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一、二〇一〇年 東京―1
⑦
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こもりきりで仕事三昧の日常から離れたマンガ家たちは、あらゆる話で盛り上がり続けた。放っておくと朝まで続く。電車が終わりそうになる頃合いを見計らって、暢子が強制的にお開きにした。
帰り際、北山がリンから離れ、綾乃のところへやって来た。
「新連載よろしくお願いいたします」
綾乃は北山にちらりと目をやり、意地悪そうに目を細めた。
「晴月社もさあ、わたしを高柳瑶子と同じに扱えとは言わないケドさ。でも、もうちょっと何かあってもよくない?」
性悪猫のしたり顔。綾乃の豹変に北山は面食らって口を噤んだ。
「ちょっと、綾乃」
慌てて暢子が止めに入るが、効果はない。
「淋しいよねえ。晴月社さあ、こんなにマンガ家の待遇に差をつける訳?」
北山は焦りまくってぺこぺこした。綾乃の目は完全に獲物を前にした猫の目だ。暢子は諦めて半歩下がった。
「ああ、そうだよねえ。あたしなんかじゃ、まだまだ実力も不足だし。人気もないし。大事にする価値なんか全然ないもんねえ」
「そ、そんなこと、ないですよ、先生。何をおっしゃいますか、先生のような方が」
「へええ、そうかなあ」
あとは北山自身が逃げるなり何なりするといい。暢子はぽつんと立っているリンに気づいた。
「……リン」
「ん。何、ノブさん」
リンは綾乃と北山からほんの少しズレた一点を見つめていた。暢子に返事をしつつ、リンの視線はその角度から動かなかった。
「明日は学校?」
「行ってない。ここんとこ」
リンは小さな声でこう続けた。
「ミハルともう一軒とで忙しくて」
リンは足下の地面を爪先で蹴った。北山にも覚えられていたリンのもう一本の仕事。月刊誌「グランギニョル」で連載中の鈴鳴の作品は、リンの腕なくしては成り立たない。
「学校は、行っときなよ。プロとして独り立ちするんならともかく、アシスタントしてて中退なんて、もったいないよ。……ひとのこと言えた立場じゃないけどさ」
暢子は勘当すれすれで飛び出てきた親への手前大学だけは卒業したが、綾乃は在学中に仕事が忙しくなりそのまま中退している。
北山が綾乃を何とかタクシーに押し込むことに成功した。ところが綾乃にネクタイをつかまれ、一緒にタクシーに引き摺り込まれてしまった。
それを見物していた一同、深夜のコントに腹を抱えて笑っていたが、タクシーが走り去ると、みなぞろぞろと駅へ向かって歩き始めた。
「じゃ、失礼します」
「あ、ああ。お疲れ」
リンは軽く会釈して歩き出した。終電が近いのに駅から離れていく。リンが向かった方角は、鈴鳴の仕事場と自宅を兼ねたマンションだ。
リンと鈴鳴がそういう関係になっていたとしても、別段暢子は驚かない。ふたりとも大人だ。よくあること。まして漫画家とアシスタントなら毎月毎月、べったり濃厚に過ごす数日間が繰り返される。学生とはいえ立派な成人であるリンが選んだことなら、外野が口を出す筋じゃない。
それにしては、北山に褒められてリンはずいぶん嬉しそうにしていたが。
まあいい。自分には関係ない。暢子は一団から少し遅れて駅へと向かった。
先ほどの、綾乃と北山のかけ合いの一幕を思い返した。あれもよくある大人の男女に過ぎない。綾乃が何を思って北山にねちこく絡んだか、暢子には分からなくもなかった。あそこで綾乃を止めるのを諦めた時点で暢子の負けなのだ。
あそこで諦めた時点?
諦めたのはあのときだったろうか。
もっとずっと、ずっと前から、暢子は完璧に負けている。負けっ放し負けていた。
誰に? 何に?
分かってる。そんなことは充分、分かりすぎるほど分かっていた。
暢子はこめかみを押さえた。さすがに少し酔ったようだ。
このままひとり自宅に戻る気がしなくて、暢子は少し先の駅まで電車に乗り、定宿にしているビジネスホテルにチェックインした。息抜きが必要なときのため、大人ならこうした場所を確保しているものだ。
非日常に身を置けば、少しは日常を忘れられる。
負けっ放しの日常を。
帰り際、北山がリンから離れ、綾乃のところへやって来た。
「新連載よろしくお願いいたします」
綾乃は北山にちらりと目をやり、意地悪そうに目を細めた。
「晴月社もさあ、わたしを高柳瑶子と同じに扱えとは言わないケドさ。でも、もうちょっと何かあってもよくない?」
性悪猫のしたり顔。綾乃の豹変に北山は面食らって口を噤んだ。
「ちょっと、綾乃」
慌てて暢子が止めに入るが、効果はない。
「淋しいよねえ。晴月社さあ、こんなにマンガ家の待遇に差をつける訳?」
北山は焦りまくってぺこぺこした。綾乃の目は完全に獲物を前にした猫の目だ。暢子は諦めて半歩下がった。
「ああ、そうだよねえ。あたしなんかじゃ、まだまだ実力も不足だし。人気もないし。大事にする価値なんか全然ないもんねえ」
「そ、そんなこと、ないですよ、先生。何をおっしゃいますか、先生のような方が」
「へええ、そうかなあ」
あとは北山自身が逃げるなり何なりするといい。暢子はぽつんと立っているリンに気づいた。
「……リン」
「ん。何、ノブさん」
リンは綾乃と北山からほんの少しズレた一点を見つめていた。暢子に返事をしつつ、リンの視線はその角度から動かなかった。
「明日は学校?」
「行ってない。ここんとこ」
リンは小さな声でこう続けた。
「ミハルともう一軒とで忙しくて」
リンは足下の地面を爪先で蹴った。北山にも覚えられていたリンのもう一本の仕事。月刊誌「グランギニョル」で連載中の鈴鳴の作品は、リンの腕なくしては成り立たない。
「学校は、行っときなよ。プロとして独り立ちするんならともかく、アシスタントしてて中退なんて、もったいないよ。……ひとのこと言えた立場じゃないけどさ」
暢子は勘当すれすれで飛び出てきた親への手前大学だけは卒業したが、綾乃は在学中に仕事が忙しくなりそのまま中退している。
北山が綾乃を何とかタクシーに押し込むことに成功した。ところが綾乃にネクタイをつかまれ、一緒にタクシーに引き摺り込まれてしまった。
それを見物していた一同、深夜のコントに腹を抱えて笑っていたが、タクシーが走り去ると、みなぞろぞろと駅へ向かって歩き始めた。
「じゃ、失礼します」
「あ、ああ。お疲れ」
リンは軽く会釈して歩き出した。終電が近いのに駅から離れていく。リンが向かった方角は、鈴鳴の仕事場と自宅を兼ねたマンションだ。
リンと鈴鳴がそういう関係になっていたとしても、別段暢子は驚かない。ふたりとも大人だ。よくあること。まして漫画家とアシスタントなら毎月毎月、べったり濃厚に過ごす数日間が繰り返される。学生とはいえ立派な成人であるリンが選んだことなら、外野が口を出す筋じゃない。
それにしては、北山に褒められてリンはずいぶん嬉しそうにしていたが。
まあいい。自分には関係ない。暢子は一団から少し遅れて駅へと向かった。
先ほどの、綾乃と北山のかけ合いの一幕を思い返した。あれもよくある大人の男女に過ぎない。綾乃が何を思って北山にねちこく絡んだか、暢子には分からなくもなかった。あそこで綾乃を止めるのを諦めた時点で暢子の負けなのだ。
あそこで諦めた時点?
諦めたのはあのときだったろうか。
もっとずっと、ずっと前から、暢子は完璧に負けている。負けっ放し負けていた。
誰に? 何に?
分かってる。そんなことは充分、分かりすぎるほど分かっていた。
暢子はこめかみを押さえた。さすがに少し酔ったようだ。
このままひとり自宅に戻る気がしなくて、暢子は少し先の駅まで電車に乗り、定宿にしているビジネスホテルにチェックインした。息抜きが必要なときのため、大人ならこうした場所を確保しているものだ。
非日常に身を置けば、少しは日常を忘れられる。
負けっ放しの日常を。
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