ふつつかものですが鬼上司に溺愛されてます

松本尚生

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8、空っぽの部屋で、たったひとりで

8-3

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 松の内に、大切な取引先には一度顔を出しておきたい。
 翔太たち一係員は、目も回るほどの忙しさだ。今年も恒例の業務用濃縮スープ三缶セットと、それから昨年開発の方で発掘した北陸の特別にうまい醤油と、相手先によって使い分けたり両方持っていったり。営業車に積み込むブツも大荷物だ。
 実はこの醤油は、今年出す新製品への告知を兼ねている。「Pro'sキッチン」の洋食ラインナップに勇気づけられ、次は和惣菜のテコ入れを図ることになった。これまでの製品より格段に味のよい新製品には、この醤油を使います……とのひと言をしゃべって回る使命が、翔太たちには与えられている。
「係長……」
 翔太は年始回りのスケジュールを行人に提出しようと立ち上がった。PCのモニターを見ていた行人は、どこか焦点の合わない目をして無反応だった。
 無反応はいつものことだ。翔太は構わずスケジュールを書き出したA4用紙を行人の机に置いた。
「係長?」
 行人はボーッとして返事をしない。
「係長!」
 翔太は行人の視線を遮ろうと、遠慮がちにPCの前で手のひらを振った。周囲にヘンに思われないギリギリのところだ。
「……あぁ、加藤くん……」
「係長、どうしたんですか?」
「……いや、何でもない。年始回りな。分かった、今見るわ」
 行人は翔太が机の上に置いた用紙を手に取った。行人にしては随分時間をかけて読み、数点指摘してすぐに翔太に返した。
(ユキさん、今日も元気ない……)
 年始回りの挨拶品は、一階の調達部の机に積み上げてある。普段使っていない机なのに、翔太たちが長く置いておくと調達部を含め工場側が何かとうるさい。翔太は営業車を裏口につけて、のし紙もめでたいスープ詰め合わせと醤油を台車に積んだ。
「加藤さん」
 内海が二階から降りてきて合流した。
「『台車&営業車裏口横付け』作戦ですか。さすがですね」
「ああ、内海さん、いいところに来た。ちょっと手伝ってよ。俺も内海さんの分を手伝うから」
「了解です! 車に積み込むとき、ふたりで組んだ方が早いですもんね」
 翔太はかばんから、今日回る取引先の一覧表を取り出し、そこへ貼ったふせんに書いた数字を読みながら、同じ数の挨拶品を台車に載せてはふせんを別のシートに移す……という作業を繰り返した。翔太は細かい数字を覚えられず、脳内で数を把握しようとすると異常に疲れた結果たくさん間違うので、この方法で管理する。内海も見慣れたもので、とくに口をはさむことはない。
 翔太が台車にふせんの個数分を載せていると、内海が言った。
「あれは、『彼女』ができましたねえ」
「へ?」
 翔太は聞き返した。内海はにやりと笑った。
「係長ですよ」
「え!?」
 翔太は手を止め、屈んでいた腰を伸ばした。
「何でそう思うの?」
 内海は腕組みして厳かに言った。
「あの切れモノの係長があんなにボーッとしてるとこ、初めて見ましたよ。気もそぞろっていうあの感じ。あの集中力低下は、睡眠不足ですよきっと。毎晩彼女に情熱的に迫られてるんじゃないですか?」
 翔太は微妙な笑いを浮かべた。
「そ……そうかなあ」
(いや、夕べ俺、ちゃんと早く寝かせたし。まあちょっと情熱的だったかもだけど、そんな何回も求めなかったし)
 いかんいかん。油断すると頬が緩みそうだ。翔太は切り返した。
「きらり~ん、まだ若いのに、中身はもうリッパにおばさんだねえ」
 翔太は感心するようにうなずいた。
「ありがとうございますぅ! てか、『きらりん』て何すか。そんなヘンな呼び方止めてくださいよ」
「いや、呼ぶね。そのおばさんキャラにぴったり合うのは『きらりん』だね」
「加藤さん! じゃあわたしも加藤さんのこと、ヘンなあだ名で呼びますよ」
「呼んでみー。俺の名前なんて平凡すぎて、どこをどうひっくり返したって変わった呼び方にならないから」
「きー、くやしい」
 ポンポン言葉を交わしていると、翔太はふと懐かしい感じがした。内海はどこか菜摘に似ている。女きょうだいがいる翔太は、こうした軽口を女性と交わすのに慣れている。
 翔太はハッとした。気難しいガンコおじさんの得意先に萎縮して頭を下げるより、話しやすい女性に営業して回る方が気楽で、かつ成績も上がるかもしれない。行人がスナックやラウンジを得意としているのも、もしかしたら同じ理由だろうか。翔太も行人も、昭和ガチガチのオヤジさんたちには受けない。多分、会話が成立しないくらいの別人種だと見抜かれてしまうからだろう。原田は逆に、そういう昭和オヤジは大得意だ。
 翔太と内海、二台分の営業車に荷物を積んで、翔太は内海に手を差し出した。
「お疲れ、ありがとう」
 内海はちょっと戸惑った表情を見せたが、笑顔になって翔太と握手した。
「今日は原田さん一緒じゃないの?」
 翔太がそう訊くと、内海は少し笑って答えた。
「はい、今日原田さんは別動で、公共交通機関移動です」
「ふーん」
 この年始に? 挨拶品はスープ缶だぞ。それか醤油。何か別立てで軽い挨拶品を用意してでもいるのだろうか。 
 まあ、いい。自分には関係ない。翔太は内海に手を振って車を出した。

 昨日はスープ缶と醤油が重かった。翔太はよいアイディアを思いついた。
「係長、ちょっと思いついたんですけど」
 行人は返事をしない。いつものことと思った翔太は、いつものようにA4用紙を携えて係長机の前に立った。
「係長、お忙しいところ済みませんが、ちょっとこれを見ていただけますか?」
 行人はとろんと甘やかな瞳で翔太を見上げた。
「……ん? 何?」
(ちょっとユキさん、仕事モード仕事モード!)
 翔太はコホンと咳払いして、提案内容を説明した。
「昨日、ウチのド定番のスープ缶を運んでて思ったんですけど」
「……うん……」
 行人はだるそうに翔太の差し出したA4用紙を取り上げたが、次の瞬間それを机の上に戻した。机に肘をつき、書類を精読するふりをして額を押さえている。
 翔太は追加情報を書き出したていで、A4の紙をもう一枚用意し、そこへみどりのふせんを貼った。ふせんには『熱、ありません?』と書いた。
 翔太がそっと行人の視界に紙を重ねた。行人は追加の用紙にも目を通し、自分のふせんを一枚剥がしてこう書いた。
『少しな。大丈夫だ』
(やっぱり……)
 昨夜、行人は翔太の部屋には来なかった。疲れてるようだから、自宅でゆっくり休んだらいいと翔太も思ったのだが。
(昨日よりも悪くなってる)
「挨拶回りに、『Pro'sキッチン』から『野菜たっぷりミネストローネ』ね」
 行人はいつもより弱々しい声でそう言った。
「はい。『ミネストローネ』なら自社製造で、原価もほかのものより低いですし。小分けですので、もらった先も、社員で分けるなり、社内で消費するなり、処分しやすいかと」
 翔太はかしこまってそう説明した。行人は幾分笑顔になった。
「いいアイディアじゃないか。惜しむらくは、それを二ヶ月前に思いつかなかったことだな」
「あちゃー」
 翔太はおでこをピシャリと叩いた。
「いや、だが、いい案だ。来年の年始回りには採用できるよう、俺から上に上げておく」
「お願いします」
 翔太は頭を下げて自席に戻った。
 翔太と入れ替わりに、原田が立ち上がった。
「じゃ、係長。そろそろお願いします」
「ああ。はい、分かりました」
 原田は「車回しておきますんで」と言って部屋を出ていった。
 翔太は内海と顔を見合わせた。
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