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第一章:仇桜は嵐に翻弄される
十二
しおりを挟む風鈴がちりんちりんと微かに響く。ようやく夜の涼やかな風が広間に入ってきた。
英嗣が広間に運ばせた夕餉は、和泉の喉をあまり通らなかった。
目を伏せがちにしている和泉を気づかってか、英嗣も静かに冷酒を傾けている。いつもはあれこれ楽しい話をして賑やかなのに。
ああ、なんてわたしは陰気な女なのかしら。英嗣さんがお気を悪くするわ。
けれど、今日はひどく疲れていて、明るい話をする気になれない。早々に帰宅してもらおうと考えていると、英嗣がポケットから外国のコインを取り出して、ちらりと和泉を見た。
「実は魔法が使えるのです」
和泉はきょとんとしてしまった。いい大人がなにを急に言い出したのかと。
「信じていませんね」
英嗣はコインを指先で回す。人差し指中指と通ったコインが消失してしまった。
子供だましの手品だ。これのどこが魔法なのかと和泉が小さく呆れてしまった。しかし英嗣は、にやりと笑む。反対の握っていた手を開けるとそこにコインがあった。
和泉が、あっと思う暇もなく、コインは跳ねて反対の手のひらに落ちてそして握る。また開くと消失していた。
「僕の手元にはありません。逃げてしまいました」
「まさか」
英嗣が和泉の袂に触れた。「ほらね」開いた手のひらには先ほどの外国のコインだ。英嗣の指先でくるりと回ったコインは、またパッと消えてしまった。
英嗣は大げさに困った顔をする。
「僕を嫌っているのかな? 和泉さん、コインを呼び出してくれませんか?」
「コインなんてどうやって呼べばいいのでしょう?」
「池の鯉を呼ぶみたいに手を打ってくださいよ」
言われたとおりに手を打つと、すぐ前の英嗣の手のひらにストンとコインが落ちてきた。英嗣はしっかりコインを指でつまんで胸ポケットにしまおうとする。
「こいつは僕を馬鹿にしているらしいです」
「ふふ。英嗣さんは器用ですね」
「僕がやっているとお思いですか?」
しまったはずのコインは、英嗣の指先からぴょこりと姿を現した。英嗣はコインを掴もうと躍起になって手を動かす。コインは嫌がって和泉の元へ逃げてしまう。まるで安来節のようにコミカルだ。
「おっと! 捕まえた!」
とうとうコインが捕まってしまった時、和泉はハラハラしていた。少女の頃にはもっと大掛かりな手品を見たことがあるのに、英嗣のコインマジックとコミカルさに釘付けになっていたのだ。
「和泉さんを気に入るとは、コインのくせに生意気だと思いませんか?」
そうしてコインは手のひらから姿を消していた。
「和泉さん、手を開けて」
和泉が両手を差し出すと、天井からポトリとコインが落ちてきた。白銀のコインは和泉の手のひらの中で、ころりとも動かない。
大人の英嗣の子供のような特技に、和泉は目を大きくして微笑んだ。
「お上手ですね。まったくわかりませんでした」
「ええ。魔法ですから」
「魔法なんてありませんよ」
「魔法ですよ。あなたを笑顔にする、魔法です」
さっきまで鬱々としていたのに、気がつけば笑顔になっていた。
和泉はコインをそっと握りしめ、英嗣に頭を下げた。
「お気を遣わせてしまってごめんなさい」
「どうせなら、お礼か『もう、くだらないわね』と叱ってくださいよ」
「とんでもないわ。あなたのような優しい人にそんなこと言えません」
何気なく零した言葉は本音だ。だから、浅ましさを慌てて庇った。
「毅さんの……旦那さまの兄弟なのですから、大それたことは言えません」
〈兄弟〉だと当たり前のことを言うだけで、胸がひりつく感じがする意味を和泉はわかっている。
意識してはいけないと目を瞑り、心の奥にしまい込む――のが、今日はやけにつらい。
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