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幸せな休日
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まぶたの向こうが眩しくて、目を開けた。昨日の夜、僕の腕枕ですやすやと眠っていた君は、もうベッドの上にはいなかった。
しまった。寝過ごしてしまった。時計はもうすぐ十時になろうとしているところを指していた。時は金なりなのに、もったいないことをしたな、と、少し後悔する。
甘い匂いがする。きっと君が朝ごはんを作っているんだ。寝ぼけたままの頭でなんの匂いか考える。昨日君がなにか言っていた気がする。
「ひたひたにしたほうが美味しい、だったか?」
ひたひたにする甘いもの、これじゃあなぞなぞだ。
「朝ごはんだよー」
元気な君の声がリビングから聞こえる。
「今いくよ」
ベランダには僕の真っ白なワイシャツが五枚干してある。きっと僕が起きてくる前に、君が洗っておいてくれたのだろう。それを見て、少し嬉しくなってしまう。君が洗濯したものは、同じ洗濯機を使っているのになんだか少しいい香りがするのだ。その香りが好きで、どうしているのか聞いたことがあるのだが、「乙女の秘密を暴こうとするなんて、無粋」と、一蹴されてしまったのだ。
食卓の上は鮮やかだった。花柄のランチョンマットの上には、ボウルに盛られたみずみずしいグリーンリーフとトマトのサラダや、スープカップに入ったキャベツや玉ねぎ、人参などの野菜がたっぷり入ったコンソメスープ、マグカップに入ったコーヒー。
「ああ、フレンチトーストか」
ランチョンマットの中央に置かれたそれを見て僕は呟いた。太陽みたいな黄色の上に、ところどころきつね色の焦げ目、表面でキラキラと輝いているグラニュー糖。バターの優しく甘い香りが腹の虫を刺激する。
「昨日言ったじゃない。忘れていたの?」
台所から彼女がひょっこり出てくる。黒くて長い髪を一つに縛り、赤いストライプ柄のエプロンをしている彼女の姿は、何度見てもかわいい。特に、エプロンにくまのアップリケを付けているところが、ほんわかとした彼女の雰囲気に似合っている。
「ひたひたにすることは覚えていたよ」
「それだけ覚えていてもなぞなぞが出来るだけじゃない」
晴れた空のような笑顔で彼女はそういった。
いただきます、と、手を合わせてからナイフとフォークを手に取る。まずはフレンチトーストを一口。
「美味しいよ、これ」
「よかった。全部食べてね」
笑っている彼女の前にはコーヒーが一杯だけ置いてあった。
いつものことだし、気にする必要のないことであるということなのもわかっているのだが、なんとなく申し訳ない気持ちになり、少し急ぐ。
そして、全て食べ終わったときにアラームが鳴った。
ピピピピ、ピピピピ、ピピピピ。
ただの電子音だが、それはこの幸せな時間お終わりを示していた。
「今日もありがとう」
僕はポケットから財布を取り出し、紙幣を三枚取り出した。
「十二時間分の料金、確認いたしました。今回のご利用、ありがとうございました」
その声はさっきまでの優しくて明るい彼女の声ではなかった。感情のない、まるでロボットのような声。
いや、まるで、ではない。彼女はロボットなのだ。
思い出の人を再現して、一緒に過ごしてくれるロボット。彼女はそういう目的のためだけに作られた人形で、彼女の中にある思い出も、僕への接し方も、全て作られたものなのだ。
「当機体のご利用は今回で三十回目となりますので、次回、割引が適用されます。今回ご利用分の記憶は前回同様に保存してよろしいでしょうか」
「ああ、頼むよ。次回もよろしく」
庭先まで彼女のことを見送る。
悲しくて、虚しい気持ちが胸を覆い尽くす。彼女を見送ったあとはいつもこんな気分になるのだ。
ライラックの木が五月の青い風で揺れる。
僕はまだ、彼女によく似た君のことを忘れられないでいる。君と仲が良かったのは、十年も前のことなのに。
なんでも知っている君だった。何でも出来る君だった。今吹いているような風のことを「薫風」ということを教えてくれたのも、花には花言葉があることを教えてくれたのも、コーヒーの味を教えてくれたのも、食わず嫌いで食べられなかったトマトを食べられるようにしてくれたのも、テスト勉強に付き合ってくれたのも、屋上の鍵のあけ方を教えてくれたのも、全部君だった。
「ライラックの花言葉、何だっけ」
君からこの場所で聞いたはずなのに思い出せなくて、スマホで調べる。
『ライラックの花言葉は「思い出」「友情」です。 紫色のライラックの花言葉は「恋の芽生え」「初恋」です』
ああそうだ。ライラックは君への思いだったんだ。だからきっと、この花を見ると君を思い出して、どうしようもないじれったい気持ちでいっぱいになるんだ。そしてまた、君を探してしまうんだ。
もう、話すこともないのに。
卒業してから、会う機会もなくなった。同窓会にも来ていないようだったが、噂によれば遠い街で頑張っているらしい。
そんな中、君は今、きっと僕の知らない誰かと幸せになっているに違いない。初恋とは、そういうものなのだ。
ざあっと木々が歌う。
空の青さが眩しかった。
しまった。寝過ごしてしまった。時計はもうすぐ十時になろうとしているところを指していた。時は金なりなのに、もったいないことをしたな、と、少し後悔する。
甘い匂いがする。きっと君が朝ごはんを作っているんだ。寝ぼけたままの頭でなんの匂いか考える。昨日君がなにか言っていた気がする。
「ひたひたにしたほうが美味しい、だったか?」
ひたひたにする甘いもの、これじゃあなぞなぞだ。
「朝ごはんだよー」
元気な君の声がリビングから聞こえる。
「今いくよ」
ベランダには僕の真っ白なワイシャツが五枚干してある。きっと僕が起きてくる前に、君が洗っておいてくれたのだろう。それを見て、少し嬉しくなってしまう。君が洗濯したものは、同じ洗濯機を使っているのになんだか少しいい香りがするのだ。その香りが好きで、どうしているのか聞いたことがあるのだが、「乙女の秘密を暴こうとするなんて、無粋」と、一蹴されてしまったのだ。
食卓の上は鮮やかだった。花柄のランチョンマットの上には、ボウルに盛られたみずみずしいグリーンリーフとトマトのサラダや、スープカップに入ったキャベツや玉ねぎ、人参などの野菜がたっぷり入ったコンソメスープ、マグカップに入ったコーヒー。
「ああ、フレンチトーストか」
ランチョンマットの中央に置かれたそれを見て僕は呟いた。太陽みたいな黄色の上に、ところどころきつね色の焦げ目、表面でキラキラと輝いているグラニュー糖。バターの優しく甘い香りが腹の虫を刺激する。
「昨日言ったじゃない。忘れていたの?」
台所から彼女がひょっこり出てくる。黒くて長い髪を一つに縛り、赤いストライプ柄のエプロンをしている彼女の姿は、何度見てもかわいい。特に、エプロンにくまのアップリケを付けているところが、ほんわかとした彼女の雰囲気に似合っている。
「ひたひたにすることは覚えていたよ」
「それだけ覚えていてもなぞなぞが出来るだけじゃない」
晴れた空のような笑顔で彼女はそういった。
いただきます、と、手を合わせてからナイフとフォークを手に取る。まずはフレンチトーストを一口。
「美味しいよ、これ」
「よかった。全部食べてね」
笑っている彼女の前にはコーヒーが一杯だけ置いてあった。
いつものことだし、気にする必要のないことであるということなのもわかっているのだが、なんとなく申し訳ない気持ちになり、少し急ぐ。
そして、全て食べ終わったときにアラームが鳴った。
ピピピピ、ピピピピ、ピピピピ。
ただの電子音だが、それはこの幸せな時間お終わりを示していた。
「今日もありがとう」
僕はポケットから財布を取り出し、紙幣を三枚取り出した。
「十二時間分の料金、確認いたしました。今回のご利用、ありがとうございました」
その声はさっきまでの優しくて明るい彼女の声ではなかった。感情のない、まるでロボットのような声。
いや、まるで、ではない。彼女はロボットなのだ。
思い出の人を再現して、一緒に過ごしてくれるロボット。彼女はそういう目的のためだけに作られた人形で、彼女の中にある思い出も、僕への接し方も、全て作られたものなのだ。
「当機体のご利用は今回で三十回目となりますので、次回、割引が適用されます。今回ご利用分の記憶は前回同様に保存してよろしいでしょうか」
「ああ、頼むよ。次回もよろしく」
庭先まで彼女のことを見送る。
悲しくて、虚しい気持ちが胸を覆い尽くす。彼女を見送ったあとはいつもこんな気分になるのだ。
ライラックの木が五月の青い風で揺れる。
僕はまだ、彼女によく似た君のことを忘れられないでいる。君と仲が良かったのは、十年も前のことなのに。
なんでも知っている君だった。何でも出来る君だった。今吹いているような風のことを「薫風」ということを教えてくれたのも、花には花言葉があることを教えてくれたのも、コーヒーの味を教えてくれたのも、食わず嫌いで食べられなかったトマトを食べられるようにしてくれたのも、テスト勉強に付き合ってくれたのも、屋上の鍵のあけ方を教えてくれたのも、全部君だった。
「ライラックの花言葉、何だっけ」
君からこの場所で聞いたはずなのに思い出せなくて、スマホで調べる。
『ライラックの花言葉は「思い出」「友情」です。 紫色のライラックの花言葉は「恋の芽生え」「初恋」です』
ああそうだ。ライラックは君への思いだったんだ。だからきっと、この花を見ると君を思い出して、どうしようもないじれったい気持ちでいっぱいになるんだ。そしてまた、君を探してしまうんだ。
もう、話すこともないのに。
卒業してから、会う機会もなくなった。同窓会にも来ていないようだったが、噂によれば遠い街で頑張っているらしい。
そんな中、君は今、きっと僕の知らない誰かと幸せになっているに違いない。初恋とは、そういうものなのだ。
ざあっと木々が歌う。
空の青さが眩しかった。
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