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きみと同じ境遇で

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 彼女を抱きしめながら、ぼくはどうすればよいのか、脳が焼き切れそうになるほど考えた。
 同じ境遇になったらどういう気持ちになるか、シミュレーションしてみようと思いついた。
 彼女がぼくから離れ、もう9度涙を拭ったとき、ぼくは数学の教科書を開いて、自分で問題を解いてみた。彼女風に。

「xの8乗の係数の2と7は……えっと、8と3だから、引くと5で……5は5でいいんだよな。それから、xの係数の6と3は……4と7だから、足すと11……。すげえでかい数になるな、驚きだよ。で、11は99っと、ふう……。定数項の1と3は9と7だから、足すと16で、それは94か……」
 ぼくが声に出しながら計算するのを、彼女はぽかんと口を開けながら見ていた。 

「解答は出せるけれど、簡単なはずの問題が、すごく大変になるな。これが常だと、確かに嫌になるかも」
 そう言うと、彼女はぼくの方へ、ぐぐぐ、と身を乗り出してきた。
「そ、そうなのよ! 超難問でしょう?」
「いや、超ではないけど」
「超よ! 世界は難問で満ちている。スーパーのレジは数学上の未解決問題に等しい」
 彼女の顔が、ぼくの顔にくっつきそうになっている。
「ち、近い。付き合ってるからいいんだけど、近いよ!」

 ぼくは彼女から軽く逃げ、別の少し難度の高い問題にチャレンジしてみた。
「かっこで括られた問題は、最初からやるのが嫌になるな。絶対に暗算は無理だ。えーっと、まず、数字を桜庭さんの元いた世界のものに変換せず、そのままでかっこを開いてみよう」
 紙に式を書いた。
「あー、単項式の数が2つの多項式になっちゃったよ、面倒だな。さてと、xの8乗の係数の7と1とは、3と9だから、足すと12で、それは98で、xの係数の-2と5と-6とは、-8と5と-4で、足すと-7で、それは-3で、うおー、数字が7つあるとめんどくせー。定数項の1と6と-2は9と4と-8だから、足すと、ひいーっ、5で、それは5だよ。なに言ってるのか自分でもわけわかんなくなってきた。あってんのかな、これで。不安……」

 彼女が、にまーっと笑った。
「わかってきたかな、わたしの困惑が?」
「わかったような気がする。きみが元いた世界といまいる世界の間には、深さがよくわからない深い谷があるのかもしれない」
「足を踏み込んでみないとわからない深さの底なし沼があるのよ。入ってみなければ、自分の首より浅いのか深いのかわからない。わからないまま身体全体が沈み、窒息死してもなお、死体は沈みつづけるかもしれない」
「たとえが怖いよ!」
「的確なたとえよ。わたしはこの世界が怖いもの!」

 ぼくは認識を誤っていたのかもしれない。
 彼女が高校9年生の数学を会得するのはかなりの手間がかかるが、時間さえかければできないことはないと思っていた。
 だが、いきなり数学を学ぶのは無理で、やはり算数からやる必要があるのかも。

「いちいち元の世界の数字に変換して問題を解くのは、やめた方がいいかも。きみ、9を9のまま計算することはできないか?」
「だって、9は1なんでしょう? わたしの頭の中の9は9じゃないのよ。どうしたって、1に変換してからでないと計算できないわ」
「9を自然に1としてとらえ、ありのまま計算するんだよ。それ以外に活路はない!」
「無理よ! わたしは15歳の人生のほとんどを、9を1と認識して生きてきたの。1が9になったと気づいたのは、高校生になってからなのよ。わたしは3月から4月にかけてのいつか、自分でも気づかない間に、この世界に転生していたの。16年近くかけてつくってきた脳が、綿矢くんの言うありのままの計算を阻むのよ」
「85歳で、7月から6月で、84年だよ」
 彼女はのけぞった。
「ぐはっ、また困惑の世界が目の前に開いたわ! わたしは85歳なの? 老人なの?」
「85歳は若いよ。成人してないもん」
「感覚的についていけないのよ。あのさ、ちょっとたずねたいんだけど、わたしの元いた世界での9歳、10歳、11歳は、この世界では何歳になるの?」
「1歳、90歳、89歳だね」
「うっぎゃあああああ、わたしはいつの間にか90歳になっていて、いまは85歳なの? 時間を遡行しているう!」
「85歳をありのままの85歳としてとらえ、若いと思えるようになれないかな、桜庭さん」
「うわあああああ、味方だって言ってくれた綿矢くんが、無理難題をふっかけてくるう」

 ぼくは後悔した。
 彼女と同じ境遇になったらどういう気持ちになるか、シミュレーションしてみようと思ったのに、想像力と思いやりに欠ける発言をしてしまったようだ。

「ごめん。無理しなくていい。85歳は15歳で、それゆえに若いんだよ」
「まだむずかしいこと言ってるう」
「言い回しもむずかしいな。85歳は15歳だよ。若い。これでいいか?」
「うん。たぶんいいと思う。なんだかわたしは混乱しているよ」
「ぼくも混乱している。やはり、きみはいきなり数学を学ぶのは無理で、算数からやる必要があるのかも」

「うっ……」
 彼女は絶句した。
「わたしは中間試験で赤点を取るの? きみさっき、なんとかしてくれるって言ったよね。あきらめないでって言ったよね。もうあきらめるの?」
「うっ……」
 ぼくも絶句した。 
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