喰われて、供えて、繋がって

藤 時生

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異変の夜

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 繁華街の喧騒も、深夜になればどこか気だるい静けさに変わる。ネオンの明滅だけが通りを彩るなか、雑居ビルの一階で居酒屋「たく」はようやくその日の営業を終えていた。
 店主、島根拓己は重たいゴミ袋を持ち、裏口の扉を軋ませながら外に出る。薄暗い路地裏に一筋の光が差し込み、扉が閉じるとともに消えた。

「ふぅ……今日は人が多かったな」

 慣れない暗闇に目尻の垂れた目を瞬かせながらひとり呟き、すぐそばにあるゴミ捨て場にゴミ袋を放り込む。疲労感の乗った深いため息をついて黒ぶち眼鏡のズレを治し、体を大きく後ろに反らして、とん、と軋む腰を叩いた。御年38歳、そろそろガタがき始めてもおかしくない年である。
 定休日の月曜を除けば年中無休。17時から0時まで、黙々と包丁を握り、皿を洗い、客の声に耳を傾ける。その間はずっと立ちっぱなしだ。日中は仕入れや仕込み、事務作業なんかもあって、休息時間はそれほど多くない。10年前にこの店を構えてからずっと、拓己は働き通しだった。

「さってと、明日は休みだし……」

 店に戻ろうと足を踏み出した拓己の視線は吸い寄せられるように、ビルとビルの隙間にある小さな石の祠に向いた。それは「ただの景色」の一部だった。たまに思い出したように手を合わせることはあっても、特に信心深い性格ではない。
 だがその夜は違った。空気が湿っぽく、ひやりと肌にまとわりつくような重さがある。いつもより、その“祠”が異様に目に入る。

「…………」

 不安を拭うように拓己は近づき、格子戸のはまった石造りをまじまじと見た。拓己の胸ぐらいしか高さのない、小さな祠だ。石造りの台座の上に木製の小さなお寺のようなものが建てられている。赤く塗られたはずの屋根は埃にまみれ、排気ガスで煤けて黒く変色している。よく見れば、格子戸も右側が少し傾いているようだった。

「こんなんじゃ神様もゆっくりできないだろうな……」

 そう呟いて、仕事中は頭に巻いているタオル、今は首にかけていたそれで、祠の屋根を軽く拭った。――その瞬間だった。
 ぼろ……、と音もなく屋根が崩れた。

「あ……」

 木片はパラパラとお供え物を置くスペースに零れ落ちる。大きな欠片は勢いよく跳ねて地面に転がった。あっという間に祠の屋根が半分ほど崩れ、拓己は言葉を失った。祠の奥は、光が届かないせいなのかねっとりとした闇色をしている。

 まずい。これは、なんか、やばいやつだ。

 次の瞬間、周囲の空気がぐっと冷えた。まるで冬の川に足を突っ込んだような冷たさ。空気が歪んでいる。そんな感覚。何かが起きている。身体が、無意識に察知していた。

 背後に、気配。誰かが、いる。

 拓己は首の後ろがぞわりと粟立つのを感じながら、ゆっくりと振り返った。そこに立っていたのは。
 白くやつれた肌。ぼろぼろの狩衣。地面に届くほど長い黒髪。男の顔を隠すように垂れ落ちた髪の隙間から覗く、深い闇のような目。

「ッ!!!」

 明らかに異様。そんな男の様子に拓己が声を上げようと息を吸い込むのとほぼ同時に、男の手が拓己の顎を鷲掴みにする。体温を感じない、石のように冷たい手だった。

「ヒッ……~~ッ!!」

 息ができない。悲鳴が上げられない。拓己は両手で男の腕を掴んで抵抗するも、その身体はびくともしない。まるで岩のようだ。
 拓己よりも上の位置にある男の顔が近づいてくる。落ち窪んだ目が、まっすぐこちらを見ていた。

「……祠を壊したな……」

 声が、意識に直接響く。耳ではなく、脳の芯に刺さるような、低く重い声。頭の底を震わすような、無視できない圧倒的な声。

「その責、そなたの身で贖え」

 ぞくり、と背筋が凍る。男の目の奥で、何かが揺らめいた気がした。恐怖に突き動かされ、拓己は男の手を思い切り振り払う。さっきまでビクともしなかった手から逃れ、転がるように駆け出した。数歩先にある自分の店の裏口へ縋りつき、乱暴に扉を開けて飛び込む。

「な、なん……!」

 荒い息を吐きながら扉を閉める。鍵をかけて、大きく息を吐き出した。ほんの少し駆け出しただけで、拓己はゼェゼェと肩で息を繰り返していた。恐怖と焦燥で軽いパニックに陥っているのが自分でわかる。

「……え」

 ひやり、とさっきまで火を使っていたはずの厨房から冷たい気配が漂う。冷気が足首に絡みつき、拓己の体をゆっくりと這い上がってくる。

「なんで……」

 裏口のドアは締めた。確かに閉じた。重たい音も聞いた。鍵だって、かけた。それに今も拓己が扉を押さえているのだ。客が入る正面の入り口はとっくに閉めてあるし、回り込む時間などなかったはずだ。
 だが、拓己が振り向いた先、そこに、さっきの男が立っていた。音もなく。気配もなく。まるで最初からそこにあったかのように。

 いつもの厨房内に、異質なモノが入り込んでいた。

「……っ、な゛……!?」

 恐怖が、声に濁りを与える。背中に冷や汗が流れる。空間がおかしい。店内の空気が、水の中のように重い。目に映る景色すら、どこか歪んで見える。逃げなければ。走って、表に出て、誰かに助けを。
 足が動かない。

「……っ……え……?」

 脚が、石のように固まっている。腕も、指も、まぶたさえも。金縛りだ。気が付きたくもないことに気が付いて、鼓動だけが激しく胸を打つ。血の音が耳の奥で鳴り響く。
 ざり、と男が裸足の足を踏み出すのが見えた。

「動かない……?なんで……っ、やめろ、やめてくれ……!」

 声だけは出せた。けれどそれすら、だんだんと喉に絡んでいく。見えない手が、身体だけでなく“意志”まで縛ってくるようだ。
 男の目的は知らない、分からない。だからこそ、拓己の脳内を占める恐怖が増幅していく。

「逃がさぬ……」

 男の声は、またも直接脳を揺らした。氷のように冷たく、深い怒りと、そして何か歪んだ欲のようなものを含んでいた。目の前まで近づいたその手が、拓己の胸元に触れた。指先が、Tシャツの上をなぞると布が音も立てずに裂ける。

「や、やめ……っ!」

 はだけた布の隙間に、冷たい手が触れる。ひたり、と手のひらが胸元に。

「ぁ゛……!?」

 冷たいはずの手、なのに触れられた場所が、熱い。焼けるように、痺れるように。呼吸が乱れ、背筋が震える。

「んひ……ぃ゛、あ?♡」

 男の指先が、胸元から腹部、腰へと這い降りていくたび、体中の神経が火花を散らす。恐怖に支配されていた意識が、甘く滲んでいく。
 拓己は男の手を振り払いたかった。逃げ出したかった。だが、すでに体は、自分のものではなかった。見えない鎖に縛られて、ただ震えながら、男に触れられるままになっていた。

「その体、供物としてもらい受ける……」

2025/05/01
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