彼には助けられてばかりだ。
娘の怜が沙羅と同じ薬物耐性体質を持っているとわかったとき、怜を公園で遊ばせることさえ怖がっていたことがあった。常に神経を尖らせて過保護になり、精神をすり減らしてしまった。
――仮に無菌室で真綿にくるんで育てたって、健康にならないわ。そんなことしたら体力も情緒も育たないんだから。沙羅。自分が出産まで乗り越えたことを誇りなさい。あんたができたんだから、怜も大丈夫よ。
初めての育児、自分と同じ体質への不安。それなのにシングルマザーの意地のようなものがあり、実家にも頼らず疲弊しきっていた。疲れているのに心配で夜も眠れず、思えばノイローゼ一歩手前だった。朔人に諭されてようやく肩の力を抜いた。素直に弱音を吐けば、助けてくれる人はたくさんいた。
「ねえ、君のご両親のどちらかも同じ体質だったの?」
「え? どうだろう」
ルイスが急に質問を投げかけてくる。沙羅は少し考えてから答えた。
「そういえば父は下戸だから、違うと思う」
沙羅は薬物耐性の延長でザルだ。ワク(枠)と言われたこともある。
「サオリも違うんじゃないかしら。検死報告書では帝王切開の痕が確認されているもの」
手術ができたということは、麻酔薬が効いていたことになる。
「もしサラと同じ体質だったのなら、麻酔薬を有効にする方法を見つけていたことになるわ。けれどそれはさっきの推測と矛盾する」
「うん。父も……神崎茂も私の体質を知ったときは驚いていたし、両親は違ったと思う」
「じゃあ君がそんな体質を持っているのは何故だ? しかも娘も同じだというなら、遺伝的なものだと考えるのが普通だ。だが君に至るまでその体質が確認されていない。シゲル・カンザキはただの里親ではなく親族なんだよね? 驚いていたということは少なくとも近い世代の親族にその体質がいなかったんだろう。なのに君と娘は二代続けて薬物耐性体質を発現している。君が突然変異か何かでこの体質を持ってしまい、それが娘にも影響した、ってことかな? いやでも……」
ルイスは納得できないようだが、納得いく答えも見つけられないらしい。苛立ったように綺麗に撫でつけていた髪をがしがしと掻いた。髪を崩すと余計に印象が幼くなる。
言われてみれば確かに変だ。どうして沙羅と怜だけがこんな体質を持っているのだろう。
その内、ルイスはモニターに映されたある画像に目を留めた。
「この数字、なんだ?」
それはさおりの手書きメモの画像だった。右上に小さく数字が走り書きされている。カレンも困ったようにため息をついた。
「それがよくわからなくて。研究を示す分類コードか何かかと思ってるんだけど、本文中にそれらしいものがないのよね」
沙羅は眉をひそめた。そこには「H5/5/12」と書かれている。
「ほかにもあるの?」
「ええ」
カレンがキーボードを操作し、いくつかの数字の部分が並べられる。
「頭に『H』がついてる。なんの意味だろう」
真剣に悩む二人に、沙羅は気まずい思いをしながら声をかけた。
「あの……ただの日付じゃないか?」
「日付? これが?」
研究者二人の視線が刺さる。この二人が意味を見出すなら確かに何かのコードなのかもしれないが、凡人の沙羅には日付にしか見えない。
「でもそれじゃあ、サオリが亡くなった後の年にならない?」
「え?」
「だって事件があったのは2005年でしょう? 2012年じゃ七年も後だわ」
「それにこの『H』ってなに?」
「ああ、そうか。アメリカは年が最後だけど、日本は最初に書くんだよ。『H』は元号を指している。日本では西暦のほかに和暦も使われているんだけれど、アルファベットで省略した書き方をすることがあるんだ。『H』は『平成』。今は『令和』だから『R』だね。これは平成五年の五月十二日だ。1993年だよ」
それを聞いたカレンがいくつかの画像を見比べる。そして呆れ顔で言った。
「確かにそれなら時系列が合うわ。やだ、難しく考えすぎちゃってたのね。すぐサラに聞けばよかったわ」
カレンが恥ずかしそうにしている。とはいえ研究者でない沙羅は色々と自信が持てないし、積極的に資料に目を通していなかった。これは沙羅の方にも問題があったかもしれない。
「……1993年?」
そう呟いて、ルイスは表情を変えた。
「サラ、君は何年生まれ?」
「ちょっとルイス、女性に聞くにはストレート過ぎない?」
カレンが窘めるが、沙羅は年齢を明かすことを嫌がる性質ではないのであっさり答える。
「95年生まれだよ。平成七年だ……あ」
言いながら沙羅は気づいた。ルイスを見ると、彼も興奮気味に頷く。
「ここにはアズモスの記載がある。でも1993年じゃ君は生まれてない!」
確か両親の結婚が93年だ。結婚と同時に渡米したというから、渡米前後の資料ということになる。そのとき沙羅は思い出した。
「渡米前からパターソン科学研究所と連携して研究を行っていて、研究のために研究所に招かれる形で渡米したと聞いたことがある。そうか、最初から気づけばよかった」
「つまり、どういうことだ?」
一人置いてけぼりを食らっていたウィルが説明を求める。ルイスが興奮したまま答える。
「アズモスの研究の方が先なんだ。この研究のために夫妻は渡米した。だとすると、サラの体質が後天的なものだという君の考えはある意味正しいかもしれない」
「それはさっき君たちが否定したじゃないか」
「ああそうだ。でもその方法は考察すべきだ……待って、生まれる前ならどうだ?」
ルイスの言葉にカレンが顔色を変える。
「まさか、胎児のときに摂取したってこと?」
「ああ。サオリは妊娠中、研究に携わる中で『それ』を摂取した。おそらくアスモデウスの原料を」
「そんな危険なことするか?」
「意図的とは限らない。キュリー夫妻は研究過程で浴びた放射線が彼らの体調を損なったといわれているし、ヒデヨ・ノグチは研究していた黄熱病に自らも罹患して命を落とした。研究者が研究対象によって健康を損ねた例はいくつも報告されている。サオリも無意識に摂取していたことは十分に考えられる。胎児の状態であれば、遺伝子に影響を及ぼす可能性は上がる。母体を通して少しずつ摂取し、その抗体を得た」
それを聞いて沙羅はおずおずと手を挙げた。
「あ……の、関係あるのかな。私も、娘を授かったときはアスモデウスを摂取していたんだけれど」
それを聞いた科学者二人は、少し考える素振りを見せて「No」を言った。
「君の娘は、母親の君がすでにそういう体質を持っていたわけだからね。単純に君から遺伝子を受けついだんじゃないかな」
「ええ。性行為から受精までは三日ほどかかるといわれているから、あなたの体質ならとっくに分解が終わっていたと思うわ」
「あ、でもコールマン捜査官の精子が影響を受けていた可能性はあるよね。専門外だからはっきりとはいえないけど」
「せっ……」
沙羅は顔が赤らむのを感じた。余計なことを聞かなければよかった。
とはいえこれは新事実だ。捜査が進展するかもしれないと期待せずにはいられなかった。
ルイスが殊更興味を示したのは、やはり科学捜査の結果だった。ルイスはカレンの分析結果を見て、素直に感嘆した。
「すごいな。よくここまで分析したね」
「天才にお褒めに預かり光栄だわ」
分析結果と自身が持つデータとを照合しているのだろう。腕を組んで難しい顔で黙り込んだルイスは、長い時間をかけたあと一つの可能性を口にした。
「ねえカレン。アズモスはある意味では完成していたとは考えられない?」
どういう意味だろうと思っている沙羅に反して、カレンはその言葉を予想していたようだった。
「やっぱりそう思う?」
「うん。こうなるとやっぱり……」
ルイスが珍しく言葉を濁す。沙羅には話が飲み込めなかった。
「カレン、ルイス。どういう意味?」
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「つまり君が薬の原材料――アズモス・プランツじゃないかって話だ」
「まさか」
沙羅はにわかに信じがたかった。母がそんな研究をするなんて。
「サオリの研究資料の中に、君に関する記述やデータが一切ない。ここまで類似しているのに、だ。これは不自然だよ」
「母が私の血液から『アズモス』を作り出したっていうのか?」
「それならサオリ・ハヤサカが発表できなかった理由に説明がつく。娘の体質を救うどころか娘を生贄にするような研究なんだから」
「だから最重要部分を隠したのよ。だとしたら絶対、沙羅の血液から抗体を抽出する方法は別で保管されているはず」
ウィルが「待て待て」と口をはさむ。
「でもアズモスとアスモデウスの原材料は同じという話だったろう」
ウィルも二人の推測には懐疑的なようだ。
ルイスもカレンも頷いた。
「だから『ある意味』なんだよ。娘を材料にした薬なんて、サオリにとっちゃ完成とは言えないだろう。娘を生贄になんてできないんだから。ほかの方法を考えたはず。そしてアズモスの原料にたどり着いたんじゃないか? けれど研究過程でアスモデウスが生まれてしまった」
そこでウィルが言いにくそうに一つの可能性を口にした。
「本当に彼女が娘の体から薬を作った研究者だとしたら、サラの体質が後天的なものだという可能性もあるんじゃないか? ほら、血清療法なんかは動物に毒を投与して抗体を作らせるだろう」
毒を投与されることで抗体がつくられるなら、さおりが娘の体でそれを行ったのではないかというのだ。
ウィルの指摘にかっと頭に血が上るのを感じた。
だが二人の研究者は、どちらも首を振る。
「完全に否定はできないけれど、アスモデウスは大の大人でも少量で命を落とすことがある。体の小さな子どもにそれをやってしかも生き延びているなんて、可能性は低いと思うわ」
「そうだね、僕もカレンに同意するよ。予防接種みたいに子どものころに投与された可能性も考えるべきかと思ったけれど、ワクチンは毒性を抑えたものだ。それが成功していたならそもそもアズモスは完成していたといえるよ。今頃とっくに実用化されていただろうね。それがないということは未完成だったろうし、毒性がこのままの薬を幼児に投与するのはリスクがありすぎる。それにこの年齢まで抗体が持続する可能性は低いかな。もちろんそういう抗体もあるけれど、アスモデウスでほかにサラのような薬効体質を得た事例はないし」
「ええ、リョウもその症状はないわね」
カレンとルイスの考察に、沙羅は冷静さを取り戻した。
ウィルが気まずそうに詫びる。
「いやすまん。君のお母さんを貶めたいわけじゃなかったんだが、可能性はすべて検討すべきかと」
「うん。私こそ冷静になれなくてすまない。ウィルは自分の仕事をしているだけだ」
こういうとき自分が情けなくなる。沙羅だって組織は違えど捜査官だった。捜査はあらゆる可能性を考慮すべきだ。それなのに身内のこととなると冷静さを欠いてしまう。それを実感する。根拠のない先入観は判断を鈍らせるだけだというのに。
反省する沙羅に気づかず、ルイスは考察を続けた。
「これは推測だけど、君の体質はリスクが大きい。サオリはサラの体質に有効な薬物投与の方法を探していたんじゃないかな? その過程で彼女の血液から抗体を分離する方法を見つけた」
「確かに、抗体が取り出せればそれを無効にする研究にとりかかれるわ。その分離したものがアズモスだったのね」
さっきは母が沙羅を実験体にしたように聞こえて否定的に考えてしまったが、確かにそれならば大いにあり得ると思った。
「アズモスそのものが、サラの体質を研究する上で生まれた副産物だったんだよ。研究が派生していくことは珍しいことじゃない。それを薬物中毒の治療に転用することを思いつき、アズモスの研究を進めていた」
「彼女ほど優秀な研究者なら大いにあり得る話ね。それがサラに伝えられていないってことは、サラの体質に有効な方法は見つからなかったのかしら」
「そうだね。僕も五年前のサンプルを研究していたからなんとか遅効性の錠剤を作れたけど、完全に無効化するには至っていない。難しい研究だと思う」
「じゃあこのドクター・アマヤはサオリ以上に優秀なんだな。サラに有効な薬の組み合わせをいくつも発見してる」
ウィルの言葉にルイスは完全には同意しなかった。
「優秀なのは同意するけど、どちらがという話じゃないよ。アプローチが違うからね。それにドクター・アマヤのやり方だと試していない薬の組み合わせに対応するのが難しい。想定以外の治療や薬が必要になったときに対処が遅れる。けれどサオリの研究が成功していたら、サラに普通の人間と同じような治療ができる」
さおりは沙羅を『特別な子』にしないように心を砕いてくれたのだ。
「母は私が普通の子と同じように色んなことを体験させてくれた。怪我をしそうなくらいやんちゃにしても『いいぞ、もっとやれ』と言って自分もやり始めるような人だった」
「それ、お父さんじゃなくてお母さんの話?」
「うん。子供らしい怪我も病気も『普通』に経験させたがってくれた。その治療が適切に行えるように研究してくれたんだな。父は少し心配性なところがあったけれど、それは私の体質のことがあったからかもしれない。それでも母や私の意見を尊重してくれた。私の両親はこんなにも愛情深い人たちだったんだなぁ」
最後の言葉は、半分独り言だった。遠い過去に思いを馳せる。もう記憶の中の声はおぼろげだ。顔はこうして写真があるから思い出せるけれど、細かい表情も覚えているというより印象が心に残っているだけだ。
「素敵なご両親ね」
「私は、怜が怪我や病気をしないように注意を払うので精一杯だった」
「もしかして、娘さんも同じ体質なの?」
沙羅は頷いた。驚いたカレンの様子に、朔人が送ってくれたカルテに娘のデータがなかったことを知る。朔人は沙羅の心情を汲んでくれたのだろう。怜をこの国で重要人物にしたくないと。本当に彼には助けられてばかりだ。
娘の怜が沙羅と同じ薬物耐性体質を持っているとわかったとき、怜を公園で遊ばせることさえ怖がっていたことがあった。常に神経を尖らせて過保護になり、精神をすり減らしてしまった。
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初めての育児、自分と同じ体質への不安。それなのにシングルマザーの意地のようなものがあり、実家にも頼らず疲弊しきっていた。疲れているのに心配で夜も眠れず、思えばノイローゼ一歩手前だった。朔人に諭されてようやく肩の力を抜いた。素直に弱音を吐けば、助けてくれる人はたくさんいた。
「ねえ、君のご両親のどちらかも同じ体質だったの?」
「え? どうだろう」
ルイスが急に質問を投げかけてくる。沙羅は少し考えてから答えた。
「そういえば父は下戸だから、違うと思う」
沙羅は薬物耐性の延長でザルだ。ワク(枠)と言われたこともある。
「サオリも違うんじゃないかしら。検死報告書では帝王切開の痕が確認されているもの」
手術ができたということは、麻酔薬が効いていたことになる。
「もしサラと同じ体質だったのなら、麻酔薬を有効にする方法を見つけていたことになるわ。けれどそれはさっきの推測と矛盾する」
「うん。父も……神崎茂も私の体質を知ったときは驚いていたし、両親は違ったと思う」
「じゃあ君がそんな体質を持っているのは何故だ? しかも娘も同じだというなら、遺伝的なものだと考えるのが普通だ。だが君に至るまでその体質が確認されていない。シゲル・カンザキはただの里親ではなく親族なんだよね? 驚いていたということは少なくとも近い世代の親族にその体質がいなかったんだろう。なのに君と娘は二代続けて薬物耐性体質を発現している。君が突然変異か何かでこの体質を持ってしまい、それが娘にも影響した、ってことかな? いやでも……」
ルイスは納得できないようだが、納得いく答えも見つけられないらしい。苛立ったように綺麗に撫でつけていた髪をがしがしと掻いた。髪を崩すと余計に印象が幼くなる。
言われてみれば確かに変だ。どうして沙羅と怜だけがこんな体質を持っているのだろう。
その内、ルイスはモニターに映されたある画像に目を留めた。
「この数字、なんだ?」
それはさおりの手書きメモの画像だった。右上に小さく数字が走り書きされている。カレンも困ったようにため息をついた。
「それがよくわからなくて。研究を示す分類コードか何かかと思ってるんだけど、本文中にそれらしいものがないのよね」
沙羅は眉をひそめた。そこには「H5/5/12」と書かれている。
「ほかにもあるの?」
「ええ」
カレンがキーボードを操作し、いくつかの数字の部分が並べられる。
「頭に『H』がついてる。なんの意味だろう」
真剣に悩む二人に、沙羅は気まずい思いをしながら声をかけた。
「あの……ただの日付じゃないか?」
「日付? これが?」
研究者二人の視線が刺さる。この二人が意味を見出すなら確かに何かのコードなのかもしれないが、凡人の沙羅には日付にしか見えない。
「でもそれじゃあ、サオリが亡くなった後の年にならない?」
「え?」
「だって事件があったのは2005年でしょう? 2012年じゃ七年も後だわ」
「それにこの『H』ってなに?」
「ああ、そうか。アメリカは年が最後だけど、日本は最初に書くんだよ。『H』は元号を指している。日本では西暦のほかに和暦も使われているんだけれど、アルファベットで省略した書き方をすることがあるんだ。『H』は『平成』。今は『令和』だから『R』だね。これは平成五年の五月十二日だ。1993年だよ」
それを聞いたカレンがいくつかの画像を見比べる。そして呆れ顔で言った。
「確かにそれなら時系列が合うわ。やだ、難しく考えすぎちゃってたのね。すぐサラに聞けばよかったわ」
カレンが恥ずかしそうにしている。とはいえ研究者でない沙羅は色々と自信が持てないし、積極的に資料に目を通していなかった。これは沙羅の方にも問題があったかもしれない。
「……1993年?」
そう呟いて、ルイスは表情を変えた。
「サラ、君は何年生まれ?」
「ちょっとルイス、女性に聞くにはストレート過ぎない?」
カレンが窘めるが、沙羅は年齢を明かすことを嫌がる性質ではないのであっさり答える。
「95年生まれだよ。平成七年だ……あ」
言いながら沙羅は気づいた。ルイスを見ると、彼も興奮気味に頷く。
「ここにはアズモスの記載がある。でも1993年じゃ君は生まれてない!」
確か両親の結婚が93年だ。結婚と同時に渡米したというから、渡米前後の資料ということになる。そのとき沙羅は思い出した。
「渡米前からパターソン科学研究所と連携して研究を行っていて、研究のために研究所に招かれる形で渡米したと聞いたことがある。そうか、最初から気づけばよかった」
「つまり、どういうことだ?」
一人置いてけぼりを食らっていたウィルが説明を求める。ルイスが興奮したまま答える。
「アズモスの研究の方が先なんだ。この研究のために夫妻は渡米した。だとすると、サラの体質が後天的なものだという君の考えはある意味正しいかもしれない」
「それはさっき君たちが否定したじゃないか」
「ああそうだ。でもその方法は考察すべきだ……待って、生まれる前ならどうだ?」
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「まさか、胎児のときに摂取したってこと?」
「ああ。サオリは妊娠中、研究に携わる中で『それ』を摂取した。おそらくアスモデウスの原料を」
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それを聞いて沙羅はおずおずと手を挙げた。
「あ……の、関係あるのかな。私も、娘を授かったときはアスモデウスを摂取していたんだけれど」
それを聞いた科学者二人は、少し考える素振りを見せて「No」を言った。
「君の娘は、母親の君がすでにそういう体質を持っていたわけだからね。単純に君から遺伝子を受けついだんじゃないかな」
「ええ。性行為から受精までは三日ほどかかるといわれているから、あなたの体質ならとっくに分解が終わっていたと思うわ」
「あ、でもコールマン捜査官の精子が影響を受けていた可能性はあるよね。専門外だからはっきりとはいえないけど」
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