戸棚の中の骨 2

三塚 章

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 夫と死別したあと、美咲さんは一人で娘のアイちゃんを育てていたそうです。
 アイちゃんはそのとき幼稚園の年長さんで、だんだん我も出てきてダダもこねる時期。急いで幼稚園に行かないといけないのに、玄関先で「このハンカチは嫌だから他のを持っていく」とか、もっとひどいときは「いかない」とぐずったりして美咲さんを困らせることもあったそうです。
 本当はもっと丁寧になだめて、納得させた状態で連れて行ってあげたかったけれど、美咲さんもこの後仕事があるし、半ば無理やりに登園させていたそうです。

 ある日、いつもの通り、美咲さんがアイちゃんを幼稚園に送っていく途中のことです。信号で止まっていると、自転車の後ろに座っていたアイちゃんが、急にもぞもぞと動いたのです。
 バランスをくずしかけて、美咲さんはあわてて足をペダルからおろし、地面で踏ん張りました。
「ちょっと、どうしたのよ急に動いて! 倒れる所だったじゃない!」
 思わず怒鳴った美咲さんが振り向くと、アイちゃんはじっと後ろをみつめていました。
「今ね、変な人いた」
 アイちゃんの視線は、電信柱の陰に向けられていました。
「変な人って?」
 まさか変質者?
 目を凝らしてみても、怪しげな人はいません。
「誰もいないじゃない! 遅れちゃう! 行くよ!」
 そう言って、視線を前に戻そうとした所です。
(あれ?)
 視界の隅で、さっと何か黒い物が動いた気がしました。
 慌てて見直しても、そこには電信柱と壁しかありません。
 なんだか、薄気味悪い。
(気のせいよね、きっと)
 美咲さんは今度こそペダルを踏みました。

 でも、それからもアイちゃんは毎日、登園の時に同じようなような事を言うようになったのです。
「また変な人がいた!」
「また? どんなの?」
「まっくろくろでわかんない」
(気味が悪い……幽霊? それとも生霊?)
 考えてみたけれど、自分の周りに、恨みを遺して死んだ人はいません。
 ああ、たぶん、充分かまってあげられないからアイちゃんがスネていたずらしているんだろう。ちょっとした嘘をついて、母親の気を引こうとしているのだろう。
(なんとかしないと)
 美咲さんはそう思いながら、ほったらかしにしていました。

 そのころ美咲さんは、コールセンターで働いていました。商品にかんする質問とか、苦情とかに対応する仕事です。
 かけてくる人の中には、セクハラまがいのからかいをしてきたり、訳の分からないイチャモンをつけてくる者もいて、すごくストレスがたまるそうです。
 正直、今すぐにでも仕事を辞めたかったのですが、すぐに新しい職を見つけるのも大変でしょうし、アイちゃんを養わないといけないため、耐えるしかない状況でした。
 でも、そんな中でも心の慰めはあって、それがSV(スーパーバイザー)の林さんでした。(SVというのは現場を監督する人のことだそう)
 林さんは、優しくイケメンで、他の女性社員にも人気がある人だそうです。美咲さんと林さんは気が合って、よく話をしていたそうです。そのおしゃべりの時間が、美咲さんの癒しになっていたそうです。
(SVは、私のことが好きなんだわ)
 うぬぼれや願望や勘違いではなく、林さんの目や、口調から、美咲さんはそれを前々からうっすらと感じ取っていたというのです。
 ある日、とうとう「美咲さん、今度夕食でもどうですか」と誘いをうけました。
 美咲さん自身も、彼を憎からず思っていたし、正直うまく結婚でもできれば暮らしも楽になるだろうと思っていました。
(けど……)
 アイちゃんは人見知りするタイプの子で、林さんを嫌がるかもしれない。
 それに、彼に限ってとは思うけど、連れ子を虐待する男のニュースなんて珍しくもないし、そう思うと関係を進める気にはなれなかった。
 だから、その場はやんわりと断ったんですけど、そのあと同僚の石橋さんが声をかけてきたそうです。
「なによ、ふっちゃったの? もったいない」
「ええ、まあ」
「何でよー、もったいないじゃない」
 みたいなことを話していたら、不意に石橋さんが顔を強ばらせたそうです。
「ねえ、あの……どうしたの?」
 美咲さんが聞くと、石橋は言いづらそうに「なんだか、最近変なことがあったりしなかった?」。
「え?」
 道でアイちゃんが見たという黒い影。
 それを美咲さんは思いだしました。
(やっぱり、幽霊?)
 でも、何度考えても本当に心当たりはないのです。
(ひょっとしたら、生霊? もしかして、林さんに想いを寄せている女性でもいるの? そして嫉妬のあまり、その女性の生霊になって私に?)
 でも、我ながらそれはあまりにも自信過剰というか自意識過剰だろうと反省をして。
「い、いえ。別になにもないけど」
「それならいいけど。なにか、嫌な予感がしてさ」
 そういえば、石橋さんは仲間内で『勘がいい人』で通っている。
 例えば、『なんだか、今日は同僚の誰々さんが来ない気がする』と言ったら、本当に来なかった、とか。なんでも、霊感があるとかないとか、同僚の間で話題になった事があったそうで。
(くだらない)
 あれはただの見間違いだ。
「でもまあ、念のためにこれを持って」
 そう言って、石橋さんはバッグについていたお守りをくれたそうです。

 それから家に帰って、お風呂を出て、アイちゃんの髪を乾かしていた時。
 アイちゃんが、何かを探しているように、あちこちに視線をさ迷わせているのに美咲さんは気がつきました。
「どうしたの?」
「あのね……」
 怒られるのを恐れるように、おずおずと娘は話し出した。
「誰かいる気がするの」
「いるって?」
 思わずタオルで娘の髪を拭く手を止めました。
(強盗でも入ったの?)
 包丁を持った男が、家具に隠れている所を想像して、美咲さんは震えあがったそうです。
 思わず耳を澄ませましたが、変わった音はしません。
 怖くなって、必死になってアイちゃんに聞きました。
「ねえ、何がいるの?」
「わかんない。でも、こっちを見てるの」
 娘は眉をよせていいました。
 そっと部屋の外をのぞいても、誰もいません。
「気のせいよ。さあ、寝るわよ」

 けれど、その日の深夜、娘のうなされる声で美咲さんは目を覚ましました。
「どうしたの?」
 ぼんやりしたままの頭を押さえて、美咲さんは体をおこしました。
 部屋の隅で、キィッと何かがきしみました。
 閉めたはずの寝室の戸が、いつの間にか薄く開いていました。そのドアの影。体を半分隠すようにして、黒い塊のようなものが立っていました。
「え……?」
 自転車で転びかけた時に見た、あれ。
 黒い影は、明らかに若い女性の形をしていました。でも、黒い粘土で作られたように、目や口は闇に沈んでぼやけ、顔をはっきりと見分ける事ができないのです。
 まるでヒールが片方折れた靴を履いているように、ギクシャクとした歩き方でその影が部屋に入り込んできました。
 隣のアイちゃんを確認すると、もぞもぞと小さい手足を動かし、力なく泣き声をあげ続けています。
 娘を助けないと。そう思ったけど、驚きと恐怖のあまり体が動きません。
 人影は、ゆっくりと二人の眠っている布団の傍に立ちました。
 そしてしゃがみこむようにしてアイの顔をのぞきこみます。 
(どうしよう、どうしよう)
 ぐるぐるする頭の中で、石橋さんからもらったお守りが頭に浮びます。
 近くに置いてあった自分のバッグにはい寄りました。
 娘の泣き声が、いっそうひどくなります。
 バッグに手を突っ込んで、ポーチやスマホを放り出すようにしながら、震える手でなんとかお守りを探し出します。
 振り返ると、人影は両手をアイちゃんの細い首に回していました。
 アイちゃんの泣き声が少しずつ細くなり、聞こえなくなっていく。暗闇の中でも娘の顔がドス黒くなっていくのが分かります。
 このままではアイちゃんが殺されてしまう。
 硬く両手でお守りを握りしめ、その黒い影を突きつけました。
 黒い影が、カラクリじみた動きで首をめぐらし、美咲さんを睨みつけたそうです。
 美咲さんは殴られたような衝撃を受けました。その顔を見た瞬間、ノドに仕えたものがふっと胃の中に落ちたように、幽霊の正体が分かったそうです。
 獣のように歯をむき出し、目を見開いて睨みつけているのは、毎日毎日鏡で見ている自分の顔。

 アイさえいなければ。

「きっと、心の奥底でそう思っていたんでしょうね」
 美咲さんは、苦笑しながら言いました。
 アイさえいなければ、もっと生活が楽になるのに。
 アイさえいなければ、ストレスだらけの仕事を辞められるかも知れないのに。
 アイさえいなければ、林さんと新しい生活を始めることができるかも知れないのに。
 そんな思いが、自分の生霊を作り出したのだろう、と。
 もう一人の自分は、お守りを見ると悔しそうな顔をして消えてしまったそうです。

「実は今まで、実家とあまり連絡を取らなかったのよ」
 美咲さんは言いました。
「母親と少し仲が悪かったから。でも、そんなこと言っていられないものね。だから、あまりにも大変なときは、少し実家や友人を頼ることにしたの。余裕のない母親に育てられる子供もかわいそうだし。そうやって、余裕を作ったのが良かったのか、黒い影はもう出てこなくなったわ」
 そういって、美咲さんは笑っていました。
 「よかったですね」といいながら、私は少し心配になりました。
 生霊ということは、あの黒い影は美咲さんの一部なのでしょう。
 自分自身の生霊――自分の魂の一部――をお守りで消してしまったら、その後人間は無事でいられるものなのでしょうか。
 美咲さんに、忠告した方がいいかとも思いました。ちゃんと神社やお寺に相談したほうがいい、と。でも、結局やめることにしました。
 ここだけの話、私、美咲さんのこと、あまり好きではないのです。
 
 
   
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