喫茶とらじゃの三日間

松本尚生

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十一、五月十四日 木曜日 十二時

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 今日の人数は……七人か。高広は頭の中で卵の数を計算した。チキンライスを包むオムレツは、ひとり二個分ではちょっと多くてうまく扱えない。

 とりあえず量が多くなるので、ライスは二回に分けて炒めることにした。

 高広は自分に突き刺さる視線に耐えきれず、「みなさん、少し早いですけどお昼にしませんか」と提案したのだった。常連さんたちと囲む「喫茶とらじゃ」のランチと言えば、特段のオーダーがない限り、オムライス一択だ。

 フライパンを熱したところに、バターとサラダ油を半々に入れる。そこへタマネギを炒めて、香りが出たらほかの具材を炒め合わせる。炊いたご飯はその後だ。

 カスガ・フーヅから仕入れた調味料を、教えてもらった通りの配合で混ぜ合わせて味をつける。ここまでは、祖父もカスガさんから同じように教えてもらって、材料もカスガさんから仕入れていたから、間違いはない。

 赤みのついた炒め飯を脇へよけて、別のフライパンを火にかける。卵専用のフライパンだ。

 高広は卵をボウルに割り入れ、塩・こしょうをした。カシャカシャと混ぜていると、いつの間にか寄ってきていたサヤカが「あら……?」と漏らした。

「何? サヤカさん。どうしたの?」

「マスター……そのぉ」

「うん?」

「牛乳、入れないんですか?」

「牛乳!?」

 おっさんたちがわさっと一斉に立ち上がった。

「牛乳入れるの? 卵液に?」

「え……まあその、入れなくてもオムレツはできると思いますけど、わたし、昔バイト先で牛乳をほんの少し垂らしてるのをよく見かけていたので」

 ごいんきょが大きくうなずいた。

「そういえば、テレビで見たことがありますですよ。サスペンスドラマでしたかしら、隠し味でシェフがオムレツに牛乳を入れるシーンを」

「え? ホントですか」

 高広は急いで頼んだ。

「良! 冷蔵庫から牛乳取って」

 言われる前に良平は動いていた。素早く冷たい牛乳パックを高広に手渡す。

 フライパンは温まりつつある。のんびりしてはいられない。

「このくらいかな」

「は、はい。ほんのひと匙程度でした」

 新しい隠し味が加わった卵液を鍋に流すと、ジュッと景気のいい音がした。ここのところ、毎日オムライスを作っている。手際もすっかりよくなった。

 上がった端から皿をカウンターに上げていった。高広の作業を見守る常連さんたちに、良平がひと皿ずつ大事そうに運んだ。

 みんなの前にオムライスが行き渡った。しんと鎮まった店内に、スプーンが皿に触れてカチャリと言った。

「これ、だ……」

 今日のオムライスを口に入れたセンセエが、思わずそう漏らした。

「そうそう、これですよ! マスターのオムライスは、確かにこの味でございました!」

 ごいんきょも嬉しそうにそう叫んだ。

 センセエもスプーンを片手に、大きくうなずいている。

 高広は緊張しながら卵を破り、ライスと絡めてそっと口に運んだ。

 ふわっと卵の甘い香りが立って、ないはずの古い記憶が呼び起こされるような気がした。

「…………うまい」

 思わずそう漏らした高広に、カウンターの中の作業台に皿を置き、立ったままオムライスを頬ばった良平が隣で大きくうなずいた。

 そうか。隠し味は牛乳だったのか。

 ようやく「喫茶とらじゃ」は「看板メニュー」を取り戻した。

          
「懐かしゅうございますねえ。虎之介さん、芸達者なひとでいらっしゃいましたよ。興が乗ると見得を切って見せてくださったり、落語なんかも二、三本おできになってねえ」

 ごいんきょはしみじみそう言って、センセエの方を向いた。

「センセエとは、シェークスピアでらっしゃいましたよね」

 センセエはうなずいた。

「新劇時代は翻案劇もかけてたそうですね。下積みだったでしょうけど、『マクベス』なんて詳しかったですよ」

「ママの麗さんもキレイなひとで、知ってます? 歌上手かったんですよ」

 川崎さんが高広に笑顔を向けた。

「美空ひばりや、ビリィ・ホリデイなんかが得意で」

 高広が祖父母と過ごした古い記憶には、残念ながらそうした芸事にまつわるものはない。

 ごいんきょがふっとため息をついた。

「……息子さんはとてもお出来がよくてらして。おふたりとは全然タイプの違う真面目なひとでらしたから、反発して出ていってしまわれましたけれども。……こんな立派なお孫さんが戻っていらしてくださって」

「そうそう。それを見られただけで、俺たちはさ、思い残すことないんですよ」

「だから」

 ごいんきょが、センセエが、川崎さんが、高広に大きくうなずいて見せた。

「行きな、新しい店に」

 マホガニーのドアの向こうを、賑やかな宣伝トラックが通り過ぎていった。店の前の信号機から、鳥のさえずりが聞こえてくる。

「いやなに、車でひとっ走りですから。しょっちゅう通いますよ」

「おいしいオムライスが復活したんだ。わざわざ食べにいく価値があるってものさ」

「わたくしだって、たまにひとつタクシーをつかまえまして、ご尊顔を拝しにうかがいますよ」

 常連さんたちは代わる代わる言った。妙に明るい声を出して。

 高広はぼそりと答えた。

「行きませんよ」

「はあーっ!?」

 全員の視線が再び高広の顔に集中した。

「痛い痛い。みなさん、視線向けすぎ」

 高広は頬をさすった。

 酒井さんが慌てて立ち上がった。

「じゃあマスター、この話、断るってこと? 断っちゃうの? いいの?」

 酒井さんは鳩が豆鉄砲を食ったような表情をしている。

 高広はカウンターの中から腕を伸ばして、ごいんきょと酒井さんの皿を流しに下ろした。

「あれから僕もざっくり試算してみましてね」

 良平がカウンターを出て、ボックス席の空いた食器を下げた。サヤカがやってきて皿を洗う。高広はランチのコーヒーを人数分落とし始めた。

「売上は確かに上がりますよ。うまくやれば、多分三倍くらいにできるでしょう。でもその分経費も増えます。計算してみたら、ココにいるのと、結局収支はあまり変わらない」

 良平が作業台に人数分のカップを並べ、高広が使って残った湯でそれらを温めた。酒井が顔の前でぶんぶんと両手を振った。

「大丈夫大丈夫! しっかり利益が残るように、俺教えるし。店舗内レイアウトやメニュー構成から一緒に考えよう」

 高広は良平の準備したカップにコーヒーを注いでいく。

「祖父が死んで、日本に戻って来られない父の代わりに、ここを引き継いだあのときに」  

 高広はカウンターにコーヒーを出す。良平が重ねたソーサーとコーヒーの入ったカップをトレイに載せ、手際よく客席に配って歩いた。

「金のためにあくせくするの、止めたんです」

 高広はキッパリ言い切った。

「それが、祖父の本当の遺産です」

 ひと目を気にして、普通に生きて。それなりに優秀であると評価されるため、満員電車に詰め込まれて出社し、過剰なほどに気を遣って、終わらないタスクを終わらせて夜中の電車で帰る。金は稼げるが、何のために稼いでいるのか、貯まる金の使い途すら見つからなくて。

 そんな「普通」の生活から、脱出できたこと。それこそが、祖父が自分に残してくれたものだ。

 高広が心の底から感謝している、祖父の遺産だ。

「じゃ、このコに二号店をやってもらおう?」

 酒井さんは良平の袖を捕まえて食い下がった。良平は間髪入れず「ムリ」と答えた。

「俺、まだコーヒーの淹れ方安定してないし、まだ学生だから、あんなとこじゃ学校に通いにくくなるし、それに」

 良平は唇をかみ、酒井さんの指から力が抜けた一瞬を見抜いてスルリと抜けた。

 小走りにカウンターの中へ逃げてくる良平に、サヤカが厳しくツッコんだ。

「『それに』何よ?」

 良平は高広の背に身体を半分隠して、サヤカをキッと睨んだ。

「何だっていいだろ!?」

 サヤカは「ふふーん」と不敵に笑った。

「とくに思いつかなかったんでしょー」

「うるさいな」

 ああ、また始まった。高広はげんなりした。ひとつ片付いたらまたコレだ。そんな高広の気持ちを知ってか知らずか、サヤカは今度は高広に噛みついてきた。

「お兄さま、後はもう一ヶ所しか残っていませんの。お二階の居住スペースを拝見してよろしいですわね」

「よろしい訳ないだろ! 何でだよ?」

 良平が勢いよく言い返した。サヤカはそちらには構わず、細い指を合わせて「お願い」をした。

「店の中、車庫と探して見つからなかったのよ。あとはもうそこだけです。お願いしますお兄さま」

 サヤカの甘い微笑みに負けることなく、高広はキッパリと断った。

「ダメだよ。君のような若い女性を上げることはできません。それにさっきも言ったけど、じいさまの遺産は『この店』で、台本なんかなかったし今もない」

 サヤカは唇を尖らせて何か考えている。この子は何を狙っているのか。目的は何なのか。

 何を待っているのだろうか。

 高広のガマンは限界を越した。これ以上サヤカに引っかき回されてはたまらない。

「それに君、あのひとの本当の血縁じゃないよね。おかしいんだ。祖父の本当の身内なら、彼を『虎之介』なんて呼ばない。なぜなら」

 そのとき。

 カラン!と扉の鐘が勢いよく揺れた。

「沙耶香!」

 みんなが一斉に扉の方を振り返った。
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