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しおりを挟む「王命だ。おまえを宰相府まで案内する」
投げやりに言われて、パヴェルは頭を上げた。
(宰相府って、こいつの下で働けってか?)
この男──ゼノンは宰相補佐官を務めていると聞いた。宰相付きなら、文官の中でもトップのポジションだ。
ついてこいと手で示されて、慌てて追いかける。
オメガにしては上背のあるパヴェルだが、ゼノンはパヴェルよりさらに拳ひとつぶん大柄だった。胸板も逞しく、服の上からでも腕の筋肉がありありとわかる。体つきだけで判断するなら、文官よりも騎士と紹介された方がしっくりくる。
意志の強そうな瞳は琥珀色。高い鼻梁と、きつく結ばれた唇も形がいい。
長い黒髪は暗闇をさらに煮詰めたように真っ黒で、端正な顔を凛々しく引き締めている。この男、さぞかしモテるに違いない。
横顔は厳粛な沈黙を貫いており、何の感情も読み取れない。
ただ、パヴェルを歓迎する様子は一切なかった。
(冷たいねえ……)
国王陛下もとんだ暴君だ。王命で二人の距離を近づければいいとでも思ったのだろうが、そもそも問題がある。
パヴェルは、オメガとしては不能だ。
二十二を迎えた今も、発情期が一度も来ていなかった。
新しい職場では、文官の制服を着用する。厚みのある紺地はおろし立てだからか、ごわごわして窮屈に感じた。
(てっきり下働きかと思ったのに……)
ゼノンのあとについて廻廊を進むたび、通りがかる文官が訝しげな表情でパヴェルを見る。今まで生きてきた世界と違いすぎて心細いが、そんな弱音を吐ける相手はいそうにない。
ゼノンがすごく嫌そうな顔でパヴェルを呼んだ。資料室のような狭い部屋に入れと言われる。
「おまえには今日から、宰相補佐官である私の補佐をしてもらう」
「え、あの、本気で言ってんの?」
いきなり連れてこられたパヴェルに、そんな大役を任せるというのか。正気を疑ってしまう。
「そばに置けば監視できるからな。何か得意なことはあるのか?」
「……絵です。前職が絵描きだったので」
「却下する」
「なんで!? 俺の特技訊いたの、あんただよな!?」
「ここに絵描きは必要ないからだ。ひとまず」
ゼノンは、部屋の隅にある棚を顎で示した。難しそうな文書がうずたかく積まれている。
「明日の会議で配る資料だ。中の書類を整理しておけ」
宰相府の一室に放っておかれて半日くらい過ぎただろうか。固いパンを咥えて書類を眺めていたら、ゼノンが様子を見にやってきた。
「おい、まだ終わらないのか?」
「だってこれ……、書類の区別つかねーし」
何か言われる前に急いでパンを飲み込む。
箱から出した書類を並べてみたが、何をどうすればいいのかわからなかった。おまけにパヴェルの周囲には人っこ一人寄ってこない。明らかに煙たがれている。
椅子の背にもたれて羽ペンをくるくる回していたら、ドンという鈍い衝撃が机に走り、埃が舞い上がった。並べた書類の上に、いかつい拳が乗っている。
「わからないなら早く人に聞け! 時間を無駄にするな! それと、おまえの上官は私だ! 敬語を使え!」
整った顔が憤怒で歪んでいる。理不尽すぎるし、同じ職場で働こうという歓迎ムードも見受けられない。勘弁してくれよ……と、早々に泣き言をこぼしたくなった。
「返事!」
「はいはい」
「返事は一回!」
「はぁぁ~いぃぃ~!」
こんな奴と仕事なんて冗談じゃない。パヴェルは肺から絞り出すような深いため息をついた。
適当な理由をでっちあげて、さっさと辞めてしまいたい。
毎朝毎朝、仕事に行きたくなくて泣けてくる。
(あの脳筋補佐官め……)
経験のない仕事ばかり押しつけてくるのは、もはやパヴェルに対する嫌がらせじゃないだろうか。
文官見習いになって一週間。毎日ちゃんと出勤しているパヴェルはえらい。褒めてくれたっていい。
だが、ゼノンは冷酷だ。パヴェルの机に山積みの書類を平然と上乗せしてきやがった。重厚な木材の机がぐらぐら揺れる。彼の心臓は、高山に残る万年雪よりも硬い氷でできているに違いない。
「何度説明すればできるようになるんだ!」
パヴェルはげっそりした顔で、怒鳴るゼノンを見上げた。凛々しい眉がぴくぴく動いている。補佐官殿はまだ怒り足りないらしい。
「しょうがないじゃん、慣れてないんだから」
「書類には必ず目印の紐がついている! なぜきちんと確認しなかった!?」
「つーか、間違えてるのがわかるなら、あんたがやれよ」
「ふざけるなっ!」
「ゼノン補佐官、それじゃ可哀想ですよ。使うのなら、ちゃんと導いてあげないと」
間に入ったのはガブリエルという文官だ。
小柄で栗色の髪をした青年は、パヴェルの教育係兼お目付け役としてゼノンが連れてきた。性根がひねくれたパヴェルにも優しく親切に接してくれる稀有な人材だ。
ついでに言うとパヴェルは今、ガブリエルの部屋に泊めてもらっている。男性官僚向けの官舎がちょうど満員で、パヴェルはしばらく宿なしのままだった。
冗談めかして「俺、泊まるとこないんすよね」と話したら、ひどく心配して自分の宿舎に招いてくれたのだ。
ガブリエルの友人も神託結婚している。そのためか、彼はパヴェルの微妙な立場を察してくれて、公私にわたって何くれとなく世話を焼いてくれた。清潔感があってベータで性格も良い。パヴェルにとって、これ以上付き合いやすい同僚はいなかった。
「ガブさぁん! 俺、あいつ、きらいだよぉ~!」
「つらいねえ、もうちょっと頑張ろうね。じゃないと、ゼノン様が『給料泥棒』って罵ってくるよ。そんな恐怖体験、嫌だよね?」
「あーん、もー、最悪の職場だー!」
「それは言わない約束でしょ」
「…………」
ゼノンのいる方角から冷気が漂ってくる。
「パヴェル、おさらいしておこうか。赤い紐は火急の件、青は練り直して再提出された案件、緑は新しい書類。上官に見せる前に、書類の束を、赤青緑の順に重ねておく。上官に確認のサインをもらったら、専門の部署へ届けに行くこと。サインは速乾のインクを使ってるけど、擦れないように気をつけてね。差し戻し印なら元の部署、許可印なら次の部署へ持ってって」
「そっか。俺さっき、許可印と差し戻し印を見間違えたんだ」
「うん、次からはそこに気を付けるといいよ」
「ありがとな、ガブさん。今の説明でやっと腑に落ちた」
読み書きはできるが、整然と文字が並ぶ書面はどれも同じようで、まごついてしまう。
横目で様子を窺っていたゼノンが、フンと鼻を鳴らした。
「印章はいちばん最初に見る部分だろう。基本中の基本だ」
「へーへー、すみませんね~、不出来な部下で!」
「やめてください、二人とも。黙って仕事できないんですか?」
眉を下げたガブリエルが呆れたように二人を見る。
「やる気がある奴なら時間を割く意味もあるが、こいつは見込みがないぞ」
「ゼノン様、何でもいいので優しくしてあげてください。あなた方のおかげで雨が上がらないじゃないですか。今年の作物に影響が出たら責任取れませんよ。お願いですから、お二人はさっさと甘い雰囲気になって、しっぽりしてください」
「ありえない」
「絶対ありえない」
ぞっとした顔で拒絶し合う様子に、ガブリエルが力なく笑う。
王都の雨はいっこうに止む気配を見せない。今日は霧のように細かくて冷たい雨が降っていた。
「ところで、さっき任せた計算はまだ終わらんのか?」
「まーだーでーすー! あーあ、あんたはいいですよねえ、優秀だし、みんなに求められてるし? アルファ様様じゃないですか、この幸せ者がっ。ああ~憎い憎い、いっそ滅べばいいのに、くそくそくそ~っ! あっ、桁間違えた」
「……陰険な性格だな。今までどうやって生きてきたんだ。仕事は常に効率を考えて動くものだぞ」
「効率ぅ? そんなん俺が知るかっての。だいたい書類仕事なんてすると思わねーし。王宮じゅうの草むしりするほうがまだマシだね」
首をこきこきと回す。慣れない仕事で頭痛がしてきた。計算は最初からやり直しだ。
「害獣か、おまえは。王宮の環境を乱す真似はやめろ。そんなに私の足を引っ張りたいのか?」
「足を引っ張るも何も、適材を適所に置かないからだろ。人を使うのが上官様のお仕事じゃないんですかぁ~!?」
生意気な口調で煽れば、ゼノンのこめかみに青筋が浮かんだ。パヴェルは口の端でほくそ笑む。
煽って手を出されたら好都合。それを口実にこんな職場、辞めてやるのだ。
ガブリエルが見ていられないというように額を手で押さえた。だが。
「……それもそうだな」
ゼノンはふいに身を引いた。
整った顔に薄い笑みが広がる。なんだか詐欺師めいて見えるが、気のせいか。
「では、おまえには、子守りをやってもらおうか」
子守り。この男におよそ似つかわしくない言葉が飛び出した。
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