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吸血鬼の章
コーヒーゼリー買ってきた
しおりを挟む小池崇人の捜索願が出されて十年が経過した。家出や自殺の可能性が少なく、事件性を考慮して捜索されたが結局見つからず現在に至る。両親は娘の就職を機に離婚した。もともと自由人な二人だったので、留美はすんなり受け入れられた。今では三人それぞれ一人暮らしをしている。実家には父が残り、兄の部屋は手つかずで保管されている。
仕事帰りの電車から、留美は夜の街並みをぼんやり眺めた。目下の悩みは恋人のことだ。付き合い始めて三年目。最近積極的に結婚を迫られるようになった。問題は兄についてどう説明するかということ。行方不明になったとだけ言うか、それまでの行いについても説明すべきか。
実はひょんなことから兄の元カノの妹と話す機会があり、留美は兄の異常性を知ってしまった。崇人と違い、元カノは妹になんでも相談する人だった。
崇人は彼女に愛情を示したと思えば心変わりを匂わせて不安を煽っていた。もともと精神が不安定だった彼女は自殺未遂を繰り返し、遂に重傷を負って入院することになる。半年程で退院したものの、今でも医療機関の世話になっているらしい。
先方も兄の失踪は当時から知っていた。当の本人が生死不明とあって、残された小池家への怒りはそれほどでもなかった。呆れ、同情、虚脱感といった感情が伺えたと、先日会った母は語っていた。しかし兄本人が許されることはないだろう。元カノは精神を病んだだけでなく、肉体にも生涯消えない傷痕が残ってしまったらしい。元カノ妹の言葉の端々からは兄への憎悪が感じ取れた。
当時の留美は詳細を知らされていなかった。兄は地元では有名だったので色々な噂が聞こえてきた。そこから彼女と何か揉めたらしいことは掴めた。大多数が兄に同情的な意見だったが、両親の様子では兄にも瑕疵があるように感じた。意図的に自殺を煽ったと知ったときは半信半疑だった。女性に冷淡でグロテスクな映画を好んでいた兄。でも揉め事なんて起こしたことがなかったし、少なくとも自分には優しくて楽しいお兄ちゃんだった。両親も兄の異常性に気付いたのは入院騒ぎがあってからだ。
恋人にこのことを話したら愛想を尽かされないだろうか。無自覚なだけで自分にもおかしいところがあるのかも知れない。もし結婚して生んだ子供が兄のようだったらと思うと恐ろしい。どうして兄は失踪したのか。十年間考えても分からなかった問題をまた考える。兄のことは好きだ。会って話がしたい。兄が解らない。会うのが怖い。
「留美ー、朝だぞ、起きろー」
一人暮らしの2K。居間のラグの上でいつの間にか転寝していたらしい。頬をつっつかれて目が覚めた。朝と聞いて慌てるが、それより気になることに気付いてしまった。
「お、にいちゃん……?」
「コーヒーゼリー買ってきたぞ」
兄がにこにこしてラグに座っている。十年の空白を感じさせない見慣れた笑顔。ローテーブルにはコーヒーゼリーが置いてあった。
「いやー留美ちゃん大きくなってー。お兄ちゃん感激だわー」
ふざけられて冷静になれた。じろりと兄を見る。身綺麗にして肌艶も良い。暴力を受けたり監禁されたりしていたふうではない。意外とまともな生活を送っているようだ。――でもこれはきっと夢。私の願望。だってお兄ちゃんは変わらなさすぎる。
「急にいなくなってごめんな。俺はこの通り元気だから。留美も元気そうで安心した。ゼリー食べないならしまっとくぞ」
「ま、待って!」
そのまままた居なくなりそうな気がして、台所に消える兄を追いかけた。
「いい年してお兄ちゃんを追いかけるとか……」
「んなっ……!! お兄ちゃんのばか!」
人の気も知らないでにやにやと笑っている。いい気なものだ。
「詳しく言えないけど、俺は楽しくやってるよ。おまえもやりたいようにやって幸せになってほしいな」
質問する前に喋られた。だが聞きたいのはそんなふんわりした話ではない。
「今日は泊ってく? ごはん食べた? 実家には行った?」
「いや、あのね」
「今どこに住んでるの? やりたいようにって、仕事は何してるの? 連絡先教えて。一人暮らし? まさか結婚なんてしてないでしょうね」
「ちょっ、ちょっと留美さん。落ち着いてくれるかな」
「落ち着けるわけないでしょ! このっ、このっ……うっ……ごめんなさい……」
「えっ、なんで? なにが?」
一度堰を切った涙は次から次へと溢れ出る。おろおろする兄に向って、喚くように十年前のことを謝った。
「あのときコンビニに行かせなければこんなことにならなかったのに! 厳しいことばっかり言ってごめんなさい! お兄ちゃんクズだからちゃんとさせないとって……うぅっ、ごめんなさいぃ~」
「留美……お兄ちゃんは気にしてないよ。だから辛辣に謝らないで。お兄ちゃんこそ心配させてごめんな」
兄にぎゅっと抱きしめられて驚いた。こんなことをされるのは小学生以来だ。ちょっと男子を意識し始めた頃に気恥ずかしくて止めさせたら、兄はしばらく寂しそうにしていたのを思い出した。
「お兄ちゃん……どうして……」
どうして黙って家を出たの?
どうして彼女に酷いことをしたの?
どうやってこの部屋に入ったの?
怒ってないの?
どうして若いままなの?
どうして―――
「おまえは何も心配しなくていいからな」
また涙が滲んだ。からかわれると思ったけど、「大丈夫だから」と言いながら優しく背中をぽんぽんされた。何が大丈夫なのか。十年も失踪していきなり現れて、全然大丈夫じゃない。
「友達が待ってるからもう行くわ」
「は? 何言ってんの?!」
十年振りに会う家族を置いて友達に会いに行くと言う。まだなんの説明も聞いてないのに逃がすわけにはいかない。
「とにかく留美が元気で良かったよ。もう会えないかも知れないけど元気でな」
留美の不安を宥めるように兄が頭を撫でる。なぜか足が動かなくて、出て行く兄を留美は引き止められなかった。ラグの上で目を覚ます。まだ夜の九時前。今日のことは転寝して見ていた夢だったようだ。相変わらずふざけた兄。家を出てからも好きに暮らしているらしい。そんな都合のいい夢を見てしまうくらい参っていたのかと、留美は深い溜息を吐いた。
乾いた涙を洗い流して、飲み物を取ろうと冷蔵庫を開ける。そこには冷えたコーヒーゼリーがあった。兄がコンビニに行くといつも買ってくれた留美の好物。あれ以来なんとなく避けていて、自宅の冷蔵庫に入っているはずがなかった。
「お兄ちゃん、また勝手にいなくなって……」
十年振りに食べるコーヒーゼリーはほろ苦くて、やっぱり美味しかった。
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