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第2章
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しおりを挟む時刻は深夜一時を回っていた。普段であれば寝に帰るだけの家が、帰りたくなる家になっていた。ここ数日で高さを増すばかりだった書類たちも、粗方片付いた。
貴臣は右の口角が上がりそうになるのを抑えながら、早足でオフィスを後にした。
リビングの扉を開けると沙也加がソファで眠りこけていた。もう何度寝顔を見ただろうか。こんなにも感情がわかりやすい人間は初めてだと鼻で笑うと、テーブルに乗ったお椀が目に入った。覗き込むと、どうにも見覚えのあるものにラップを外して匂いを嗅ぐと確信に変わった。
すっかり冷えてしまった味噌汁を少しすすってみる。
「なんだコレは。随分と貧乏くさいな」
貴臣は困ったように小さく笑った。
―過去編(貴臣)―
「貴臣、今日もお父さん忙しいみたい」
「そっかあ・・・」
「今日はお母さんと一緒に寝よっか?」
「本当!? うん!」
当時の貴臣は小学生で愛らしく、近所でも評判の天使の様な男の子だった。父親の真は立ち上げた事業が軌道に乗り始めたところで、自宅にはほとんど戻る事なく働いていた。母親は身体が弱く日常の家事さえもままならない状態だっが、明るく優しい母親を貴臣は一生守ると幼いながらに固く誓っていた。
だが、そんな日々は長くは続かなかった。貴臣が学校に行っている間に母親が脳梗塞で倒れてしまい、緊急入院することになった。それでも父親は一度入院の手続きに来ただけで、お見舞いには一度も顔を出す事は無かった。
季節は変わり退院した母親は、以前とは少し変わってしまっていた。
「貴臣・・・、ご飯ってどうやって炊くんだったかな?」
麻痺などは残らなかったものの、貴臣から見ても母は色んな記憶が零れ落ちていってしまっていた。母は以前にも増して明るく振舞っていたが、貴臣には日に日に弱っていく母を見る辛さと、帰らぬ父親に対する怒りが募っていった。
「貴臣、お味噌汁食べる?」
「・・・うん。___美味しい!!! 美味しいよ、お母さん」
味も変わってしまっていた母の手料理が、味噌汁だけは何も変わらず幸せな時のままだった。一般家庭だった大谷家の家族揃っていたあの頃が、思い出された。
――――――
「馬鹿だな。出汁利きすぎて・・・、そっくりじゃないか」
無表情な貴臣の瞳の奥が、小さく揺れた。
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