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諜報戦
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私が益州全郡視察の旅を終え、成都に帰ってきたのは、建安十九年秋のことだった。
益州刺史室に入ると、すぐに龐統と魏延がやってきた。
「お疲れさまでした、劉禅様」
「旅はいかがでしたか、若君」
行政長官と軍師は元気そうで、私は安心した。
「益州全体を視察したのは、実に有意義だった。郡太守は皆、益州を栄えさせようとがんばっている。気になったのは、南部の郡のことだ。異民族が多く、統治に苦労しているようであった。特に費禕。永昌郡には南蛮の王と呼ばれる孟獲がいて、彼の協力がなくては、郡を治めるのはむずかしいと言っていた」
「異民族対策は容易ではありません。曹操ですら、匈奴、鮮卑、烏丸対応に苦慮しているようです。彼らはたびたび侵入し、略奪します。追い払っても、北の大草原へ逃げられるだけで、追撃は容易ではありません。彼らとは和平を結ぶのが上策で、戦わないで済めば、それだけでよいのです」と龐統は言った。
「そうなのか。私は孟獲と直接話し、毛皮を納め、徴兵に応じよと言ってしまった。もし従わないのなら、戦うしかないとも」
「孟獲と戦うのは、時期尚早です。いま益州は州内整備で手いっぱいで、異民族と戦をする余力はありません」
「費禕も孟獲は放置しておけばよく、戦争をするべきではないと言っていた。張松も僚族とは交易だけしていればよいと考えているようであった」
「費禕と張松は賢明であると思います。わたくしは異民族からも徴税と徴兵をするようにと言ってしまいしたが、叛乱を招くようなら、下策です。方針を転換しましょう」
「わかった。孟獲に手紙を書く。僚族の自立を尊重し、税も兵も差し出さなくてよいこととする。平和的に交易を行い、共栄共存しようと書いて送ろう。その方針を、費禕と張松にも伝える」
「しかしそれでは、前言撤回ではありませんか。若君の面子がつぶれることになりませんか」と魏延が言った。
「私の面子などどうでもよい。私は益州の利になるのではないかと思い、僚族を力で支配しようとしたが、どうやらその考えはまちがっていたようだ。私は面子のために戦をするほど愚かではない。前言撤回でもかまわない。今夜にでも手紙をしたため、孟獲へ使者を送ることにする」
龐統と魏延はうなずいた。
「私が留守の間に、なにかあったか」
「特に大きな問題は起きておりませんが、報告しておきたいことがあります」
龐統が身を乗り出した。
「わたくしは諸葛亮と頻繁に手紙のやりとりをし、連絡を取り合っております。諸葛亮は呉との外交を担当し、蜀と呉で協力し、ともに魏を攻めようと呼びかけています。しかし、孫権は領土の保全ができればよく、天下統一の野心は持っていないらしいです。彼はせいぜい合肥を攻める程度で、しかもいつも魏将の張遼らに撃退されています」
「私は荊州軍、益州軍、呉軍による魏への同時攻撃ができれば、勝てると考えているのだが、実現はむずかしいか」
「孫権に魏の奥深くまで攻め入る意志はありません。呉をあてにするのは、やめた方がよいでしょう。劉備様、劉禅様の力で、曹操を討つ覚悟を決めた方がよろしいかと」
「他力本願はやめよということか」
「はい」
「魏延はどう思う」
「若君の戦略は理想的ではありますが、孫権にその気がないとなれば、いつまでも魏と戦えないことになります。曹操は漢の献帝陛下を傀儡としております。魏を倒すのが、蜀の使命です。荊州と益州の蜀軍のみであっても、魏と戦うべきです」
「勝てるか、それで」
「魏は強大です。しかし蜀にはいま、人材が豊富に揃っています。諸葛亮殿と士元がいて、内政は万全に近く、関羽殿、張飛殿、趙雲殿、馬超殿という超人的な武将たちもいます。うまく戦えば、五分五分でやれると考えております」
「うまくやっても五分五分か」
「魏に対して必勝を誓うのは、無理です。賭けねばなりません」
「乾坤一擲」
「はい。荊州軍と益州軍による同時北伐により、魏の中枢を破壊する。曹操を殺す。自分は、それしかないと考えております」
「わかった。私もその覚悟をしよう」
「尹黙の新兵器、小型連弩と分解式攻城兵器が完成し、その量産を始めています。益州軍の秘密兵器です」
「それは頼もしい」
「そして、女忍隊に魏の動静を探らせています。忍凜からの報告を受けたいと思いますが、刺史室へ入れてもよろしいですか」
「許可する」
魏延がいったん席をはずし、忍凜をともなって入ってきた。
「忍凜、報告を聞きたい」
「はい。曹操は建安十七年に魏公となり、いまは魏王に進もうとしております。漢帝室を滅ぼし、簒奪しようとしているのは明らかです」
「それはわかっている。曹操の野望を食い止めねばならぬ」
「曹操は鄴を本拠地とし、そこに駐在していることが多いですが、長安、洛陽、許昌も重要都市です。最近、長安に軍を集めている動きがあります。夏侯淵が征西将軍に任じられ、長安の軍を統率しています。現在、兵力は五万程度ですが、さらに増大しそうな動向です」
「若君、長安は漢中郡攻撃の基地となり得る都市です。警戒が必要です。曹操は誕生してまもない益州劉禅政権を、基盤がかたまる前に攻略しようと考えているのかもしれません」
「文長、長安へ先制攻撃をかけてはどうだ」
「今年中はまだ無理です。徴収した新兵の調練を始めたばかりで兵力が足りず、連弩や分解式投石車、鉄製衝車も生産中で、兵器の数が足りません」
「もし長安から魏軍が攻めてきたらどうする」
「防衛戦争ならば、勝算は十分にあります。漢中に兵力を集中させておきましょう。趙雲殿のもとへ」
「兵力の配置はそなたに任せよう」
「承知しました。現在、漢中には三万の守備兵がおります。馬岱に二万の兵を与え、趙雲殿の配下に置くこととします。合計五万」
「それでよい。漢中で戦争が勃発すれば、私も行く。魏延、そなたも前線へ行ってもらう」
「もちろんそのつもりです」
「有事の際、成都の留守は士元に任せる。頼むぞ」
「お任せください」
「その他にも、報告がございます」と忍凜が言った。
「聞こう」
「曹操配下の間諜が、益州犍為郡に入り込み、孟達太守に接触しておりました。間諜を捕らえ、拷問しました。曹操が孟達様に謀反を勧める手紙を届けていたことがわかりました。益州の有力者の首を持って魏へ降れば、大きな郡の太守に任じようとの内容です」
「曹操の得意な離間の計だな。潼関の戦いの際に、馬超と韓遂の間で成功した。しかしなぜ孟達が狙われた?」
「鄴にいる忍鶴から報告がありました。益州の中で、どことなく孟達様が嫌われていることを、曹操は察知しているようです」
龐統と魏延が、深刻そうな表情になった。
まずいな、と私は思った。私自身も、心の底では孟達を信じ切れないでいる。もしその気持ちが孟達に悟られれば、裏切る動機になり得る。
「劉禅様、孟達を殺しましょう。彼は危険です」と龐統が言った。
「いや待て。この程度で殺していたら、私は部下からの信頼が得られなくなってしまうであろう。殺さぬ」
「若君、離間の計を逆に利用してはいかがですか。孟達殿に偽りの降伏をさせ、曹操軍の内部で暴れさせるのです」と魏延が言った。
「考えておこう」
数日後、孟達が成都へやってきた。
私は護衛の王平とともに、孟達に会った。
「劉禅様、曹操からこのような手紙を受け取りました」
孟達は、一通の手紙を私に差し出した。
そこには、益州刺史を裏切り、魏へ来たまえ、と書いてあった。蜀の有力者の首を持ってくれば、大きな見返りを与えよう云々。
「孟達、よくぞ見せてくれた。私はあなたを信じる」と私は言った。信じ切ることはいまだにできないが、とにかくそう言った。
「私は、劉禅様に犍為郡太守にしていただきました。この恩に報いたいと思っております」
孟達は表面上は、真摯に見えた。心の底まではわからない。
「孟達に頼みがある」
「なんでしょうか」
「この離間の計に応じたふりをし、曹操と手紙のやりとりをつづけよ。魏との戦いの際に、偽って敵に投降し、敵を内部から殲滅せよ」
「赤壁の戦いのとき、黄蓋殿が行った偽りの投降……。その策、承ります」
「このことは秘中の秘だ。私とそなた、ここにいる王平の他に、軍師の魏延にしか知らせぬこととする」
「はい」
孟達は犍為郡に帰った。孟達としたやりとりを、私は魏延だけに伝えた。龐統にすら教えなかった。
益州刺史室に入ると、すぐに龐統と魏延がやってきた。
「お疲れさまでした、劉禅様」
「旅はいかがでしたか、若君」
行政長官と軍師は元気そうで、私は安心した。
「益州全体を視察したのは、実に有意義だった。郡太守は皆、益州を栄えさせようとがんばっている。気になったのは、南部の郡のことだ。異民族が多く、統治に苦労しているようであった。特に費禕。永昌郡には南蛮の王と呼ばれる孟獲がいて、彼の協力がなくては、郡を治めるのはむずかしいと言っていた」
「異民族対策は容易ではありません。曹操ですら、匈奴、鮮卑、烏丸対応に苦慮しているようです。彼らはたびたび侵入し、略奪します。追い払っても、北の大草原へ逃げられるだけで、追撃は容易ではありません。彼らとは和平を結ぶのが上策で、戦わないで済めば、それだけでよいのです」と龐統は言った。
「そうなのか。私は孟獲と直接話し、毛皮を納め、徴兵に応じよと言ってしまった。もし従わないのなら、戦うしかないとも」
「孟獲と戦うのは、時期尚早です。いま益州は州内整備で手いっぱいで、異民族と戦をする余力はありません」
「費禕も孟獲は放置しておけばよく、戦争をするべきではないと言っていた。張松も僚族とは交易だけしていればよいと考えているようであった」
「費禕と張松は賢明であると思います。わたくしは異民族からも徴税と徴兵をするようにと言ってしまいしたが、叛乱を招くようなら、下策です。方針を転換しましょう」
「わかった。孟獲に手紙を書く。僚族の自立を尊重し、税も兵も差し出さなくてよいこととする。平和的に交易を行い、共栄共存しようと書いて送ろう。その方針を、費禕と張松にも伝える」
「しかしそれでは、前言撤回ではありませんか。若君の面子がつぶれることになりませんか」と魏延が言った。
「私の面子などどうでもよい。私は益州の利になるのではないかと思い、僚族を力で支配しようとしたが、どうやらその考えはまちがっていたようだ。私は面子のために戦をするほど愚かではない。前言撤回でもかまわない。今夜にでも手紙をしたため、孟獲へ使者を送ることにする」
龐統と魏延はうなずいた。
「私が留守の間に、なにかあったか」
「特に大きな問題は起きておりませんが、報告しておきたいことがあります」
龐統が身を乗り出した。
「わたくしは諸葛亮と頻繁に手紙のやりとりをし、連絡を取り合っております。諸葛亮は呉との外交を担当し、蜀と呉で協力し、ともに魏を攻めようと呼びかけています。しかし、孫権は領土の保全ができればよく、天下統一の野心は持っていないらしいです。彼はせいぜい合肥を攻める程度で、しかもいつも魏将の張遼らに撃退されています」
「私は荊州軍、益州軍、呉軍による魏への同時攻撃ができれば、勝てると考えているのだが、実現はむずかしいか」
「孫権に魏の奥深くまで攻め入る意志はありません。呉をあてにするのは、やめた方がよいでしょう。劉備様、劉禅様の力で、曹操を討つ覚悟を決めた方がよろしいかと」
「他力本願はやめよということか」
「はい」
「魏延はどう思う」
「若君の戦略は理想的ではありますが、孫権にその気がないとなれば、いつまでも魏と戦えないことになります。曹操は漢の献帝陛下を傀儡としております。魏を倒すのが、蜀の使命です。荊州と益州の蜀軍のみであっても、魏と戦うべきです」
「勝てるか、それで」
「魏は強大です。しかし蜀にはいま、人材が豊富に揃っています。諸葛亮殿と士元がいて、内政は万全に近く、関羽殿、張飛殿、趙雲殿、馬超殿という超人的な武将たちもいます。うまく戦えば、五分五分でやれると考えております」
「うまくやっても五分五分か」
「魏に対して必勝を誓うのは、無理です。賭けねばなりません」
「乾坤一擲」
「はい。荊州軍と益州軍による同時北伐により、魏の中枢を破壊する。曹操を殺す。自分は、それしかないと考えております」
「わかった。私もその覚悟をしよう」
「尹黙の新兵器、小型連弩と分解式攻城兵器が完成し、その量産を始めています。益州軍の秘密兵器です」
「それは頼もしい」
「そして、女忍隊に魏の動静を探らせています。忍凜からの報告を受けたいと思いますが、刺史室へ入れてもよろしいですか」
「許可する」
魏延がいったん席をはずし、忍凜をともなって入ってきた。
「忍凜、報告を聞きたい」
「はい。曹操は建安十七年に魏公となり、いまは魏王に進もうとしております。漢帝室を滅ぼし、簒奪しようとしているのは明らかです」
「それはわかっている。曹操の野望を食い止めねばならぬ」
「曹操は鄴を本拠地とし、そこに駐在していることが多いですが、長安、洛陽、許昌も重要都市です。最近、長安に軍を集めている動きがあります。夏侯淵が征西将軍に任じられ、長安の軍を統率しています。現在、兵力は五万程度ですが、さらに増大しそうな動向です」
「若君、長安は漢中郡攻撃の基地となり得る都市です。警戒が必要です。曹操は誕生してまもない益州劉禅政権を、基盤がかたまる前に攻略しようと考えているのかもしれません」
「文長、長安へ先制攻撃をかけてはどうだ」
「今年中はまだ無理です。徴収した新兵の調練を始めたばかりで兵力が足りず、連弩や分解式投石車、鉄製衝車も生産中で、兵器の数が足りません」
「もし長安から魏軍が攻めてきたらどうする」
「防衛戦争ならば、勝算は十分にあります。漢中に兵力を集中させておきましょう。趙雲殿のもとへ」
「兵力の配置はそなたに任せよう」
「承知しました。現在、漢中には三万の守備兵がおります。馬岱に二万の兵を与え、趙雲殿の配下に置くこととします。合計五万」
「それでよい。漢中で戦争が勃発すれば、私も行く。魏延、そなたも前線へ行ってもらう」
「もちろんそのつもりです」
「有事の際、成都の留守は士元に任せる。頼むぞ」
「お任せください」
「その他にも、報告がございます」と忍凜が言った。
「聞こう」
「曹操配下の間諜が、益州犍為郡に入り込み、孟達太守に接触しておりました。間諜を捕らえ、拷問しました。曹操が孟達様に謀反を勧める手紙を届けていたことがわかりました。益州の有力者の首を持って魏へ降れば、大きな郡の太守に任じようとの内容です」
「曹操の得意な離間の計だな。潼関の戦いの際に、馬超と韓遂の間で成功した。しかしなぜ孟達が狙われた?」
「鄴にいる忍鶴から報告がありました。益州の中で、どことなく孟達様が嫌われていることを、曹操は察知しているようです」
龐統と魏延が、深刻そうな表情になった。
まずいな、と私は思った。私自身も、心の底では孟達を信じ切れないでいる。もしその気持ちが孟達に悟られれば、裏切る動機になり得る。
「劉禅様、孟達を殺しましょう。彼は危険です」と龐統が言った。
「いや待て。この程度で殺していたら、私は部下からの信頼が得られなくなってしまうであろう。殺さぬ」
「若君、離間の計を逆に利用してはいかがですか。孟達殿に偽りの降伏をさせ、曹操軍の内部で暴れさせるのです」と魏延が言った。
「考えておこう」
数日後、孟達が成都へやってきた。
私は護衛の王平とともに、孟達に会った。
「劉禅様、曹操からこのような手紙を受け取りました」
孟達は、一通の手紙を私に差し出した。
そこには、益州刺史を裏切り、魏へ来たまえ、と書いてあった。蜀の有力者の首を持ってくれば、大きな見返りを与えよう云々。
「孟達、よくぞ見せてくれた。私はあなたを信じる」と私は言った。信じ切ることはいまだにできないが、とにかくそう言った。
「私は、劉禅様に犍為郡太守にしていただきました。この恩に報いたいと思っております」
孟達は表面上は、真摯に見えた。心の底まではわからない。
「孟達に頼みがある」
「なんでしょうか」
「この離間の計に応じたふりをし、曹操と手紙のやりとりをつづけよ。魏との戦いの際に、偽って敵に投降し、敵を内部から殲滅せよ」
「赤壁の戦いのとき、黄蓋殿が行った偽りの投降……。その策、承ります」
「このことは秘中の秘だ。私とそなた、ここにいる王平の他に、軍師の魏延にしか知らせぬこととする」
「はい」
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