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「はぁ…………」
誰もいなくなった夜8時のオフィスに、今日何度目かわからない特大の溜息が響いた。
パソコンのモニター横に置かれたスマホの画面には、無情にも不動産管理会社からのメッセージが光っている。
『上の階の配管が破裂しまして、結城様のお部屋も深刻な水漏れ被害に遭っております。復旧工事のため、本日からしばらくはご入室いただけません。大変申し訳ありませんが――』
つまり、今夜帰る家がない、ということだ。
結城湊(ゆうきみなと)は、突っ伏すようにデスクに額をぶつけた。
「嘘だろ……なんでこんな時に……」
昨日、5年付き合った恋人から『他に好きな人ができた』という身勝手極まりないLINE一通で一方的にフラれたばかりなのだ。
心にぽっかりと穴が空き、食事も喉を通らないというのに、今度は物理的な居場所まで失ってしまった。
ホテルを探そうにも、給料日前で財布の中身は心もとない。ネットカフェの個室で、荷物を抱えて夜を明かす自分の姿を想像し、湊はさらなる絶望に肩を落とした。
「結城先輩? まだ残ってたんですか」
背後からかけられた爽やかな声に、湊はビクッと肩を揺らした。
振り返ると、そこに立っていたのは営業部のエースであり、社内一のハイスペック男子と名高い後輩――瀬野拓海(せのたくみ)だった。
「せ、瀬野くん!? もう帰ったんじゃ……」
「デスクに忘れ物しちゃって。……それより先輩、すごく顔色が悪いですよ。どうしたんですか?」
瀬野は長身をかがめ、湊の顔を覗き込んでくる。
整った顔立ちに、仕立てのいいスーツ。どこからどう見ても非の打ち所がない完璧な後輩に、今の自分の惨めな状況を知られるのだけは避けたい。
湊は慌てて首を横に振った。
「ななな、なんでもないよ! ちょっと疲れただけだから! 瀬野くんは早く帰りなよ」
「なんでもない顔じゃありませんよ。……僕じゃ、先輩の頼りにはなりませんか?」
スッと目を細め、少しだけ傷ついたような表情を作る瀬野。
ズルい。そんな顔をされたら、面倒見の良さだけが取り柄の湊は何も言えなくなってしまう。
「……あのね。実は……」
瀬野の優しく、けれど絶対に逃がさないような静かな圧に負け、湊はぽつりぽつりと事情を話し始めた。
長年の恋人に浮気されて振られたこと。その翌日である今日、アパートが水漏れで住めなくなったこと。
話し終える頃には、情けなさで泣きたくなっていた。
「……というわけで、今から安いネカフェでも探そうかと思ってて。あはは、俺ってほんと、ついてないよなぁ……」
自嘲気味に笑って見せた湊だったが、瀬野からの返事はない。
不思議に思って顔を上げると、瀬野はうつむき、前髪の影に表情を隠していた。
(あ、呆れられたよな……。そりゃそうだ、27歳にもなって情けなさすぎる)
「ごめん、変な話聞かせて。気にしないで帰っ――」
「先輩」
遮るように呼ばれ、息を呑む。
顔を上げた瀬野の瞳の奥には、一瞬、獲物を見つけた肉食獣のような、ひどく暗くて熱い光が走ったように見えた。
しかし瞬きをした次の瞬間、瀬野はいつもの「完璧に爽やかな後輩」の顔に戻っていた。
「それは大変でしたね。……辛かったでしょう」
「瀬野、くん……」
「そんなボロボロの先輩を、ネカフェなんかに泊まらせるわけにはいきません。……決めました」
瀬野は湊の手首をそっと、しかし絶対に逃さない強さで掴んだ。
「新しい部屋が見つかるまで、僕の家に来てください」
「……え?」
「うちのマンション、無駄に広くてゲストルームも余ってるんです。ちょうど一人暮らしも寂しかったところですし」
「いやいやいや! 駄目だよ、瀬野くんにそんな迷惑かけられないって!」
慌てて断ろうとする湊に対し、瀬野は首を傾げ、極上の――それこそ後光が差して見えるような、優しくて甘い微笑みを浮かべた。
「迷惑だなんてとんでもない。大好きな先輩が困っているのに、放っておけるわけないじゃないですか」
「っ……」
「さ、行きましょう。荷物は僕が持ちますから」
有無を言わさぬ手際の良さで、瀬野は湊の鞄をひょいと持ち上げる。
強引なのに、そのエスコートはどこまでもスマートで優しい。
心身ともに限界を迎えていた湊は、その優しさに抗うことができず……「じゃあ、部屋が見つかるまで……少しだけ」と、頷いてしまうのだった。
「はぁ…………」
誰もいなくなった夜8時のオフィスに、今日何度目かわからない特大の溜息が響いた。
パソコンのモニター横に置かれたスマホの画面には、無情にも不動産管理会社からのメッセージが光っている。
『上の階の配管が破裂しまして、結城様のお部屋も深刻な水漏れ被害に遭っております。復旧工事のため、本日からしばらくはご入室いただけません。大変申し訳ありませんが――』
つまり、今夜帰る家がない、ということだ。
結城湊(ゆうきみなと)は、突っ伏すようにデスクに額をぶつけた。
「嘘だろ……なんでこんな時に……」
昨日、5年付き合った恋人から『他に好きな人ができた』という身勝手極まりないLINE一通で一方的にフラれたばかりなのだ。
心にぽっかりと穴が空き、食事も喉を通らないというのに、今度は物理的な居場所まで失ってしまった。
ホテルを探そうにも、給料日前で財布の中身は心もとない。ネットカフェの個室で、荷物を抱えて夜を明かす自分の姿を想像し、湊はさらなる絶望に肩を落とした。
「結城先輩? まだ残ってたんですか」
背後からかけられた爽やかな声に、湊はビクッと肩を揺らした。
振り返ると、そこに立っていたのは営業部のエースであり、社内一のハイスペック男子と名高い後輩――瀬野拓海(せのたくみ)だった。
「せ、瀬野くん!? もう帰ったんじゃ……」
「デスクに忘れ物しちゃって。……それより先輩、すごく顔色が悪いですよ。どうしたんですか?」
瀬野は長身をかがめ、湊の顔を覗き込んでくる。
整った顔立ちに、仕立てのいいスーツ。どこからどう見ても非の打ち所がない完璧な後輩に、今の自分の惨めな状況を知られるのだけは避けたい。
湊は慌てて首を横に振った。
「ななな、なんでもないよ! ちょっと疲れただけだから! 瀬野くんは早く帰りなよ」
「なんでもない顔じゃありませんよ。……僕じゃ、先輩の頼りにはなりませんか?」
スッと目を細め、少しだけ傷ついたような表情を作る瀬野。
ズルい。そんな顔をされたら、面倒見の良さだけが取り柄の湊は何も言えなくなってしまう。
「……あのね。実は……」
瀬野の優しく、けれど絶対に逃がさないような静かな圧に負け、湊はぽつりぽつりと事情を話し始めた。
長年の恋人に浮気されて振られたこと。その翌日である今日、アパートが水漏れで住めなくなったこと。
話し終える頃には、情けなさで泣きたくなっていた。
「……というわけで、今から安いネカフェでも探そうかと思ってて。あはは、俺ってほんと、ついてないよなぁ……」
自嘲気味に笑って見せた湊だったが、瀬野からの返事はない。
不思議に思って顔を上げると、瀬野はうつむき、前髪の影に表情を隠していた。
(あ、呆れられたよな……。そりゃそうだ、27歳にもなって情けなさすぎる)
「ごめん、変な話聞かせて。気にしないで帰っ――」
「先輩」
遮るように呼ばれ、息を呑む。
顔を上げた瀬野の瞳の奥には、一瞬、獲物を見つけた肉食獣のような、ひどく暗くて熱い光が走ったように見えた。
しかし瞬きをした次の瞬間、瀬野はいつもの「完璧に爽やかな後輩」の顔に戻っていた。
「それは大変でしたね。……辛かったでしょう」
「瀬野、くん……」
「そんなボロボロの先輩を、ネカフェなんかに泊まらせるわけにはいきません。……決めました」
瀬野は湊の手首をそっと、しかし絶対に逃さない強さで掴んだ。
「新しい部屋が見つかるまで、僕の家に来てください」
「……え?」
「うちのマンション、無駄に広くてゲストルームも余ってるんです。ちょうど一人暮らしも寂しかったところですし」
「いやいやいや! 駄目だよ、瀬野くんにそんな迷惑かけられないって!」
慌てて断ろうとする湊に対し、瀬野は首を傾げ、極上の――それこそ後光が差して見えるような、優しくて甘い微笑みを浮かべた。
「迷惑だなんてとんでもない。大好きな先輩が困っているのに、放っておけるわけないじゃないですか」
「っ……」
「さ、行きましょう。荷物は僕が持ちますから」
有無を言わさぬ手際の良さで、瀬野は湊の鞄をひょいと持ち上げる。
強引なのに、そのエスコートはどこまでもスマートで優しい。
心身ともに限界を迎えていた湊は、その優しさに抗うことができず……「じゃあ、部屋が見つかるまで……少しだけ」と、頷いてしまうのだった。
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