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第4章 『水とともに生きる:後編』
第7話 教えてくれませんか?
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数日後。
私たちは、バスに揺られていた。
近江八幡駅から出るバスに乗り、長命寺経由で堀切港まで行く。
この数日で、ジブリールさんは心の準備が出来た――という訳では、どうやらないらしく。
楽しみで、というより、不安で眠らなかったようで、目の下にはくっきりとクマが出来てしまっていた。
静かなバスに揺られている内、ジブリールさんは何度か目を擦っていた手をだらんとおろし、眠り始めてしまった。
襲い来る眠気に必死に抗っていたのはきっと、港に到着するまでの間に心の準備をするためだったのだろうけれど――もし本当に、沖島にマコトさんがいるのなら、そのままの顔で会うのはやっぱり駄目だ。
そう思って、私は隣で舟を漕ぐジブリールさんを起こすことはなかった。
通路を挟んだ隣の席では、クリスさんが珍しく紙の束を捲っていた。
眼鏡をかけて、真剣な眼差しで。よくよく見るとそれは、原稿用紙のようだった。
兼業作家もしているという話を思いだす。とするなら、きっと新作の原稿なのだろうと思う。
「――クリスさん」
声を掛けると、いつもの柔和な笑みで振り返ってくれる。
「何でしょう?」
相も変わらず、鈴を振ったように綺麗な声だ。
「クリスさんの出版なさっている小説を、教えて欲しいんです」
そう言うと、クリスさんは少し驚いたように僅かながら目を見開いた。
「どうして、今このタイミングで?」
「今正に原稿をチェックしてるクリスさんにそっくりそのまま返すとして――白状するとですね、この間、ジブリールさんとそんな話をしてたんですけどね。彼女、物語が好きだから小説で日本語の勉強をしたいって話してて、そんな流れでクリスさんが確か作家もやってたなって話をしたら、やけに食いついて来たんです。読みたい読みたいって。それをきっかけに、私も一度は断られたものの、やっぱりクリスさんの紡ぐ世界に触れてみたいなって思い直すようになって」
クリスさんは、穏やかに笑った。
「それはとても嬉しいお話ですが……そうですね。この件が片付きましたら、彼女を含めてお教えすると致しましょうか」
「えっ、ほんとに? いいんですか?」
「ええ、嘘は言いません。作家としては、一冊でも多くの本が売れるのは喜ばしいことですから」
「ちゃっかりしてるなぁ」
「というのは冗談で、見本誌として頂いているものが幾つか手元に残っているので、そちらを差し上げます。多少埃を被っているかも分かりませんが」
「全然構いません。それ、凄く嬉しいです」
いつか触れられたら――そう思っていた世界を、まさか執筆した本人から頂けるとは。
それも、見本誌。
お世話になった人や知人、友人等に配ることもあると聞いたことがある。
それを頂けるなんて、これ以上ない光栄だ。
私はある程度小説を読む方だし、過去に好きな作家のサイン会にも行ったことがある程度には好きだ。
だからこそクリスさんのその一言には、とんでもなく胸が高鳴る思いである。
そのためにも、今はジブリールさんの依頼を完結させなければ。
強く思いながらクリスさんの方を横目に見やると、彼女も私の方を見ていたようで目が合ってしまった。思わず逸らそうかとするが早いか、クリスさんはふわりと微笑んだ。
『間もなく堀切港です。バスの揺れにご注意ください』
アナウンスが聞こえると、クリスさんは原稿用紙を片し始めた。
私も、慌ててジブリールさんを揺り起こす。
「んー……シズク? 朝ですか?」
「古典的なボケかましてる場合じゃないって。堀切港。目的地だよ」
「みなと……みなと? あっ、おきしま…!」
「そ、これから船に乗るの。降りるよ」
「あぅ、待ってください、シズク!」
私たちは、バスに揺られていた。
近江八幡駅から出るバスに乗り、長命寺経由で堀切港まで行く。
この数日で、ジブリールさんは心の準備が出来た――という訳では、どうやらないらしく。
楽しみで、というより、不安で眠らなかったようで、目の下にはくっきりとクマが出来てしまっていた。
静かなバスに揺られている内、ジブリールさんは何度か目を擦っていた手をだらんとおろし、眠り始めてしまった。
襲い来る眠気に必死に抗っていたのはきっと、港に到着するまでの間に心の準備をするためだったのだろうけれど――もし本当に、沖島にマコトさんがいるのなら、そのままの顔で会うのはやっぱり駄目だ。
そう思って、私は隣で舟を漕ぐジブリールさんを起こすことはなかった。
通路を挟んだ隣の席では、クリスさんが珍しく紙の束を捲っていた。
眼鏡をかけて、真剣な眼差しで。よくよく見るとそれは、原稿用紙のようだった。
兼業作家もしているという話を思いだす。とするなら、きっと新作の原稿なのだろうと思う。
「――クリスさん」
声を掛けると、いつもの柔和な笑みで振り返ってくれる。
「何でしょう?」
相も変わらず、鈴を振ったように綺麗な声だ。
「クリスさんの出版なさっている小説を、教えて欲しいんです」
そう言うと、クリスさんは少し驚いたように僅かながら目を見開いた。
「どうして、今このタイミングで?」
「今正に原稿をチェックしてるクリスさんにそっくりそのまま返すとして――白状するとですね、この間、ジブリールさんとそんな話をしてたんですけどね。彼女、物語が好きだから小説で日本語の勉強をしたいって話してて、そんな流れでクリスさんが確か作家もやってたなって話をしたら、やけに食いついて来たんです。読みたい読みたいって。それをきっかけに、私も一度は断られたものの、やっぱりクリスさんの紡ぐ世界に触れてみたいなって思い直すようになって」
クリスさんは、穏やかに笑った。
「それはとても嬉しいお話ですが……そうですね。この件が片付きましたら、彼女を含めてお教えすると致しましょうか」
「えっ、ほんとに? いいんですか?」
「ええ、嘘は言いません。作家としては、一冊でも多くの本が売れるのは喜ばしいことですから」
「ちゃっかりしてるなぁ」
「というのは冗談で、見本誌として頂いているものが幾つか手元に残っているので、そちらを差し上げます。多少埃を被っているかも分かりませんが」
「全然構いません。それ、凄く嬉しいです」
いつか触れられたら――そう思っていた世界を、まさか執筆した本人から頂けるとは。
それも、見本誌。
お世話になった人や知人、友人等に配ることもあると聞いたことがある。
それを頂けるなんて、これ以上ない光栄だ。
私はある程度小説を読む方だし、過去に好きな作家のサイン会にも行ったことがある程度には好きだ。
だからこそクリスさんのその一言には、とんでもなく胸が高鳴る思いである。
そのためにも、今はジブリールさんの依頼を完結させなければ。
強く思いながらクリスさんの方を横目に見やると、彼女も私の方を見ていたようで目が合ってしまった。思わず逸らそうかとするが早いか、クリスさんはふわりと微笑んだ。
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私も、慌ててジブリールさんを揺り起こす。
「んー……シズク? 朝ですか?」
「古典的なボケかましてる場合じゃないって。堀切港。目的地だよ」
「みなと……みなと? あっ、おきしま…!」
「そ、これから船に乗るの。降りるよ」
「あぅ、待ってください、シズク!」
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