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第一章 家庭教師と怪力貴公子

僕、逃げます

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「いっ……お、重い……」

 全身が痛みを訴えていた。中でも痛いのは下半身だが、腰や股関節以上に、心が痛んだ。『人生終わった』感じがする。

 マンドラゴラ入りドリンクを飲み干したあと、フォルテさまに抱かれた。
 その後は王宮から離宮まで運ばれ、ひたすら看病された。一連の行為のあと、フォルテさま自ら僕の世話を甲斐甲斐しく焼いてくれたのだ。体を拭いてくれたり、食事を運んでくれたり……態度も言葉もすべてが優しかった。
 それもまた罪悪感に拍車をかけた。

 この国の王子たる人の純潔を犯したのだ。
 正確に言うなら抱かれたのは僕だし、奪われたのも僕の処女なのだけど……フォルテさまの童貞を奪ったのは紛れもなく僕だった。
 フォルテさまは僕に無理やり童貞をむしり取られてしまった。

 薬の名残なのか吐き気も酷くて、回復しかけてもすぐ脱水症状に陥る。数日の間は水を飲むのにすら苦労した。
 お布団をかぶって「ううああ~」と泣き喚いても事態は変わらない。憎いのは媚薬だが、取り返しのつかない失態をしたのは僕だ。罪深いにも程がある。
 生々しく体に刻まれた手や指の痕からは、どんな行為があったのかまざまざと蘇る。マンドラゴラに忘却作用はないらしい。……つらいなぁ、この薬。


 事件から一週間ほど経ったけれど、精神的な苦しみに耐えられなくなった僕は、離宮の人たちの目を盗んで離宮を抜け出した。
 必要なことはすべて手紙に書いて置いてきた。家族と離宮のスタッフたち、そして、僕の大事なフォルテさまへ……。

 すべてを捨てて僕は逃げる。
 どこぞの森で野垂れ死ぬとしても、本望だった。




 まず適当に買った質素な服に着替えた。
 店の人がなぜか女物の服を薦めてきたのだ。それしか僕に合うサイズがないのだという。「嘘だろ?」と思ったが、なにしろ庶民の店なので文句は言えない。
 顔を隠すために三角の布を頭につけ、乗合馬車に乗った。
 山菜取りを生業にする女性に扮したつもりだ。

 硬貨は料理長に借りた。街で手に入れたいものがあると嘘をついて。この先どこかで手紙を書けたら、謝っておこう。

 乗合馬車で母娘連れと隣り合わせになった。お母さんの側にぴとっとくっ付いていた女の子が、飴玉をくれた。

「おねえちゃん、これあげる」
「…………」
「げんきなくても食べてね。食べれば、げんきになれるから」
「……ありがとう」

 食べれば元気になれるか。素晴らしい箴言だ。
 泣き笑いを浮かべて、僕は飴玉を受け取った。それをお守りのようにそっと握りしめる。

 ごめんなさい、フォルテさま。弱い人間で、ごめんなさい。

 僕が本当に逃げたいのは弱い自分からだ。
 弱くて卑屈で、なんの役にも立てない。サフィアという肉体から、存在から、逃げ出したかったんだ。


 後部の座席に座っていたおじさんたちが、なにかに気づいたように馬車の後ろを気にしている。

「なあ……誰か馬で追いかけてくるぞ。盗賊じゃねえよな?」
「知り合いが乗ってるんじゃねえか? おーい、ちょっと馬車止めてやれよ」
「誰かー。あの馬に乗ってる赤毛のにいちゃん、知り合いじゃねえかい?」

 赤毛……? 嫌な予感がする。
 昔っから僕の予感は、嫌なものほどよく当たるんだ。髪をしっかりと布の中に隠して、人陰からそっと覗いてみる。峠の下から、たしかに馬に乗って追いかけてくる者がいた。
 蛇行する山の道を見下ろしていると、木立の間を縫うようにして、赤銅色の髪の人物が見えた。
 やっぱりフォルテさまだ。なにか叫んでいる。

「サフィ! 乗ってるか!?」

 呼ぶ声がはっきりと耳に届いた。
 隠れるようにうつむいて、額に手を当てた。まだ距離があるうちに、進路を変更しなくては。

「……お目目の上、ケガしてるの?」

 隣の女の子が、心配そうに僕を見ている。
 僕の右眉は一部途切れている部分があって、そこには古傷があるのだ。フォルテさまが子供のころに矢を振り回して切れた傷だった。
 女の子は「痛い?」と心配してくれた。
 困ったとき、ついそこを触る癖があるだけで、痛みはとっくに消えている。体に刻まれたフォルテさまとの思い出だ。

「……ううん。これは昔の傷だよ。もう治ったんだ」
「ねえ。もしかして……おねえちゃんがサフィなの?」

 女の子が澄んだ目をして首を傾げた。

「うん。……ごめんね。ほんとは僕、お兄さんなんだ」

 女の子はびっくりした顔になったあと、真っ赤な林檎のように頬を染めた。
「元気でね」と笑いかけて馬車を停めさせた。

「降ろしてください!」

 乗合馬車を飛び降り、臨席の女児に手を振って駆け出した。先の見えない、昏い森の奥へと。
「サフィ!」とフォルテさまの怒号が聞こえた気がした。



 合わせる顔なんてあるものか。
 純真さを犯すように、この身を抱かせて、あの体を求めて快がって狂って泣いたのだ。
 あーもー、ばかばか、僕のばか! 過去を変えられないのなら、自分が消えるしかないじゃないか。

 破滅的な衝動に取り憑かれて、なにも考えず黙々と進んだ。
 途中で街道が右と左に分かれた。どちらへ進むべきか。どちらでもない、道なき道……馬では通れないような獣道がいいと思った。
 街道を逸れ、森へ足を踏み入れた。
 切り株でお昼を食べていた木こりのおじさんが僕に気づいた。
「あれえ、姐さん、そっちの森は熊出るってよー!」などと呼びかけてきたが、立ち止まる余裕はなかった。

 ぬかるみに足を取られても、這うようにして進んでいく。靴はもう泥だらけだ。
 祈るような気持ちで木立をかき分けていくと、しばらくして、不自然に前方の茂みが揺れた。
 木立と木立の間から、黒いかたまりが矢のように飛び出してくる。猪だ。

「ひぃぃぃ!」

 猪は震える僕に目もくれず、脇スレスレの距離を猛スピードで駆け抜け、一目散に森を出ていった。

 父が狩りで獲ってきた猪を見たことがあったけど、公爵家の屋敷にあったそれはすでに剥製にされていた。狩りのトロフィーとして父が持って帰ってきたのだ。
 生きている猪は全然違った。エネルギーの塊で、大砲の弾みたいだった。もしもあの勢いでぶつかっていたら、僕は潰れていたと思う。猪突猛進されなくてよかった……ほっと息をついて、猪の来た方角に目を向けた。

「……ぉぉーい」

 森の奥から人の声がする。中年男性くらいの野太くて低い声だった。

「お~い!」

 さっきより大きくなった。誰かが、近づいてきている?
 さっきの木こりのおじさん……? それとも遭難者か。
 叫び返すか迷って、とりあえず声のしたほうへ近づいてみることにした。ここまできてフォルテさまに見つかりたくない。笹をかきわけて歩き始めると、声は止んでしまった。
 不気味に思って動きを止めた。
 木立の間にふっと黒い影がよぎった気がして、きょろきょろあたりを見回した。やはり誰かいる。思ったより大きな影を見つけて、目がそこに釘付けになった。

「っ…………!?」

 熊がいた。
 熊は二本足で立っていて、その姿勢だけみれば、くたびれたおじさんのようにも見える。
 猪が飛び出してきた木立の隙間に立って、こちらをじっと見つめているのだ。全速力で森を駆け抜けてきた猪の気持ちが、今少しだけ分かった気がした。

「く、ま……?」

 子供のころ、絵本で見た姿そのものだ。ただし首にリボンは巻いていない。マスコットではない、正真正銘、生物としての熊だった。
 長い鼻面は嗅覚に優れている証。ずんぐりとした手足は丸太みたい。茶色い体毛がぶわりと膨らんでいる。

 興奮している……? いや、ちがう。熊は僕を「敵」と認定したのだ。

 シテール王国は、森と湖と草原の国。自然いっぱいのこの国に生を受けたことを、今ほど恨んだことはない。さっきまでの「おーい」という呼び声は、熊だったのだ。
 目尻に熱い涙が滲んで、頬を流れた。

 静かな人生の終わり方を模索して、森まで逃げてきたのに……なにが悲しくて臨戦体制の熊と遭遇しちゃうんだ!?

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