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10話
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「ラーク様。おはようございます」
朝の陽光が差し込む廊下で、銀のトレイを持ったメイの横から、ルカがふわりと柔らかい微笑みを向けた。
かつての虚ろで怯えきっていた姿はもうない。大声で笑ったりはしないが、まるで春のひだまりのように穏やかで、静かな安心感に包まれたその表情を真正面から浴びて、俺は危うく呼吸を忘れるところだった。
ドクンッ、と胸の奥で心臓が暴れ回るのを必死に押さえ込み、俺は努めて平静な――いつも通りの無表情な――顔を作って頷いた。
「あぁ。おはよう、ルカ。……昨夜はよく眠れたか?」
「はい。ここはとても静かで温かくて……ぐっすり眠れました。ラーク様は、これからお仕事ですか?」
「あぁ、執務室で少し書類を片付けようと思ってな」
「そうですか。……あまり、無理しないでくださいね」
ルカが少しだけ首を傾げて、静かな声で気遣ってくれる。ただそれだけのことで、俺の胸には温かい湯だまりのような幸福感が満ちていった。
「……あぁ。ありがとう。君も、無理をして倒れないようにな」
「ふふっ、はい」
俺が不器用にルカの亜麻色の髪を撫でると、ルカは目を細め、心地よさそうに小さく笑った。
その光景を少し離れた場所から見ていたメイと、庭の手入れの手を止めたガルドが、何やら顔を見合わせて「ふふっ」「おいおい」と生温かい笑みを浮かべて頷き合っているのが視界の端に映った。
屋敷の者たちがルカを温かく受け入れてくれている事実に、俺は領主として深く安堵した。
朝食後。
執務室で山積みの書類仕事に目を通していると、コンコンとノックの音がして、お茶を持ったメイが入ってきた。
「旦那様、お疲れ様です。少し休憩になさいませんか?」
「あぁ、すまない。助かる」
書類から目を離し、紅茶のカップを受け取る。メイはそのまま退出するかと思いきや、少しもじもじとした様子で机の前に立った。
「……何か報告か?」
「いえ、報告というほどではないのですが……。その、今朝のお二人を拝見していて、ルカ様がすっかり旦那様に心を開かれたようで、私もとても嬉しく思いまして」
「あぁ。本当に、よかったと思っている。あんなにも傷ついていた彼が、穏やかに笑ってくれるようになったのだからな」
俺がしみじみと頷くと、メイはなぜか少しだけ身を乗り出し、声を潜めて尋ねてきた。
「それで、あの……旦那様は、ルカ様のこと、その……『特別』に、お好きなんですよね?」
メイの問いかけに、俺は少しだけ首を傾げた。
「当然だろう。彼を保護したのは俺だ。あんなにも悲惨な境遇を生き抜き、それでも他者を気遣える優しさを持っている。これ以上ないほど可愛らしい青年だとは思っている。だからこそ、この屋敷で何不自由なく守ってやりたいと……」
「あっ、いえ! そういうことではなくてですね!」
メイがなぜか慌てたように両手を振る。
「私の言っている『好き』は、その……恋愛対象として、伴侶としてお迎えしたいという、そういう意味の……」
「――なっ!?」
俺は驚きのあまり、危うく紅茶をこぼしそうになった。
「ば、馬鹿なことを言うな! なぜそうなる!」
「え?」
「ルカはまだ二十歳の、前途ある青年だぞ。それに、心身ともに疲弊していたのがようやく落ち着きを取り戻し始めたばかりだ。そんな彼に対し、保護者である俺が『恋愛的な下心』など抱いてみろ。…気持ち悪いだろう!」
俺は声を大にして反論した。
そうだ。俺がルカに抱いているのは、純粋な庇護欲であり、彼が幸せになるのを見届けたいという保護者としての責任感だ。彼の穏やかな笑顔を見て心臓が跳ねるのも、ただ彼が「あまりにも可愛いから」であって、決して不純な感情ではない。
「俺はただ、彼が安らげる場所を提供したいだけだ。彼を恋愛対象として見るなど……そんな破廉恥なこと、微塵も考えていない」
きっぱりと言い切った俺を見て、メイは目を見開き、そして……みるみるうちに、その顔から表情が抜け落ちていった。
「…………旦那様」
「な、なんだ」
「……まさかとは思いますけど。ご自身のお気持ちに、完全に『無自覚』ですか……?」
メイの呆れ果てたような、むしろ絶望すら混じったような声に、俺は眉をひそめた。
「無自覚も何もない。俺は彼を、一人の人間として大切に思っているだけだ」
「…………」
メイは深く、深く、地の底から響くようなため息を吐いた。
「……左様でございますか。私の勘違いだったようです。出過ぎた真似をして申し訳ありませんでした」
「いや、分かってくれればいい」
「……はい。では、私はこれで……」
メイはこれ以上俺と会話するのを諦めたのか、どこか遠い目をしながら一礼し、足早に執務室を出て行った。
(……何だったのだ、一体)
俺は少し腑に落ちない思いを抱えながらも、冷めかけた紅茶を飲み、再び書類の山へと向き直った。
バタンッ、と執務室の重い扉を閉めた瞬間。
メイは頭を抱え、その場に崩れ落ちそうになった。
(嘘でしょ……あれだけ過保護に溺愛しておいて、ただの『保護者のつもり』だったの……!?)
元凄腕暗殺者であるメイの観察眼をもってしても、信じがたい事実だった。
あんなにも分かりやすくルカの挙動一つに一喜一憂し、顔を赤くし、触れることすら躊躇うほどの執着を見せておきながら、本人は「不純な感情はない」「ただの親心だ」と思い込んでいるとは。
「……重症だわ。旦那様、戦以外のことになると本当にポンコツなんだから……!」
メイは足早に庭へと向かい、作業をしていたガルドの背中をバシッと叩いた。
「痛っ! なんだよいきなり!」
「ガルド、緊急事態よ。旦那様、ご自分のルカ様への気持ちに、1ミリも気づいていらっしゃらなかったわ」
「……はぁっ!?」
ガルドは持っていた剪定バサミを取り落とし、あんぐりと口を開けた。
「嘘だろ!? あんなに分かりやすくデレデレしてて!? 今朝なんか、ルカ様に髪撫でさせてもらって、後ろに尻尾が見える勢いで喜んでたじゃねぇか!」
「それが、全部『純粋な庇護欲』だと思い込んでいらっしゃるのよ……! このままじゃ、ルカ様も『親切な保護者』としてしか旦那様を見なくなってしまうわ!」
ガルドも頭を抱え、「あの堅物が……」と天を仰いだ。
「こりゃあ、俺たちが一肌脱ぐしかねぇな」
「ええ。あの不器用で無自覚な旦那様に、ご自身の『恋心』を自覚させるための作戦を立てるわよ!」
かくして、屋敷の裏側では、ポンコツな主の恋を成就させるための「使用人たちによる作戦会議」が密かに幕を開けたのだった。
朝の陽光が差し込む廊下で、銀のトレイを持ったメイの横から、ルカがふわりと柔らかい微笑みを向けた。
かつての虚ろで怯えきっていた姿はもうない。大声で笑ったりはしないが、まるで春のひだまりのように穏やかで、静かな安心感に包まれたその表情を真正面から浴びて、俺は危うく呼吸を忘れるところだった。
ドクンッ、と胸の奥で心臓が暴れ回るのを必死に押さえ込み、俺は努めて平静な――いつも通りの無表情な――顔を作って頷いた。
「あぁ。おはよう、ルカ。……昨夜はよく眠れたか?」
「はい。ここはとても静かで温かくて……ぐっすり眠れました。ラーク様は、これからお仕事ですか?」
「あぁ、執務室で少し書類を片付けようと思ってな」
「そうですか。……あまり、無理しないでくださいね」
ルカが少しだけ首を傾げて、静かな声で気遣ってくれる。ただそれだけのことで、俺の胸には温かい湯だまりのような幸福感が満ちていった。
「……あぁ。ありがとう。君も、無理をして倒れないようにな」
「ふふっ、はい」
俺が不器用にルカの亜麻色の髪を撫でると、ルカは目を細め、心地よさそうに小さく笑った。
その光景を少し離れた場所から見ていたメイと、庭の手入れの手を止めたガルドが、何やら顔を見合わせて「ふふっ」「おいおい」と生温かい笑みを浮かべて頷き合っているのが視界の端に映った。
屋敷の者たちがルカを温かく受け入れてくれている事実に、俺は領主として深く安堵した。
朝食後。
執務室で山積みの書類仕事に目を通していると、コンコンとノックの音がして、お茶を持ったメイが入ってきた。
「旦那様、お疲れ様です。少し休憩になさいませんか?」
「あぁ、すまない。助かる」
書類から目を離し、紅茶のカップを受け取る。メイはそのまま退出するかと思いきや、少しもじもじとした様子で机の前に立った。
「……何か報告か?」
「いえ、報告というほどではないのですが……。その、今朝のお二人を拝見していて、ルカ様がすっかり旦那様に心を開かれたようで、私もとても嬉しく思いまして」
「あぁ。本当に、よかったと思っている。あんなにも傷ついていた彼が、穏やかに笑ってくれるようになったのだからな」
俺がしみじみと頷くと、メイはなぜか少しだけ身を乗り出し、声を潜めて尋ねてきた。
「それで、あの……旦那様は、ルカ様のこと、その……『特別』に、お好きなんですよね?」
メイの問いかけに、俺は少しだけ首を傾げた。
「当然だろう。彼を保護したのは俺だ。あんなにも悲惨な境遇を生き抜き、それでも他者を気遣える優しさを持っている。これ以上ないほど可愛らしい青年だとは思っている。だからこそ、この屋敷で何不自由なく守ってやりたいと……」
「あっ、いえ! そういうことではなくてですね!」
メイがなぜか慌てたように両手を振る。
「私の言っている『好き』は、その……恋愛対象として、伴侶としてお迎えしたいという、そういう意味の……」
「――なっ!?」
俺は驚きのあまり、危うく紅茶をこぼしそうになった。
「ば、馬鹿なことを言うな! なぜそうなる!」
「え?」
「ルカはまだ二十歳の、前途ある青年だぞ。それに、心身ともに疲弊していたのがようやく落ち着きを取り戻し始めたばかりだ。そんな彼に対し、保護者である俺が『恋愛的な下心』など抱いてみろ。…気持ち悪いだろう!」
俺は声を大にして反論した。
そうだ。俺がルカに抱いているのは、純粋な庇護欲であり、彼が幸せになるのを見届けたいという保護者としての責任感だ。彼の穏やかな笑顔を見て心臓が跳ねるのも、ただ彼が「あまりにも可愛いから」であって、決して不純な感情ではない。
「俺はただ、彼が安らげる場所を提供したいだけだ。彼を恋愛対象として見るなど……そんな破廉恥なこと、微塵も考えていない」
きっぱりと言い切った俺を見て、メイは目を見開き、そして……みるみるうちに、その顔から表情が抜け落ちていった。
「…………旦那様」
「な、なんだ」
「……まさかとは思いますけど。ご自身のお気持ちに、完全に『無自覚』ですか……?」
メイの呆れ果てたような、むしろ絶望すら混じったような声に、俺は眉をひそめた。
「無自覚も何もない。俺は彼を、一人の人間として大切に思っているだけだ」
「…………」
メイは深く、深く、地の底から響くようなため息を吐いた。
「……左様でございますか。私の勘違いだったようです。出過ぎた真似をして申し訳ありませんでした」
「いや、分かってくれればいい」
「……はい。では、私はこれで……」
メイはこれ以上俺と会話するのを諦めたのか、どこか遠い目をしながら一礼し、足早に執務室を出て行った。
(……何だったのだ、一体)
俺は少し腑に落ちない思いを抱えながらも、冷めかけた紅茶を飲み、再び書類の山へと向き直った。
バタンッ、と執務室の重い扉を閉めた瞬間。
メイは頭を抱え、その場に崩れ落ちそうになった。
(嘘でしょ……あれだけ過保護に溺愛しておいて、ただの『保護者のつもり』だったの……!?)
元凄腕暗殺者であるメイの観察眼をもってしても、信じがたい事実だった。
あんなにも分かりやすくルカの挙動一つに一喜一憂し、顔を赤くし、触れることすら躊躇うほどの執着を見せておきながら、本人は「不純な感情はない」「ただの親心だ」と思い込んでいるとは。
「……重症だわ。旦那様、戦以外のことになると本当にポンコツなんだから……!」
メイは足早に庭へと向かい、作業をしていたガルドの背中をバシッと叩いた。
「痛っ! なんだよいきなり!」
「ガルド、緊急事態よ。旦那様、ご自分のルカ様への気持ちに、1ミリも気づいていらっしゃらなかったわ」
「……はぁっ!?」
ガルドは持っていた剪定バサミを取り落とし、あんぐりと口を開けた。
「嘘だろ!? あんなに分かりやすくデレデレしてて!? 今朝なんか、ルカ様に髪撫でさせてもらって、後ろに尻尾が見える勢いで喜んでたじゃねぇか!」
「それが、全部『純粋な庇護欲』だと思い込んでいらっしゃるのよ……! このままじゃ、ルカ様も『親切な保護者』としてしか旦那様を見なくなってしまうわ!」
ガルドも頭を抱え、「あの堅物が……」と天を仰いだ。
「こりゃあ、俺たちが一肌脱ぐしかねぇな」
「ええ。あの不器用で無自覚な旦那様に、ご自身の『恋心』を自覚させるための作戦を立てるわよ!」
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