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 雨続きで湿気を吸い込んだパヴェルの髪は、広がりやすく鬱陶しい。顧みる余裕もなくて伸ばしてしまっただけで、願掛け中でもなければ三つ編みにこだわりがあるわけでもない。
 いいかげん、短くしたいと思っていた。

「根本から切っちまおうかなぁ」

 髪を触りながら誰にともなくつぶやいたのだが、

「ダメ!」

 アリスが即座に却下した。

「ええ~。俺、髪切っちゃダメですか?」
「ダメ! ぜったい、ぜええったい、ダメっ!」
「そんなあ、お嬢~」
「パヴェルは美人だから、髪は長い方がいいの!」

 謎理論を説きながら、アリスがぺたりとパヴェルに貼り付いた。
 アリスは我がまま上手の甘え上手だ。

『あいさつするときは膝をついて手に口づけしなさい』
『クッキー食べさせて』
『お姫様抱っこがいいわ』

 ……いささか、くっ付きすぎている気もする。

 パヴェルは顔立ちが穏やかなので、むかしから自然と女性が寄ってきた。自分からオメガだと言わなければ気づかれないし、オメガであっても遊びの相手としてちょうどよかったのだろう。モテたことには自信がある。
 だが、女性と良いお付き合いができたかというと、少々……いや、かなり心許ない。




『──ねえ、抱いてあげようか?』

 ベータだと信じていた女性に閨でいきなり迫られた時は、ひどく驚いた。

『わたしなら、あなたを抱ける。そしたら発情不全も治るんじゃない? 一度、試してみましょうよ』
『ちょっ、あのっ……ごめん無理!』

 尻を隠すように慌てて逃げ出したのが、パヴェルの記念すべき初体験であった。
 あの時はパヴェルも若かった。処女は守れたが、発情しない体を弱みのように扱われるとは思わなかった。以来、どんな親しい相手であっても性の悩みを話すのはやめた。


 アリスはまだ幼いから、性別も身分も関係なくパヴェルを好いてくれている。
 でもパヴェルはずっと自分の体が忌々しかった。
 男なのに子を孕む、オメガの体。フェロモンを出して人を誘惑する、オメガの性。自分の中にそんな本性が眠っているのだと思うと、恐ろしくてたまらなくなる。
 発情期が来ないのは救いだった。発情期が訪れなければパヴェルの胎には孕む力がない。オメガの性に日常を脅かされることなく、図太く力強く生きてこられたのは、発情せずにいられたからだ。
 発情なんて一生したくない。獣に成り下がらずに済むのなら、このままでいい。今のままがいい。
 それなのに、神託は告げられた。
 汝はこのアルファと共にあれと、地母神はパヴェルに手を差し伸べた。第二性がろくに発露していなくても、結局おまえはオメガでしかないのだと突きつけられた。


 絵師見習いをしていた頃、後宮のオメガに遭遇したことがある。
 王族以外にも色目を使う、節操のない若いオメガたち。華奢で麗しく、腰を赤い帯で強調する彼らは、とてもオメガらしいオメガだった。

『あいつに媚び売ったって無駄だよ。ああ見えてオメガだから』
『マジで? 色気出して損したんだけど!』
『顔に【オメガです】って描いといてほしいよね』

 狭い世界で生きる彼らのささやかな陰口に、思わず笑ってしまった。
 彼らは自身の容姿を誇りとする。蔑まれもせず、欲の吐け口にされるのでもない。貪欲で強かな華たち。
 オメガにはああいう生き方もあるのかと驚いたが、間違っても後宮に送り込まれなくてよかったと安堵した。あの人たちと同じオメガという性で一括りにされるのは居心地が悪すぎる。

 パヴェルはオメガにしては体格がいい。少年の頃から大人に混じって日雇いの力仕事をしていたし、痩身だが体は頑丈だ。自分の容姿がオメガらしくなくても嘆いたことはない。
 発情期が訪れないパヴェルには、元々、何かが欠けているのだろう。

 パヴェルは親を知らない。
 物心つく年には、似たような孤児同士でつるんで色街をうろついていた。
 夜明けになれば客の食い残しを拾えるし、娼婦がお菓子をくれることもある。食べ物にありつくにはいい場所だった。
 だが、大人の気まぐれで、出会い頭に暴力を振るわれることもあった。路地裏で犯されたり拐われたりして二度と会えなくなる子供もいた。
 そして病気になれば汚物のように追い払われ、誰も助けてくれない。
 つるんでいた子供たちは一人、また一人といなくなり、大人になれたのはパヴェルだけだった。

 パヴェルは幸運な子供だ。荷運びの賃仕事にありついた時、大工の親方が拾い上げてくれた。おかげで十になる前にゴミを漁る暮らしから抜け出せた。
 しかし二年ほど経つと、第二性が滲み出してくる。どうやらこいつはオメガだと他人にもわかる。
 オメガといっても、汗臭くて土埃にまみれたクソガキだ。こんな道端の草を好んで食う奴などいるものかと斜に構えていたが、親方はパヴェルの存在を危ぶんだ。

『おまえには悪いが、うちみたいな荒くれ者のいる所には置いとけねえ。オメガってだけで危ない目に遭うんだ。何かあってからじゃ遅い。知り合いの工房に連れてってやる。おまえはそっちの世界で居場所をつくりな』

 親方は父で、仲間は兄弟。家族のように感じていたのに追い出されるのだと思うと、自分の体をずたずたに切り裂きたくなった。

 親方の紹介で連れていかれたのが、当時宮廷絵師に選ばれたばかりの、師匠の工房だった。
 絵師の門弟になってからも力仕事は率先してやった。
 大きな壁画を手がけるには足場をつくる必要がある。他の弟子は手が傷つくのを嫌がってやりたがらない。パヴェルは腕に覚えがあったので進んで大工仕事を引き受けた。力仕事で汗を流していれば、自分は非力ではない、オメガではないと証明できる気がした。
 結局、その師匠にも破門されてしまったが。

(俺は人との出会いには恵まれてる。だけど、肝心なところでツイてない……)

 地母神様もケチくせえな、とパヴェルは思う。
 パートナーとやらが何の役に立つっていうんだ。好きでオメガに生まれたわけじゃない。愛だの恋だの絆だの。目に見えないものに振り回されるのはごめんだ。
 確かなものは、夢中で身につけた絵の技術だけ。今はただ僅かな希望に縋るしかない。パヴェルは自分の両手をそっと握りしめた。




 お勉強の時間になって、アリスがいやいや連れられていくと、口を尖らせたセシルがパヴェルの服を引いた。

「あねうえばっかり、ずるいよう」

 小さな涙声で、ぽつりとこぼした。
 パヴェルは膝を屈めて、うつむいたセシルと視線を合わせる。アリスよりも幼いセシルは、まだ自分の感情をうまく言葉にできず、もどかしげにしていることが多い。

「ぼくもパヴェルと遊びたい。ねえ、カタツムリの絵描いて」
「お任せください。セシル坊ちゃんのために、俺が最強のカタツムリを描きます!」

 笑いかけると、セシルの顔がぱああと晴れる。パヴェルも優しく目を細めた。愛らしい弟分ができたようで、心の柔らかな部分がほくほくと温かくなった。

「あっちにカラのないカタツムリもいた!」
「そいつは……ナメクジっていうやつで」
「なめくじっ!?」

 鼻息の荒いセシルはナメクジにも興味津々だ。触ってしまったら困るので庭師に報告しておく。塩でもかけておいてくれるだろう。そのあとは日が暮れるまで、セシルのために最強のカタツムリを考えた。

 そういえば、と官舎に戻りながら気づく。
 この日は珍しく、ゼノンが姿を見せなかった。
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