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第二章:牡丹は可憐に咲き乱れる
二
しおりを挟むそれは春のはじまりだった。
英嗣の来訪を女中から受けた和泉は、平静を装い玄関へ迎え出た。
「ご機嫌よろしゅうございます、英嗣さん。」
「和泉さん、ごきげんよう……おや?」
珍しい物を見たように目を丸くしている英嗣の視線の先は、飾り棚に活けた花桃だ。
「昨夜の強風で折れていたのを、お庭係りの方に譲っていただいたのです。せっかく蕾が綻んで花をつけたばっかりの時期に、捨てられてしまうのが偲びなく思えたのです」
がんばって花を咲かせようとしていたのに、不慮の出来事で捨てられてしまう花桃の枝を、和泉は自分に重ねてしまったのだ。
幸せだった少女時期に転落した経験が、和泉の目を伏せ目がちにさせる。
いつか英嗣さんも私も捨ててしまうのかしら?
綻びはじめの薄桃色の蕾を見つめた和泉は、そっと手を伸ばした。
「花桃の色と信楽の花器の風情がここに季節を運んできたみたいですね。――素人があれこれ言うと無粋になるので……僕は和泉さんの感性が好きです、とシンプルに言わせてください。玄関に春が来たように心が和みます」
「そんなに褒めないでください。お花は少女の頃にお稽古をしたきりなので、お恥ずかしい限りです」
それでも英嗣から褒められれば、頬を赤くして素直に照れてしまう。
「僕はお世辞など口にしません。和泉さん、あらゆる美の評価は観測者がいて成り立つのですよ。観測者が良いと思ったものは、美であり芸術になります」
「贔屓目に見てもらって公平だと言えなくても?」
「美の前に公平なんてありませんよ。ただ残酷なまでに不公平です」
「今日はなんだか高名な哲学の先生みたいですね、英嗣さん」
「酷いな。僕はカントのように捻くれていませんよ」
カントはドイツの哲学者だと、高等学校に通っていた兄たちから聞いたことがあった。英嗣の広い知識の鱗片に触れた気がして、和泉は嬉しくて笑った。
「価値観は他人の物差しで決まるのはわかります。折れた花桃はお庭係りの方には無価値でも、英嗣さんのように褒めてくださる方からすれば〈春〉という価値になるのですから。
これだと捨てる神あれば拾う神ありになるのかしら? ……なんて、生意気なことを言って失礼しました」
「いいえ、とんでもない。思ったことを素直に言っていただけたのですから、心を開いてくださっている証拠だと自惚れていますよ」
優しく笑った英嗣は「そうだ」といいことを思いついたように和泉を覗いた。
「これからも花を飾っていただけませんか?」
「構いませんが、どうしてですか?」
「留守の時にお邪魔をしても、あなたが活けた花があれば迎えてもらった気になれると思った次第です。……女々しいですか?」
「いいえ、そんなことありません。これからは、お花に思いを託していつでもお出迎えいたします」
「お願いします」
春の陽射しを和泉にもたらすように、英嗣が白い歯をこぼす。
だけど、来年の春も変わらないで笑っていてくれるだろうかと心の片隅の暗雲は晴れない。
「ああ、挨拶が遅れてしまいましたね。本日は記念日にお招きくださって、ありがとうございます」
言われて和泉も思い出した。昭和十年は、結婚して満二年の春になる。その記念に食事をしようと毅が英嗣を誘っていたのだ。
「え、ええ。こちらこそ、来ていただきまして、ありがとうございます。あいにく主人が不在で失礼かと存じますが、ゆっくりなさってください」
投資した鉄鋼業の事業が好成績で仕事が忙しくなったのだと、先日英嗣が語っていたし、早朝から家を出る毅を見送った。
夫婦の祝いの席に毅がいないのを、和泉はホッと胸を撫で下ろしていた。そして思う。なんて悪妻なのだと。
「あなたがたを祝う言葉なんて、本来は言いたくないのですがね」
英嗣の目は仄かに暗い光を宿らせている。普段の明るい彼とは違う艶に戸惑っていると、腰を抱かれてしまった。
「英嗣さん」
「あなたは僕のものなのに、抱いてはいけないのですか?」
「ここは……玄関です」
「ダンスをしていることにすればいい」
「きゃ……っ」
片手の指が強引に絡め取られ、和泉はバランスを崩した。すぐに和泉の足の間を英嗣の長い足が割り込もうとするが、和服の身頃が侵入を拒んだ。
「こんなダンスはありま……せん」
「タンゴ、というダンスがあるのだそうですよ?」
「困らせないで」
「困らせているのですよ。そうすれば、悩み事で頭がいっぱいになりますよね」
くちづけをしそうなぐらいに顔が近くて、瞼が閉じそうになってしまう。
「冗談ですよ、お義姉さん」
和泉の閉じた睫毛の先と英嗣の前髪が触れ合う。
身じろいで和泉は逃げようとした。だが、英嗣に引き寄せられただけの和泉は、自然に唇を求めてしまった。
今日は……夫婦のお祝いの日なのに……。それなのに、わたしは。
舌を絡ませず唇だけで激しく睦み合う。そうしながら、ダンスのような英嗣のリードで、和泉の身体は壁際に追い込まれた。
くちづけだけなのに鼓動が早いのは、ここが玄関ホールだからか。
言いなり人形のように英嗣に身を委ねると、くちづけが止んでしまった。
「もう逃しません」
ほうと息を零して見上げると、男は色香を漂わせて微笑んでいる。鼓動はいっそう激しくなり、このまま玄関で抱かれたい衝動を和泉は必死で思い止まる。
たとえ、家の者が告げ口をしないとしても、誰かの目がある。劣情を隠していない英嗣は誰にも見せたくない。和泉だけのものにしていたかった。
秘密の関係で、誰にも見つかっていけないなら、大切な宝物のように隠してしまいたい。口に出せない思いも、感情的も。普段は見ない英嗣の表情も吐息も。
ぺろり、英嗣の舌に唇を舐められ、その先を容易に想像した身体が期待で熱を高くした。
「ここは、だめです。……英嗣さんの、その表情を誰にも見せたくないのです」
勇気を出して言ったのに、咥内いっぱいに英嗣が舌を差し込んでぐちゃぐちゃに掻き乱す。
「……ん、ぅん。え……じさん」
理性さえもぐちゃぐちゃにされて、身体の力が抜けてきてしまう。それでも和泉は淫らに舌を求めた。
じゅ、と吸われ、離れた唇を銀糸が名残惜しそうにつなぎ、そして途切れた。
「あなたは僕を翻弄するのが本当に上手い」
わたしも英嗣さんに翻弄されっぱなしです。そう言いたいのに、甘やかな痺れに支配さつつある和泉は、浅く息を吐くので精一杯になっていた。
「あなたの今日を僕にください。代わりに僕のことしか考えられないようにしてさしあげます。覚悟してください」
にこり笑う英嗣の瞳は、完全に獰猛になっている。こんな時の彼はとても危険だとわかっているのに、和泉は期待で頬を上気させてこくり頷いた。
夫婦の祝いの日が、義弟との愛欲に淫らに耽る一日に背徳を感じながら。
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