喫茶とらじゃの三日間

松本尚生

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十二、五月十四日 木曜日 十三時

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「沙耶香!」

 パーカーにジーンズ、明るめの前髪はやや長め。取りたてて珍しいところのない若者が、長い腕を伸ばして店の扉を開けていた。

 どこから走ってきたものか、若者は肩で息をしている。言葉が出ない。

 長い数秒ののち、ようやく川崎さんが尋ねた。 

「どなたです? 森井サヤカさんのお知り合いですか?」

 若者は大きく首を振った。

「森井サヤカ? 違いますよ。彼女の名前は岡本沙耶香。『森井』はこちらのマスターのお名前でしょう」

 彼は早口でそう答えた。サヤカがボックス席からそっと立ち上がった。肩がふるふると震えている。

「瞬ちゃん……!」

「どーした瞬。大学は?」

 震えるサヤカとほぼ同時に問うたのは。

 センセエだった。

 若者はセンセエの声のした方へ向いた。

「父さん」

「えーっ!?」

 今度はみな一斉にセンセエを振り返った。

「バカッ! どうしてもっと早く来ないのよ」

「沙耶香ちゃん……」

「もう! こちらのマスターにものすごくご迷惑かけちゃったじゃない。分からなかったの? わたしがどこにいるか」

「ごめん。ごめん沙耶香ちゃん。俺、一生懸命探したんだよ。大学のみんなは誰も何も知らなかったし、劇団にも行ってみた。別海の実家にも帰ってないって言うし。でも、どこにもいなくて……」

「当たり前よ! そんな、すぐ見つかっちゃうようなところに避難してる訳ないでしょ」

「『避難』って何だよ。俺、沙耶香ちゃんにそんなひどいことしたか?」

「ひどいわよ! あたしの考えなんて、一個も聞いてくれてない」

「『一個』もなんて。いつも何でも聞いているじゃないか」

「『いつも』の話なんてどーでもいいのっ! 今はオーディションの話をしてるんじゃない」

「いや……だからさ……」


 川崎さんが、「じゃあ…………またね……」と、ものすごく残念そうに出ていった。どうしても延ばせない、仕事の約束があるのだそうだ。

 高広も、この局面で川崎さんがいなくなるのは心細い。修羅場の予感がするときに、川崎さんほど女子の言い分をよく聞いて、その感情をフラットになだめられるひとはそういない。

 ごいんきょもかつては上手だったのだろうが、若干パワー不足を感じる。サヤカが本気で暴れたら、ごいんきょにはもう手を出せまい。そしてそれは当然、自分もだ。

 川崎さんが立ち上がったあとの席、センセエの向かいに若者は座った。その隣にサヤカが並んだ。

 良平がコーヒーを運んでいった。青年は礼儀正しく頭を下げた。

「……で」

 誰も口を開こうとしないので、しようがなく高広は水を向けた。

「君は結局、誰だったんだい?」

 どこから突っ込むべきか分からないので、高広は自分の従妹をかたったサヤカにそう訊いた。この騒動の中で、多分、唯一自分と関わりのある部分だ。

「……」

 サヤカはばつ悪そうに目を伏せて黙っている。隣の若者が説明した。

「このひとは、岡本さんです。岡本沙耶香さん」

 若者はポッと頬を赤くした。

「僕の、その……」

「はいはい。『彼女』さんね」

 心の底から面倒そうに、良平が話を進めた。

「そんで? 何でマスターの従妹を名乗って、ここへ乗り込んできた訳? 『遺産』って何? 嘘までついて。ただの痴話ゲンカにしちゃ、ムチャムチャ迷惑なんだけど」

「すみません……」

 ようやくサヤカが口を開いた。肩を縮こめてうつむいている。さっきまでの強気な「サヤカ」が徐々に薄らぎ、口調も表情も穏やかになってきた。

「謝ってくれても、あんたに煩わされた時間は戻ってこないよ」

 良平は小さくぼやき、そっぽを向いた。高広は「まあまあ」と良平の肩をさすった。

「で、その『岡本さん』が、どうしてウチの祖父の関係者を名乗ってやってきたの? さっきも言ったけど、本当の関係者じゃないことは、最初からまあまあ分かっていたんだけど」

 サヤカの唇がかすかに動いた。

「ご……ごめんなさい。ご迷惑をおかけしました。あの。……あの、わたし」

 良平がヒュッと息を吸った。きっとまた何か辛辣なことを言う。だが、ここでサヤカを責めてもしようがない。高広は良平の二の腕を引いて、カウンターの中の作業用スツールに座らせた。立っているより座っている方が、次の行動に移りにくいものだ。

 若者が、うつむくサヤカを心配そうにのぞきこむ。

 高広はもうひとりの重要人物に尋ねた。

「そして、センセエ。このひとたちはどなたなんですか? 息子さん?」

「ああ……」

 珍しくセンセエが口ごもっている。どこから説明したものか、センセエはセンセエで考えあぐねているようだ。

「すまんね、マスター。まさかこのお嬢さんが、わたしのところの関係者とは思いもしなくって。ご迷惑をおかけしました」

 高広は、ほかの常連さんたちと同様に、黙ってセンセエの説明を待った。

「お察しのとおり、そこのあんぽんたんは、ウチの息子です。瞬と言います。そしてそちらのお嬢さんと、お付き合いして……るんだよな、あんぽんたん?」

「そうだよ」

 瞬はムスッとしてうなずいた。「『あんぽんたん』って……いつの言葉だよ」と瞬はぼやいた。

「お前は釧路にいるはずだろ。大学は休んできたのか? そしてこのお嬢さんは? 同じ学生なのか?」

「そう。同じ大学の、一学年下」

 瞬も、彼女を親に紹介するタイミングは、自分で選びたかったろうに。

「専攻科も同じなのか?」

「いや、彼女は国語専攻」

「そうか」

 …………。

「いや! 『そうか』じゃなくってね!?」

 酒井さんが突っ込んだ。

「できれば早く進めてくれませんか? 川崎さんじゃないけど、俺もそこそこ忙しい身でしてね」

 この彼女がどこの誰で、何の目的でこんなことしたのかが判明しないと、気になって仕事に戻れないと酒井さんが訴えた。ごいんきょも高広もその言葉に大きくうなずいた。

「わたしが『将来のためにチャンスをつかみたい』って言ったら、瞬くんが『絶対成功する訳ないんだから、止めろ』って反対するんです」

 サヤカは下を向いたままそう言った。

「『チャンス』って?」

 高広は訊いた。

「オーディションです。映画の。書類選考を通って、これからオーディションがあるんです。それを受けてみたいのに、瞬くんたら……」

 瞬はサヤカの方を向き直って言った。

「だって! 通る訳ないだろ。ひとつの役に、何人が応募したんだって?」

「書類選考を通ったのは、大体二〇人くらいだって……。二五〇人中の二〇人に残れたんだよ」

 サヤカは目を伏せたまま、小さな声でそう返した。

 ここ三日間の、自分の可愛らしさを知り抜いて傍若無人に振る舞っていた彼女と、ここにいるのはまったくの別人だった。

「それに、瞬くん、ひどいこと言ったじゃない」

「ひどいことって何だよ」

「『お前なんて地味だから、芸能界で通用する訳ない』って。それはそうかもしれないけど……。やってみてダメだったら諦めもつくけど、やってもみないで『止めろ』って言われても納得できないもん。わたし、何年も経ってから後悔したりするの、嫌なの。だから、チャレンジだけでも、してみたいの。何度もそう言ってるのに……」

「うーん」

 高広は腕を組んだ。

「あなたたちのケンカの経緯は大体分かりました。瞬くんに反対されて、沙耶香さんは釧路を飛び出してきたんだね?」

 高広にそう言われ、サヤカはこくんとうなずいた。

「じゃあ、飛び出してきた君は、どうして『喫茶とらじゃ』に来たの? どうして僕の祖父のことを知ってたの?」

「それは……」

 言いよどんだサヤカの後を、瞬が引き継いだ。

「父さんがいつも話してた、『喫茶とらじゃ』の話。いつだか俺、沙耶香にも話したんです。旅回りの役者だったマスターと、看板女優のママさんがやってる、札幌の小さな喫茶店だって。常連さんたちに囲まれて、ママさんもマスターも死んじゃったけど、孫さんがお店を継いでるって」

 センセエの息子の瞬くんは、ここから東へ三百㎞ほど離れた釧路で、教員養成の大学に通っているのだそうだ。同じ大学に通う恋人のサヤカがケンカのあといなくなり、あちこち探したがどうしても見つからず、最後に自分が以前「喫茶とらじゃ」の話をしたことを思い出してここへ来た。

「まさか沙耶香ちゃんが、ここに来ているなんて……。道理でどこ探しても見つからないはずだよ」

 サヤカは瞬が迎えにくるのを待っていたのだ。彼がいつやってくるか、いつこの店のことに思い至るか、気が気でなかったに違いない。そのための時間稼ぎのために、ありもしない遺産をでっちあげ、ないはずの「台本」を探していたのだ。

 今、瞬の隣で身を縮こめているサヤカは、さっきまでの気の強い、可愛いけれどワガママで、自信いっぱいのサヤカとはまるで別人だった。どちらかというと物静かで、顔立ちはキレイなのに線が細くて……「サヤカ」とはむしろ真逆なタイプに見える。

 演技、だったのか。

「瞬ちゃん、気付くの遅いよ」

 サヤカはようやく顔を上げた。

「喫茶とらじゃの話は、全然関係ないあたしが聞いても、とってもいいお話だった。いったんは人生を賭けた芝居を諦めて、ママさんと穏やかに暮らすのを選んだマスター。看板女優の立場を捨てて、自分を選んでくれたマスターを死ぬまで支えたママさん。……あたしにそんな話を聞かせておいて、あたしが看板女優を目指すの、どうして止めるの?」

 ん?

 看板女優?

 高広が訊き返すより先に、センセエが口を開いた。

「沙耶香さん、女優って、どういうことだい? そんで瞬、お前反対してるのか」

 瞬は唇をへの字に曲げて目を伏せた。

 彼らの会話は膠着しそうだった。そこへ、高広はランチの皿を運んでいった。たった今完成したばかりの、この店の看板メニューだ。

「今釧路から着いたなら、お昼ご飯まだなんじゃない? 『喫茶とらじゃ特製オムライス』、よかったら食べてよ」

 瞬は顔を上げた。

「あ……、ありがとうございます、いただきます」

 高広は、「安心して、お代はお父さんの方につけとくから」と笑ってカウンターに戻った。

 瞬がスプーンを口に運んでいる間、沙耶香はポツポツと語り始めた。

「あたしは演劇がやりたくて、中学生の頃から演劇部に入ってました。でも、釧路にいたんじゃその先がない。最終的に地元の劇団に入るにしても、どこかでもっと実力をつけないと通用しない。別にあたしは、実家住みにこだわる理由もない。チャレンジしたいんです。それで」

 サヤカは映画の新人発掘オーディションに応募したのだそうだ。書類選考が通り、次の選考は東京……というところで、瞬くんに反対されたと。

 瞬はもぐもぐと口を動かしながら、黙って彼女の話を聞いている。高広も、良平も、ほかの常連さんたちもじっと聞き入っていた。高めの澄んだ声だった。

「北海道にいるのがイヤなんじゃないの。いずれは地元の劇団で看板女優になれればとても嬉しい。でも、それには実績が必要なのよ。今回の仕事がダメでも、東京にいればチャンスだけはある。釧路にいたら、いいえ、札幌に出てきたって、北海道にいたままじゃ、実績を積むチャンスそのものが皆無なのに……」

「『皆無』ってことはございませんと思いますけれども。確かにサヤカさんのおっしゃる通り、実力を身につける機会そのものは、いささか少のうございますわねえ」

 ごいんきょがゆったりとした口調でそう言った。

「それに、『中央信仰』と申しますか、こちらでお仕事をなさるにしても、東京で活躍なさっていたという経歴がございますと、周囲の見る目が変わるものでございます。ええ」

 ごきんきょが携わってきた業種は多岐に渡るが、主要なひとつに「宮部興業」というのがあった気がする。ごいんきょは、こうした興業もの、つまりイベント系のエンタメを、ずっと生業なりわいにしてきた事情通だった。

 サヤカはごいんきょの言葉に大きくうなずいた。

 瞬くんはまた下を向いた。

「それはそうかもしれないけど……」

 高広が受けた印象では、瞬くんはかなり真面目な学生さんだ。そこそこ優秀でセンセエの自慢の息子なのに、入学志望者が多くて倍率の高い札幌の大学に進まず釧路を選んだ辺り、挑戦をしない堅実な性格なのだろう。そんな子が、当たるか当たらないか分からない、当たる確率がほとんどゼロに等しい役者なんて危険な道を、恋人に歩ませたくないと思っても、無理はない。

 だが、人生に「絶対」はないのだ。

 高広にしたところで、そこそこ名の通った大学を出て商社に入ったときは、このまま金に困ることなく一生暮らせると信じていた。それが、紆余曲折あって、今はこんな小さな喫茶店をやっている。一応何とか食えているが、商社マン時代の貯金には手を付けないよう、注意を払っての毎日だ。

 どんな道を選んだとしても、瞬くんの好みに合うような、「ハズレのない人生」なんてあり得ない。

「だから、とりあえず一度オーディションを受けてみたいの。そんな、すぐにお仕事が来るとは思ってない。でも、オーディションの感じで、あたしががんばれそうかどうか考える。一緒に受けるほかのひとからも、いろいろ話を聞いてこようと思ってるし」

 サヤカは隣の瞬の方へ向き直った。

「あたしはまだ、東京に出て、本気でやってくと決めた訳じゃないのよ。そのための情報を集めたいって段階なの。結論も出してないのに、いきなり『反対』しないで」

 瞬はスプーンを持ったまま何も言えない。

 センセエがのんびりと言った。

「あー、何だ。サヤカくんをひとりで東京に出すのがイヤなら、お前も東京で大学院を探せばいいだろ。いないのか? 学会で見た中で、『いいな』と思う先生とか」

「と……父さん……」

 瞬は目を白黒させた。

 さすがセンセエ。サヤカ本人がまだ結論を出していないのに、気の早い話だ。

 だが、瞬くんは多分、賢くて、先々を読みながら計画的に生きたいタイプだろう。なら、ずっと先の可能性まで見通せた方が、これから選択することを冷静に判断できるのかもしれない。父親ならではの助言なのか。

 瞬は黙って考えている。

 常連さんたちは、彼らを固唾を呑んで見つめている。

 しばらくして、瞬はようやくひと言、「分かったよ」と呟いた。

 サヤカは無言で瞬の肩に額をつけた。

「よしよし、いい男になったな、お前」とセンセエは言った。
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