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一、五月十二日 火曜日 十五時
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「いらっしゃいま……」
「お兄さま! 会いたかった……!!」
クラシカルな鐘がカラ……ンと鳴って、入り口のドアが開く。
年季の入ったマホガニーの扉はチョコレートのように規則正しく四角くくり抜かれて、そこに飾りガラスがはまっている。一定の年齢以上のひとなら、そこに昭和の匂いを嗅ぐだろう。
「は? どちらさまですか」
マスターの森井高広はそう尋ねる間もなく、飛び込んできた少女に飛びかかられた。
「お兄さま……!」
「えーと、あのお」
軽いピンクのジャケットに、フリルのついたブラウスがのぞく。赤紺チェックの襞スカートの下、ネイビーブルーのリブタイツに包まれた脚は細い。
中学生? 大人の女性? 年齢不詳だ。
「僕はたしかひとりっ子だったハズで、戸籍上もそうなってまして。そのぉ……お間違いでは?」
しがみつく腕をほどくにほどけず、困った顔をして高広がそう言うと、少女はニッコリ笑ってこう言った。
「お目にかかるのは初めてですわ。わたくし、お兄さまの従妹のサヤカと申します」
カウンターに並んで座っていだ常連さんたちが一斉に立ち上がって、ふたりの周囲を取り囲んだ。
「まあまあ、お嬢ちゃん、よくいらっしゃいましたわねえ」
「……あのマスターに会いに、従妹。しかもカワイイ。ちょっとばかり若いからって、マスターめ……呪われてあれ」
「いやあ、いらっしゃいいらっしゃい」
サヤカと名乗った少女の頭を撫でんばかりに、おっさんたちは相好を崩す。闇属性の栗田さんだけはおかしなことを口走っていたが、これは平常運転だ。
高広は助けを求めるようにカウンターを振り返った。
磨いていたグラスを下ろし、バイトの良平が面倒そうにやってきて、高広の背からサヤカの爪をはがした。良平はそのままサヤカの手を取り、カウンターの前のボックス席に座らせる。
起毛素材のソファは深い緑。案外長持ちする素材のようで、古い高広の記憶とそう変わらない。色は少々、あせただろうか。
「従妹ってことは、虎之介さんの孫かい?」
ボックス席のサヤカの向かいに、常連の川崎さんが陣取ってそう訊いた。若い女子を相手にまったく臆することがない。さすが、「自分以外は全員女性」の事務所で磨き抜かれた対応だ。
高広が呟いた。
「そんな馬鹿な。父はひとりっ子で兄弟なんかいないし、母は上に姉がいるけどずっと独身で」
サヤカは笑顔を崩すことなく、
「ご存じないのも無理はありません。わたしの父が生まれたことは、祖父も知らないこと。いわゆる『隠し子』という存在でしたもの」
と歌い上げるように語った。
カウンターのスツールに浅く腰かけて聞いてた、同じく常連の栗田さんの目が、「『隠し子』とは」と鈍く光った。
「前マスター、虎之介さんの昔の職業は、役者。すごいイケメンだったからには、旅先でもさぞモテていたに違いない。恨めしい。羨ましい。ごいんきょ、何かお言葉を」
栗田さんは暗い声で祈るようにそう言って、隣の常連さんに振った。
「ごいんきょ」と呼ばれた宮部さんは、帽子を脱いで細いしっぽを指先で捻り、いつものごとく極端に丁寧な言葉づかいで言った。
「うーん、そうですねえ。先代のマスターは確かに美男子でらっしゃいましたけど、奥さんの麗さんひと筋でらっしゃいましたからねえ。お嬢ちゃん、あなたのお父さまは、どちらでお生まれになったでしょうかしら」
宮部さんは長く商売をしていたからか、いつでも、誰に対しても、とても丁重に接する。その姿勢はうやうやしいと言ってもいいくらいだ。ときおり敬語を通りすぎて、日本語がおかしなことになっていたりする。
カウンターの中から高広が見ていると、へりくだったもの言いが時折相手を勘違いさせることがあり、宮部さんを見くびって高飛車に出た輩には、ビシッと完膚なきまでに叩き潰して楽しんでいる。これをやりたくてわざと下手に出ているんじゃないか、これが宮部さんの趣味なんじゃないかと高広は疑っている。
コワイじいさんだ。
トレードマークの帽子の下は、テッペンが少うし薄くなっている。肩の長さの髪は飴色と黒が混じっていて、伸ばし慣れていないのか、宮部さんがそれを引っ張るのは、何か気になることがあるときだ。
サヤカの笑顔がふっと曇った。
「あ、あの、父も母も亡くなってますので、そうした詳しいことはよく……」
うつむいてしまったサヤカに、常連のおっさんたちは焦ってしまった。
「あらあら。大変どうもすみませんことでしたねえ。問い詰めようだなんて積もりはみじんもなかったのですけれど」
「とくに何かを疑っているという訳ではないのだ。ただ、突然このくたびれた都落ちマスターにカワイイ従妹が発生したという異常事態に、驚きのあまり……」
「マスター、お嬢さんに何か温かいものを出してあげたらいいんでないかい?」
タイミングよく、バイトの良平が無言でココアを運んできていた。良平が卓にコトリと置いたカップを、サヤカの細い指が取った。
みんなで食べた遅めの昼食、オムライスの皿を片付け終わった良平は、やはり無言のまま、呆然と突っ立っている高広の脇を通りすぎ、カウンターの端でエプロンを外した。
「じゃ、マスター。俺行きます」
「あ、ああ。行ってらっしゃい。気をつけて……」
常連さんたちも口々に「大学でございますですか?」「行っておいで」と見送った。良平は彼らに軽く頭を下げて店を出ていった。
オムライス。決してまずくはないしそこそこおいしいのだが。
やはり何かが違うのだ。
高広の祖父、森井虎之介は大学生だったため出征が遅く、兵隊に取られてすぐ敗戦を迎え復員してきた。
戦地での経験に考えるところがあったのか、虎之介はその後学業に戻ることなく、新劇の舞台に立とうと当時勢いのあった「劇団誠」に入団した。
が、芝居で食べていくことは容易でなく、数年で劇団を辞め、拾ってくれた大衆演劇の一座について日本国中を旅して回った。
旅の途中で一座の看板女優であった草壁麗子と恋に落ちるも、女優に手を出すなど論外、御法度中の御法度であり、一座にいられなくなったふたりは手に手を取って逃避行。
流れ着いたのが北海道。そこでふたりで働いて、ようやく溜めた資金でこの店舗兼住宅を手に入れた、と。
高広はそう聞いているし、常連たちが折に触れ語ってくれる「虎之介さん」「麗さん」夫妻の思い出も、同じ物語の各エピソードであった。
その物語には、麗子以外の女性との交流は出てこない。
サヤカの父が虎之介の落とし胤だとすると、虎之介がドサ回り中のどこかの地で出会った土地の娘か、それとも新劇役者を目指した売れない極貧時代を支えてくれた歳上の女性でもいたものか。
いずれにせよ、祖母の麗子と出会う前、虎之介本人のあずかり知らぬことであったに違いない。
「サヤカちゃんには悪いが、にわかに信じられない話ではある」
常連の栗田さんが腕を組んだ。
栗田さんは東京でエリートサラリーマンをやっていたが、業界つながりで札幌の会社へ引き抜かれ、今は引き抜かれたその会社の役員をしている。
社会に出た頃は爽やか好青年だったというが、あまりの激務にすっかりひとが変わってしまい、ひとたび仕事を離れると闇堕ちキャラを隠すことができない。今いる会社でも、社を引っ張る有能な五十代役員の仮面をカンペキに演じ、その反動でこの「喫茶とらじゃ」ではほとんど厨二病、病ンデレ全開になっている。
まあ「爽やか好青年だった」というのも本人申告で検証のしようもなく、高広も常連の面々も、話半分で聞いているのだが。
時間に縛りがないためかしょっちゅうやってきて、コーヒーを飲んだり、ブツブツ呟きながら考えごとをしたりしている。
こんなんでも仕事スイッチが入ると接待上手だそうで、夜に仕事がらみの会食が入っているときなどは、ギリギリまで「行きたくない……」とカウンターにかがみ込んでグデグデしている。
そんなときは、同じく東京でサラリーマンをやっていた高広が、「そろそろ行きましょうか」と尻を叩いてやらねばならない。
ほかの常連さんたちには自営が多く、「そんなに行きたくないなら、行かなきゃいいじゃん」と甘やかすからだ。
「まあまあ、若い頃なんて、いろいろなことが起こるもんでございますよ。晩年のひととなりからは、想像もできないような一面があったりすることでしたって」
宮部さんはそう言った後、慌てて高広に「あらあらごめんなさいね、そういう意味ではありませんでしたのですよ」と謝った、高広は首を振った。
宮部さん、通称「ごいんきょ」は常連さんたちの最高齢。多分七十代だ。伸びた髪をしっぽのように後ろで小さく結び、いつも帽子をかぶっている。
手広くいろんな商売をやっているらしいが、今はほとんどを息子に譲り、悠々自適な生活を送っている。
当然時間も自由で、とにかくヒマらしく、「喫茶とらじゃ」へはほとんど毎日通ってくる。豊富な人生経験から、お客さん同士の相談事に乗ることも多いようだ。
祖父の死後、この小さな喫茶店を引き継いだ高広を可愛がり、何かと目をかけてくれる。
「あなたのお父さんは、何年生まれ? 若くして亡くなったんだねえ、お気の毒に」
穏やかな口調で川崎さんが訊いた。
川崎さんは設計事務所の二代目社長で、すぐそこに事務所がある。
今は引退している父上の事務所に入ったとき、一番下っ端なのに名ばかり「専務」と呼ばれ、軽んじられたりいじられたりして、大層苦労したらしい。「ごいんきょ」宮部さんには、ちょいちょい部下の掌握術を伝授してもらったそうだ。
社長に昇格した今は、上は父上の代から金庫番をしている老婆に近い女性から、下は一級建築士を目指して日々精進中の二十代女性まで、部下は全員女性。鍛えられ、苦労して、今は楽しく働いているらしい。
マニアックな趣味があり、「喫茶とらじゃ」をその趣味仲間との交流にも使っている。ちょっと怪しいブツの受け渡し場所とかに。
「えっと、あのお……。父はわたしが十四歳のときに……」
サヤカは指を折って数え始めた。
そこへまた鐘の音が鳴り、原色を幾何学模様に配したワンピースにつば広帽の女性が入ってきた。
「みなさぁん、こんにちは」
常連の菅原さんだ。年の頃は、多分栗田さんより上、川崎さんより下、くらい?
「おお、菅原さん。先日はどうも」
「んん? 川崎さん……、菅原さんに何か頼みごとを? 今度はどんな企みが?」
「『企み』って栗田さん……。いや、ウチのお客さんが、企業ロゴを決めることにしたそうで、『いいデザイナーさんいないかな』って言うから、菅原さんを紹介したんだよ」
菅原さんはにこやかにヒールを鳴らして店内を進んだ。
「その節はどうも、川崎さん」
「いいロゴができたって、喜んでたよ」
菅原さんは絵描きさんだ。油彩画を描くが、展覧会の合間にはテキスタイルデザインから商業デザインまで幅広く手がけている。年齢は、高広からは五十代くらいに見えているが、女性の年はよく分からない。
川崎さんの後ろのボックス席に座って、菅原さんは大きく振り返った。
「で、みなさん、いったい何が起こっているの?」
「あ、マスター、わたしブレンドね」と高広に声をかけて、菅原さんはサヤカと、彼女を取り囲む面々にそう尋ねた。
「いやあ、このお嬢さん、どうやら虎之介さんのお孫さんらしいんだけどさあ……」
川崎さんが説明を始める。サヤカは神妙な顔をしてココアを飲んでいた。
「ブレンドです」
高広が菅原さんのオーダーを持っていった。
「ありがと」と菅原さんは、手入れされた赤い爪でカップを持ち上げた。数秒香りを楽しんでから、おもむろにカップに唇をつける。
三十を過ぎて突然相続した祖父の店を継いだ高広を、厳しいが、優しく、辛抱強く育ててくれる常連さんたちのひとりだ。
「で? お嬢さんは何が目的で尋ねてきたの?」
菅原さんはボックス席の外に行儀よく脚を並べて、サヤカの方に向き直った。川崎さんが「このお嬢さんは虎之介さんのお孫さんだって」と伝えると、すぐに事態を把握したようだ。
「あ、あの、わたし……」
「前のマスターが亡くなってから、もう二年経つわよね。今までどうしてたの? どうして二年経ってから、ここへ来る気になったの? 何か、用があるのよね」
川崎さんが、「菅原さん、そんな、尋問するみたいな」と止めようとしたが、菅原さんは真顔で言った。
「いとこ同士、積もる話もあるでしょう? だったらあたしたち、遠慮しなきゃ。込み入った、他人に聞かせたくない話があるんじゃない?」
高広は焦った。
「いえ、そんな、みなさんいてくださいよ。祖父のことは、二、三度しか会ったことのない僕なんかより、みなさんの方がずっとご存じなんですから」
押しの強いサヤカとふたりきりにされてはたまらない。
全員の視線がサヤカに集中した。サヤカは困ったように顔を赤くした。
「わたし……、わたし、両親を亡くして……。お祖父さまの遺産が欲しいんです」
「はあ!?」
今度は高広が驚く番だ。
遺産?
そんなもの、あったらこんなことしていない。
「お兄さま! 会いたかった……!!」
クラシカルな鐘がカラ……ンと鳴って、入り口のドアが開く。
年季の入ったマホガニーの扉はチョコレートのように規則正しく四角くくり抜かれて、そこに飾りガラスがはまっている。一定の年齢以上のひとなら、そこに昭和の匂いを嗅ぐだろう。
「は? どちらさまですか」
マスターの森井高広はそう尋ねる間もなく、飛び込んできた少女に飛びかかられた。
「お兄さま……!」
「えーと、あのお」
軽いピンクのジャケットに、フリルのついたブラウスがのぞく。赤紺チェックの襞スカートの下、ネイビーブルーのリブタイツに包まれた脚は細い。
中学生? 大人の女性? 年齢不詳だ。
「僕はたしかひとりっ子だったハズで、戸籍上もそうなってまして。そのぉ……お間違いでは?」
しがみつく腕をほどくにほどけず、困った顔をして高広がそう言うと、少女はニッコリ笑ってこう言った。
「お目にかかるのは初めてですわ。わたくし、お兄さまの従妹のサヤカと申します」
カウンターに並んで座っていだ常連さんたちが一斉に立ち上がって、ふたりの周囲を取り囲んだ。
「まあまあ、お嬢ちゃん、よくいらっしゃいましたわねえ」
「……あのマスターに会いに、従妹。しかもカワイイ。ちょっとばかり若いからって、マスターめ……呪われてあれ」
「いやあ、いらっしゃいいらっしゃい」
サヤカと名乗った少女の頭を撫でんばかりに、おっさんたちは相好を崩す。闇属性の栗田さんだけはおかしなことを口走っていたが、これは平常運転だ。
高広は助けを求めるようにカウンターを振り返った。
磨いていたグラスを下ろし、バイトの良平が面倒そうにやってきて、高広の背からサヤカの爪をはがした。良平はそのままサヤカの手を取り、カウンターの前のボックス席に座らせる。
起毛素材のソファは深い緑。案外長持ちする素材のようで、古い高広の記憶とそう変わらない。色は少々、あせただろうか。
「従妹ってことは、虎之介さんの孫かい?」
ボックス席のサヤカの向かいに、常連の川崎さんが陣取ってそう訊いた。若い女子を相手にまったく臆することがない。さすが、「自分以外は全員女性」の事務所で磨き抜かれた対応だ。
高広が呟いた。
「そんな馬鹿な。父はひとりっ子で兄弟なんかいないし、母は上に姉がいるけどずっと独身で」
サヤカは笑顔を崩すことなく、
「ご存じないのも無理はありません。わたしの父が生まれたことは、祖父も知らないこと。いわゆる『隠し子』という存在でしたもの」
と歌い上げるように語った。
カウンターのスツールに浅く腰かけて聞いてた、同じく常連の栗田さんの目が、「『隠し子』とは」と鈍く光った。
「前マスター、虎之介さんの昔の職業は、役者。すごいイケメンだったからには、旅先でもさぞモテていたに違いない。恨めしい。羨ましい。ごいんきょ、何かお言葉を」
栗田さんは暗い声で祈るようにそう言って、隣の常連さんに振った。
「ごいんきょ」と呼ばれた宮部さんは、帽子を脱いで細いしっぽを指先で捻り、いつものごとく極端に丁寧な言葉づかいで言った。
「うーん、そうですねえ。先代のマスターは確かに美男子でらっしゃいましたけど、奥さんの麗さんひと筋でらっしゃいましたからねえ。お嬢ちゃん、あなたのお父さまは、どちらでお生まれになったでしょうかしら」
宮部さんは長く商売をしていたからか、いつでも、誰に対しても、とても丁重に接する。その姿勢はうやうやしいと言ってもいいくらいだ。ときおり敬語を通りすぎて、日本語がおかしなことになっていたりする。
カウンターの中から高広が見ていると、へりくだったもの言いが時折相手を勘違いさせることがあり、宮部さんを見くびって高飛車に出た輩には、ビシッと完膚なきまでに叩き潰して楽しんでいる。これをやりたくてわざと下手に出ているんじゃないか、これが宮部さんの趣味なんじゃないかと高広は疑っている。
コワイじいさんだ。
トレードマークの帽子の下は、テッペンが少うし薄くなっている。肩の長さの髪は飴色と黒が混じっていて、伸ばし慣れていないのか、宮部さんがそれを引っ張るのは、何か気になることがあるときだ。
サヤカの笑顔がふっと曇った。
「あ、あの、父も母も亡くなってますので、そうした詳しいことはよく……」
うつむいてしまったサヤカに、常連のおっさんたちは焦ってしまった。
「あらあら。大変どうもすみませんことでしたねえ。問い詰めようだなんて積もりはみじんもなかったのですけれど」
「とくに何かを疑っているという訳ではないのだ。ただ、突然このくたびれた都落ちマスターにカワイイ従妹が発生したという異常事態に、驚きのあまり……」
「マスター、お嬢さんに何か温かいものを出してあげたらいいんでないかい?」
タイミングよく、バイトの良平が無言でココアを運んできていた。良平が卓にコトリと置いたカップを、サヤカの細い指が取った。
みんなで食べた遅めの昼食、オムライスの皿を片付け終わった良平は、やはり無言のまま、呆然と突っ立っている高広の脇を通りすぎ、カウンターの端でエプロンを外した。
「じゃ、マスター。俺行きます」
「あ、ああ。行ってらっしゃい。気をつけて……」
常連さんたちも口々に「大学でございますですか?」「行っておいで」と見送った。良平は彼らに軽く頭を下げて店を出ていった。
オムライス。決してまずくはないしそこそこおいしいのだが。
やはり何かが違うのだ。
高広の祖父、森井虎之介は大学生だったため出征が遅く、兵隊に取られてすぐ敗戦を迎え復員してきた。
戦地での経験に考えるところがあったのか、虎之介はその後学業に戻ることなく、新劇の舞台に立とうと当時勢いのあった「劇団誠」に入団した。
が、芝居で食べていくことは容易でなく、数年で劇団を辞め、拾ってくれた大衆演劇の一座について日本国中を旅して回った。
旅の途中で一座の看板女優であった草壁麗子と恋に落ちるも、女優に手を出すなど論外、御法度中の御法度であり、一座にいられなくなったふたりは手に手を取って逃避行。
流れ着いたのが北海道。そこでふたりで働いて、ようやく溜めた資金でこの店舗兼住宅を手に入れた、と。
高広はそう聞いているし、常連たちが折に触れ語ってくれる「虎之介さん」「麗さん」夫妻の思い出も、同じ物語の各エピソードであった。
その物語には、麗子以外の女性との交流は出てこない。
サヤカの父が虎之介の落とし胤だとすると、虎之介がドサ回り中のどこかの地で出会った土地の娘か、それとも新劇役者を目指した売れない極貧時代を支えてくれた歳上の女性でもいたものか。
いずれにせよ、祖母の麗子と出会う前、虎之介本人のあずかり知らぬことであったに違いない。
「サヤカちゃんには悪いが、にわかに信じられない話ではある」
常連の栗田さんが腕を組んだ。
栗田さんは東京でエリートサラリーマンをやっていたが、業界つながりで札幌の会社へ引き抜かれ、今は引き抜かれたその会社の役員をしている。
社会に出た頃は爽やか好青年だったというが、あまりの激務にすっかりひとが変わってしまい、ひとたび仕事を離れると闇堕ちキャラを隠すことができない。今いる会社でも、社を引っ張る有能な五十代役員の仮面をカンペキに演じ、その反動でこの「喫茶とらじゃ」ではほとんど厨二病、病ンデレ全開になっている。
まあ「爽やか好青年だった」というのも本人申告で検証のしようもなく、高広も常連の面々も、話半分で聞いているのだが。
時間に縛りがないためかしょっちゅうやってきて、コーヒーを飲んだり、ブツブツ呟きながら考えごとをしたりしている。
こんなんでも仕事スイッチが入ると接待上手だそうで、夜に仕事がらみの会食が入っているときなどは、ギリギリまで「行きたくない……」とカウンターにかがみ込んでグデグデしている。
そんなときは、同じく東京でサラリーマンをやっていた高広が、「そろそろ行きましょうか」と尻を叩いてやらねばならない。
ほかの常連さんたちには自営が多く、「そんなに行きたくないなら、行かなきゃいいじゃん」と甘やかすからだ。
「まあまあ、若い頃なんて、いろいろなことが起こるもんでございますよ。晩年のひととなりからは、想像もできないような一面があったりすることでしたって」
宮部さんはそう言った後、慌てて高広に「あらあらごめんなさいね、そういう意味ではありませんでしたのですよ」と謝った、高広は首を振った。
宮部さん、通称「ごいんきょ」は常連さんたちの最高齢。多分七十代だ。伸びた髪をしっぽのように後ろで小さく結び、いつも帽子をかぶっている。
手広くいろんな商売をやっているらしいが、今はほとんどを息子に譲り、悠々自適な生活を送っている。
当然時間も自由で、とにかくヒマらしく、「喫茶とらじゃ」へはほとんど毎日通ってくる。豊富な人生経験から、お客さん同士の相談事に乗ることも多いようだ。
祖父の死後、この小さな喫茶店を引き継いだ高広を可愛がり、何かと目をかけてくれる。
「あなたのお父さんは、何年生まれ? 若くして亡くなったんだねえ、お気の毒に」
穏やかな口調で川崎さんが訊いた。
川崎さんは設計事務所の二代目社長で、すぐそこに事務所がある。
今は引退している父上の事務所に入ったとき、一番下っ端なのに名ばかり「専務」と呼ばれ、軽んじられたりいじられたりして、大層苦労したらしい。「ごいんきょ」宮部さんには、ちょいちょい部下の掌握術を伝授してもらったそうだ。
社長に昇格した今は、上は父上の代から金庫番をしている老婆に近い女性から、下は一級建築士を目指して日々精進中の二十代女性まで、部下は全員女性。鍛えられ、苦労して、今は楽しく働いているらしい。
マニアックな趣味があり、「喫茶とらじゃ」をその趣味仲間との交流にも使っている。ちょっと怪しいブツの受け渡し場所とかに。
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サヤカは指を折って数え始めた。
そこへまた鐘の音が鳴り、原色を幾何学模様に配したワンピースにつば広帽の女性が入ってきた。
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「おお、菅原さん。先日はどうも」
「んん? 川崎さん……、菅原さんに何か頼みごとを? 今度はどんな企みが?」
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菅原さんはにこやかにヒールを鳴らして店内を進んだ。
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「いいロゴができたって、喜んでたよ」
菅原さんは絵描きさんだ。油彩画を描くが、展覧会の合間にはテキスタイルデザインから商業デザインまで幅広く手がけている。年齢は、高広からは五十代くらいに見えているが、女性の年はよく分からない。
川崎さんの後ろのボックス席に座って、菅原さんは大きく振り返った。
「で、みなさん、いったい何が起こっているの?」
「あ、マスター、わたしブレンドね」と高広に声をかけて、菅原さんはサヤカと、彼女を取り囲む面々にそう尋ねた。
「いやあ、このお嬢さん、どうやら虎之介さんのお孫さんらしいんだけどさあ……」
川崎さんが説明を始める。サヤカは神妙な顔をしてココアを飲んでいた。
「ブレンドです」
高広が菅原さんのオーダーを持っていった。
「ありがと」と菅原さんは、手入れされた赤い爪でカップを持ち上げた。数秒香りを楽しんでから、おもむろにカップに唇をつける。
三十を過ぎて突然相続した祖父の店を継いだ高広を、厳しいが、優しく、辛抱強く育ててくれる常連さんたちのひとりだ。
「で? お嬢さんは何が目的で尋ねてきたの?」
菅原さんはボックス席の外に行儀よく脚を並べて、サヤカの方に向き直った。川崎さんが「このお嬢さんは虎之介さんのお孫さんだって」と伝えると、すぐに事態を把握したようだ。
「あ、あの、わたし……」
「前のマスターが亡くなってから、もう二年経つわよね。今までどうしてたの? どうして二年経ってから、ここへ来る気になったの? 何か、用があるのよね」
川崎さんが、「菅原さん、そんな、尋問するみたいな」と止めようとしたが、菅原さんは真顔で言った。
「いとこ同士、積もる話もあるでしょう? だったらあたしたち、遠慮しなきゃ。込み入った、他人に聞かせたくない話があるんじゃない?」
高広は焦った。
「いえ、そんな、みなさんいてくださいよ。祖父のことは、二、三度しか会ったことのない僕なんかより、みなさんの方がずっとご存じなんですから」
押しの強いサヤカとふたりきりにされてはたまらない。
全員の視線がサヤカに集中した。サヤカは困ったように顔を赤くした。
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