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十三、五月十四日 木曜日 十八時
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妙に気の抜けた午後の空気。チョコレートドアの向こうから、柔らかな光が店内に差し込む。
高広は、良平とごいんきょと、さっきまでの顛末を振り返っていた。
「あいつ、あそこでサヤカを止めてたら、一生言われるな。『アンタがあのとき邪魔をしたから』って。怨まれるから、絶対」
「それは間違いございませんですねえ」
「それってもしかして、嫁さん側がやりたがってた結婚式をしないってのに似てますかね」
「そうそう! そうでございます。まったく同じ構造でございますですよ」
若いふたりは釧路へ帰っていき、センセエは大学へ戻っていった。
センセエに説得されて、瞬くんはサヤカの東京行きを受け入れた。釧路行きの列車にまだ間に合うからと、サヤカと瞬くんは手をつないでJRの駅に向かった。
センセエは「自分の身内が迷惑をかけた」と、高広に宿泊費、食費相当の金額を納めた。高広は少し考えたが、遠慮なくもらっておくことにした。貸し借りなしのフラットな関係を保つ方が気楽だと思ったのだ。
常連さんたちといい距離感を保つには、お互い負担に感じない間柄でいた方がいいだろう。
若いふたりを見届けて、ごいんきょも帰っていった。全て終わってからやってきた栗田さん(闇)は、そんな劇的な場面を見逃したことにブツブツと不満を漏らした。
「ええぇぇ? なんでそんな面白い展開になってるのを、誰も教えてくれなかったんですか……。ちょっと声をかけてくれたっていいじゃないですか……。そんな面白い見世物なら、仕事なんて放り投げて目撃しに来ますよ。ひどい……冷たい……そして、こんなにこの店に通ってるのに、そういうとこだけ見られないとは、我ながら何という『見放され感』。くそぅ、天め」
ずいぶんスケールの大きな恨み言になっている。さすがは栗田さんだ。
誰とはなしに、今日は早々に家族の許へ引き上げていった。みんな近しいひとの温もりが恋しくなったのか。あの栗田さんにしても、ちゃんと家族は持っている。驚くべきことだ。家庭ではあの闇属性をどうしているのだろうか。抑えている? それとも全開にして、家族間でのネタにしている?
「サヤカが『二階を見せろ』って言ってきたときさあ」
「うん?」
「喫茶とらじゃ」も、今日は早めに閉めることにした。
サヤカに引っかき回され、酒井さんの持ってきた話にドキドキして、いつになく盛りだくさんの三日間だった。
「お疲れさん」の意味を込め、高広は良平に「寿司でも取ろうか?」と聞いた。良平は少し笑って首を振った。
高広は早めにまかないを用意した。オムライスの練習用に仕入れた鶏肉やらタマネギやら、これからはそんなに要らなくなる。
ようやく祖父のレシピが再現できたのだ。もう練習は必要ない。
古くなってしまわないうちに、処理してやろうか。それとも、練習に作っていたのと同じ数くらい、オーダーが入るようになるだろうか? そうなったらいいのだけれど。
照明を落とした店内はぼんやりとして、オレンジのライトがグラスの縁にきらめいた。カウンターに並んで、高広は良平とビールで乾杯した。いつものことだが、良平は今度もよくやってくれた。
「なんか最後に言ってたじゃん? 『血縁だったら虎之介なんて言わない』とかなんとか」
「……ああ」
「あれ、どういう意味?」
高広は苦笑した。
「おれのじいさん、『虎之介』って名前じゃないんだよ」
「はあ?」
良平はあんぐり口を開けた。
「『虎之介』は大衆演劇の座長につけてもらった芸名だってよ。本名は森井征之。『誠』にいた頃は、征之を名乗っていたはずだよ。彼女のおばあちゃんと出会ったのって、その頃なんだろ? サヤカの演じた脚本的には」
高広はちょっとしんみりした声で言った。
「この店では『虎之介』で通っていたから、常連さんたちの手前、俺もそうと呼んでいるけど。祖父が生きている頃は、『虎之介』なんて名前、意識したことなかったよ」
良平はグラスを片手にくつくつと笑った。
「なぁんだ。じゃあ、初めから分かってたの? 彼女が嘘をついてるって」
高広も口の端でニヤリと笑った。
「まあな。だから少しずつ、その可能性を潰していった」
良平はグラスに残ったビールをぐいっと飲み干した。
「悪い大人だなあ」
「そりゃね、だてに九年間商社勤めで、海千山千のくせ者ばかりと渡り合ってきた訳じゃないよ」
「ふーん」
高広は冷蔵庫から新しいビール缶を出し、良平と自分のグラスに注いだ。
「……何か、カッコいいな」
良平は呟いた。
「まあなぁ」
高広はいい気分だった。
二缶目のビールを咽に流し込み、高広は言った。
「良、お前もたまには家へ帰って、親に顔でも見せてやれば?」
良平こそが、サヤかが嗅ぎ付けた通り、元祖家出少年だった。去年の冬、良平がここに居着く前の話。
良平はグラスの縁をくわえたまま言った。
「俺の家はココだから」
「そっか」
嵐は去った。
「喫茶とらじゃ」では、またいつもの穏やかな日常が続いていく。
常連さんたちに愛されたこの店。そして祖父。同じように、高広のことも愛そうとしてくれる。
居心地のよい空間。それは、お客さまにとってだけでなく。
高広は、この店を残してくれた祖父に心の中で、今日何度目かの感謝を捧げた。
高広は、良平とごいんきょと、さっきまでの顛末を振り返っていた。
「あいつ、あそこでサヤカを止めてたら、一生言われるな。『アンタがあのとき邪魔をしたから』って。怨まれるから、絶対」
「それは間違いございませんですねえ」
「それってもしかして、嫁さん側がやりたがってた結婚式をしないってのに似てますかね」
「そうそう! そうでございます。まったく同じ構造でございますですよ」
若いふたりは釧路へ帰っていき、センセエは大学へ戻っていった。
センセエに説得されて、瞬くんはサヤカの東京行きを受け入れた。釧路行きの列車にまだ間に合うからと、サヤカと瞬くんは手をつないでJRの駅に向かった。
センセエは「自分の身内が迷惑をかけた」と、高広に宿泊費、食費相当の金額を納めた。高広は少し考えたが、遠慮なくもらっておくことにした。貸し借りなしのフラットな関係を保つ方が気楽だと思ったのだ。
常連さんたちといい距離感を保つには、お互い負担に感じない間柄でいた方がいいだろう。
若いふたりを見届けて、ごいんきょも帰っていった。全て終わってからやってきた栗田さん(闇)は、そんな劇的な場面を見逃したことにブツブツと不満を漏らした。
「ええぇぇ? なんでそんな面白い展開になってるのを、誰も教えてくれなかったんですか……。ちょっと声をかけてくれたっていいじゃないですか……。そんな面白い見世物なら、仕事なんて放り投げて目撃しに来ますよ。ひどい……冷たい……そして、こんなにこの店に通ってるのに、そういうとこだけ見られないとは、我ながら何という『見放され感』。くそぅ、天め」
ずいぶんスケールの大きな恨み言になっている。さすがは栗田さんだ。
誰とはなしに、今日は早々に家族の許へ引き上げていった。みんな近しいひとの温もりが恋しくなったのか。あの栗田さんにしても、ちゃんと家族は持っている。驚くべきことだ。家庭ではあの闇属性をどうしているのだろうか。抑えている? それとも全開にして、家族間でのネタにしている?
「サヤカが『二階を見せろ』って言ってきたときさあ」
「うん?」
「喫茶とらじゃ」も、今日は早めに閉めることにした。
サヤカに引っかき回され、酒井さんの持ってきた話にドキドキして、いつになく盛りだくさんの三日間だった。
「お疲れさん」の意味を込め、高広は良平に「寿司でも取ろうか?」と聞いた。良平は少し笑って首を振った。
高広は早めにまかないを用意した。オムライスの練習用に仕入れた鶏肉やらタマネギやら、これからはそんなに要らなくなる。
ようやく祖父のレシピが再現できたのだ。もう練習は必要ない。
古くなってしまわないうちに、処理してやろうか。それとも、練習に作っていたのと同じ数くらい、オーダーが入るようになるだろうか? そうなったらいいのだけれど。
照明を落とした店内はぼんやりとして、オレンジのライトがグラスの縁にきらめいた。カウンターに並んで、高広は良平とビールで乾杯した。いつものことだが、良平は今度もよくやってくれた。
「なんか最後に言ってたじゃん? 『血縁だったら虎之介なんて言わない』とかなんとか」
「……ああ」
「あれ、どういう意味?」
高広は苦笑した。
「おれのじいさん、『虎之介』って名前じゃないんだよ」
「はあ?」
良平はあんぐり口を開けた。
「『虎之介』は大衆演劇の座長につけてもらった芸名だってよ。本名は森井征之。『誠』にいた頃は、征之を名乗っていたはずだよ。彼女のおばあちゃんと出会ったのって、その頃なんだろ? サヤカの演じた脚本的には」
高広はちょっとしんみりした声で言った。
「この店では『虎之介』で通っていたから、常連さんたちの手前、俺もそうと呼んでいるけど。祖父が生きている頃は、『虎之介』なんて名前、意識したことなかったよ」
良平はグラスを片手にくつくつと笑った。
「なぁんだ。じゃあ、初めから分かってたの? 彼女が嘘をついてるって」
高広も口の端でニヤリと笑った。
「まあな。だから少しずつ、その可能性を潰していった」
良平はグラスに残ったビールをぐいっと飲み干した。
「悪い大人だなあ」
「そりゃね、だてに九年間商社勤めで、海千山千のくせ者ばかりと渡り合ってきた訳じゃないよ」
「ふーん」
高広は冷蔵庫から新しいビール缶を出し、良平と自分のグラスに注いだ。
「……何か、カッコいいな」
良平は呟いた。
「まあなぁ」
高広はいい気分だった。
二缶目のビールを咽に流し込み、高広は言った。
「良、お前もたまには家へ帰って、親に顔でも見せてやれば?」
良平こそが、サヤかが嗅ぎ付けた通り、元祖家出少年だった。去年の冬、良平がここに居着く前の話。
良平はグラスの縁をくわえたまま言った。
「俺の家はココだから」
「そっか」
嵐は去った。
「喫茶とらじゃ」では、またいつもの穏やかな日常が続いていく。
常連さんたちに愛されたこの店。そして祖父。同じように、高広のことも愛そうとしてくれる。
居心地のよい空間。それは、お客さまにとってだけでなく。
高広は、この店を残してくれた祖父に心の中で、今日何度目かの感謝を捧げた。
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