一匹狼と、たったひとりのラナ

揺木しっぽ

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1話 狼男のホットミルクと、冷たいベッド

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「人間ちゃん、ちょっとだけ! 一回オレとヤッてみない? 絶対楽しませるから!」
「結構です! 近寄らないで!」

夕方の繁華街で、ラナはしつこい男に迫られていた。その男は頭にヤギのようなうねった角があり、耳は尖っていて背中には蝙蝠のような皮膜の羽を生やしている――インキュバスだった。ラナは掴もうとしてくる男の手を振り払い、走って路地に入る。

ラナはモテる――否、モテるといっても本人の魅力からではない。彼女の存在が希少だからだ。
この世界は色々な種族が生活している。このインキュバスのように魔族と呼ばれる者や、動物と人間の特徴を備えた半獣の者、そして喋る動物たちだ。共通しているのは、その各々が角や羽、全身を覆うもふもふの体毛など、何かしらの種族的特徴を持ち、基本的には一目で何の種族かわかるということだ。

だがそんな様々な種族たちが暮らす世界で、ラナだけは何の特徴もない。耳も小さく角も、もふもふの体毛も尻尾もない――古い書物によると“人間”という種族だった。

昔はそれなりの数が居たから人間という種が記録されているのだろうが、今となっては滅多に見掛けることがない。ラナが今住んでいるこの街にも人間は他に居らず、交易や旅の者たちも人間という存在を殆ど知りもしない。
故に物珍しさから交尾をする種族のコンプリートを狙う淫魔や、人間の血の味を試してみたい吸血鬼なんかに、物心付いたときからこうして狙われる毎日だった。育った街を出て、流れ着いたこの街で暮らしてみてもそれは同じで辟易する。

インキュバスを撒こうと、ラナは酒場の角を曲がる。
路地の裏口には無造作に置かれている大きな樽や箱が積み重ねられていた。この隙間に入れば上からも見つからないだろう。ラナは地面に手をついて身をかがめて隙間に潜り込み、体を縮こまらせて息をひそめた。
どうして、好きでもない男と交わらねばならないのか。あのインキュバスだって、ラナのことが好きだから交わりたいわけではないだろうに。淫魔とはそういうものだとわかってはいるものの、愛のない行為をしようとする男が悍ましい。身体が震えるのは恐怖からだろうか、嫌悪感と腹立たしさからだろうか。

どのくらい身を潜めていただろうか。耳を澄ませても辺りは大通りの喧騒しか聞こえず、静かなままだ。

「行ったかな……」

そっと道の様子を伺うために顔を出そうとしたその時――――

「見~つけた~♡」
「ヒッ!」

インキュバスはずっと上空でこの辺りを見張っていたのか、ラナは体を掴まれて引きずり出されてしまう。密着するように後ろから抱き着かれ、体を弄られる。その手の感触に全身鳥肌が立った。

「いやっ! 触らないで!」
「減るもんじゃないしいいだろ? インキュバスとヤりてぇ女なんて幾らでもいるのになんで拒むんだよ」
「じゃあそういう人とやればいいでしょ! 離して!」
「あんまり暴れるなよ。人間なんてひ弱すぎて潰しちまう」

ラナは振りほどこうと抵抗するが、インキュバスはびくともしない。人間は近い大きさの種族の中では一番力が弱く、身体も脆いのだ。しかも女のラナが男の淫魔であるインキュバスに適うはずもない。

「やだ……っ!」

このままだとどこかに連れて行かれて犯されてしまう。ラナは絶望に顔を歪める。どうしてこんな風に毎日怯えて暮らさなければならないのか――諦めかけたその時、ラナの頭の上でガッ! と鈍い音がした。直後、インキュバスが「ぐっ」とおかしな声を上げて体の力が抜けて、地面に倒れた。

「お嬢さん大丈夫?」

優し気な声に振り向くと、そこには銀色の髪とピンと立った三角の耳を頭に生やした男が立っていた。
顔は獣ではなくラナと同じ人間の男のような容姿で、恐らくイヌ科の獣人か狼男だろう。その手には割れたワインの瓶があり、それでインキュバスを殴って助けてくれたのだと分かった。

「あ……ありがとうございます……」
「こいつどっかにやらねーと起きたらお嬢さんの事探すかな」

耳の生えた男は倒れたインキュバスを見下ろして少し考えたのち、無造作に抱え上げると、近くにあった空の樽に押し込めた。どうするのかとラナが黙って見ていると、男はよっこらせと樽を抱えて、道の脇を流れる用水路となっている小川に落とした。ドボン! と重い水音が響く。

「えーっ!? そんなことしていいんですか!?」
「目が覚めたら飛んで家に帰るだろ」

流石に大丈夫なのかとラナは樽が流れて行く用水路を覗き込むが、男はなんとも思っていないような顔をして立っていた。よく見ると背が見上げる程高く、その目鼻立ちはくっきりとしていてかなりの美丈夫だった。思わず見惚れてしまう。

「あ、あの、助けて頂いてありがとうございます。私はラナって言います。お兄さんは……?」
「オレ? 狼男のリゲル。ここの酒場で働いてる。酒でも飲んでく?」
「いえ……お酒弱いので……」
「でもキミ、震えてるぜ?」

ラナはそう言われて初めて自分の手や身体が震えていることに気付いた。助けてもらってホッとしたら緊張の糸が解けてしまったのだ。

「まだ開店前だし、中で温かいものでも出すよ」

リゲルに促され、ラナは裏口から酒場へ入った。

「くぉらリゲル! お前またサボってただろ!!」
「違いますよ~。人助けしてたんですよ」

酒場の中に入るや否や、男の怒鳴り声が響いた。ラナはそれに驚き、反射的にリゲルの後ろに隠れる。怒鳴った男の顔には大きな鋭い嘴があり、どうやらトビの鳥人のようだった。リゲルはその男に事情を話し、ラナを店の奥の部屋へ連れて行った。

「ちょっとここで座っててな」

ラナは木でできた古い椅子に座らされ、肩に上着を掛けられた。酒場のバックヤードなのか、狭い空間の棚には所狭しと酒瓶が置かれていた。
酒を飲まないラナには物珍しい瓶のラベルを眺めていると、ギシギシと床の軋む足音がしてリゲルが戻ってきた。片手には木を削って作られた取っ手のついたカップを持っている。

「おまたせ。これ飲んでみてよ。落ち着くよ」
「ありがとう……」

受け取ると、中身は湯気の立っているホットミルクだった。ラナはふぅふぅと息を吹きかけ、冷まして唇を付けた。蜂蜜が入っているのかほんのりと甘く、温かさがじんわりと体中に広がっていった。

「ラナちゃんて有名なんだな。監督がキミは街で有名な珍しい人間って種族だって言ってたぜ。――あ、監督ってのはさっきのトンビのおじさんな。街のトール・ボールチームの監督もしてるから、オレや常連は監督って呼んでる。なんでインキュバスに襲われていたんだ?」

リゲルはミルクを温めている間に、店主から街で顔が知られているラナのことを聞いたのだった。
ラナはこれを話すと、リゲルも自分のことを希少な種の生き残りとして見るのではないかと不安に襲われたが、助けてくれた相手の質問を無視するのも気が引けて話すことにした。

「その……私が珍しい種族だから、血の味とか身体とか〝試して〟みたい人がいるんですよ……」

自ら口にして自然と涙が溢れてしまった。この街にも一人で暮らす自分を助けてくれる親切な顔馴染みはいるが、淫魔や吸血鬼など自らの欲望に忠実な種族の男には、ラナのことを一個人ではなく欲望をコンプリートするための一部としか見ていない者もいる。そんな自らの尊厳を無視され、物のように扱われ続けることはラナの心をずっと蝕んでいた。

「すみません……泣きたいわけじゃないのに……」
涙を拭うが、なかなか止まらない。他の住人たちには同族がいるのに、自分だけ一人ぼっちで、狙われる日々に疲れ切ってしまっているのかもしれない。だからこんな少しの優しさで、張り詰めた緊張の糸が切れてしまう。
ラナは泣き顔を見せるのが恥ずかしくて俯いたまま、顔をなかなか上げられなかった。そんな彼女の背を、リゲルは大きな手の平を乗せて撫でた。その手は大きくて、とてもあたたかい。

「きついこと告白させてごめんな。もうすぐ店が開いちまうからオレは店に出るけど、好きなだけここにいていいから。……あ~……夜道は危ないから店が終わるまで待ってくれたら送ってやれるんだが、遅過ぎるか」
「大丈夫です。落ち着いたら一人で帰れます」
「そうか?」
「何か助けて貰ったお礼をさせてください。いつもここにいるんですか?」
「オレは西の森の奥に住んでて、休みの日以外は夕方にここに出勤してる」
「じゃあ、今度このお店かご自宅にお魚のパイを作って届けに行ってもいいですか? 私お魚のパイ作るの得意なんです。お嫌いじゃ無ければ……」
「いいの? パイは何でも好きだぜ。お言葉に甘えちゃおうかな。明日仕事? オレは明日は休みなんだけど、店に来ると、ここそんなに治安よくねえからオレの家に来ない?」
「じゃあ明日私の仕事が終わったら届けに行ってもいいですか?」

リゲルは目を細めるように微笑った。
ラナはリゲルが店に出る前に住所と地図を紙に書いてもらい、裏口から店を出た。早く帰って明日のパイの仕込みに備えなければならない。
街灯はあるが薄暗くなっている道を小走りに、ラナは誰もいない家になんとか無事に辿り着いた。街外れの古びた集合住宅がラナの家だ。育ての親のチンチラ夫婦の家を出てこの街に流れ着き、一番安く借りられたからここに住んでいる。暖房器具も家具も満足にない家だが、冬は寒いこと以外は不便はしていない。いつもなら共同のシャワーを浴びてから寝るが、今日はもう疲れてしまったから明日にして寝よう。ラナは少量のチーズをパンに挟んだものを紅茶で流し込んで寝床に入った。

「リゲル……さん……」

今日、助けてくれた狼男の名前を口に出してみる。つい、勢いでお礼にパイを焼くなんて言ってしまった。雰囲気は優しそうだったが、信じてもいいのだろうか。男という存在がすっかり怖くなっているラナだったが、彼はこの街で有名になってしまっている自分のことを知らなかった。きっと、本当に優しい人かもしれない。そんな淡い期待を抱き、毛布を頭まで被る。
一人ぼっちの硬いベッドは寝心地が悪く、肌寒くなってきた最近は少し寒かった。
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