惜しみなく愛は奪われる

なかむ楽

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挿話:萩はすべなく露流す

 二

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 ― 二 ―


 白粉と煙草と酒臭い室内から、店の履物で待合の玄関へ出た。征十郎が吐く息はすぐに真っ白になって夜の赤坂の空へ消える。
 女々しいとわかっていながら、何かと関連付けて思いを馳せてしまう。

 ――お嬢さん……。

 あの時の男を見つめる和泉の顔は、征十郎の知らないものだった。無邪気な笑顔で征十郎と呼ぶ和泉とは違い、色香で溢れていた。

 ――あんな風に男を見つめる……悪い女になってしまわれた。

 そう思うのに想い浮かぶのは、困ったように笑う大人の和泉と男にしなだれる婀娜あだっぽい和泉だ。
 忘れようにもなかなか忘れられない。
 
 ――かじかむこの指先と同じだ。……胸の内が痛くて、ひどく寒い。

「きみ、そこを退かんか」

 仕立ての良い背広を着たふくよかな中年男に、征十郎は背中を押され玄関の端へ寄る。

「下位の軍人が偉そうに戸口にいるなど、この待合も品位が下がりましたな」
「ははは。閣下は手厳しい。次は赤坂ではなく人形町の待合で楽しみましょう」

 征十郎は思い出した。昭和四年の和泉の家のパーティーで見かけた、貴族院議員の華族だ。
 そして明朗な男の声にも覚えがあった。

「これは失礼。ここは遠藤家の持ち物でしたかな? おたくは手広いから迂闊なことは言えませんな」

 遠藤と聞いて、確信した征十郎は玄関を見やった。
 貴族院議員に笑いかける青年――遠藤英嗣だ。帽子を目深にかぶっているが、間違いない。

「気をつけなければなりませんね。もしかしたら『話せばわかる』と閣下が言う羽目になるかもしれませんよ」
「おお、昨今は怖いですな」

 快活に笑う貴族院議員を押して玄関の中へ入った。

「なにをするんだね、きみは」
「青年将校さんは血気盛んなのが旗印ウリですからね。はやる心に突き動かされたのでしょう」

 見えている英嗣の唇がにこやかに弧を作る。それが征十郎の癪に障った。

「最近の若い者は礼儀を知らん! 儂が若い頃は明治の維新を駆け抜けた御仁に斬られてもおかしくなかったぞ」
「また始まりましたね、閣下のお得意の明治維新。その前に……。彼に道を開けてもらいましょうか」

 英嗣はちらり後ろ見た。つられて征十郎も視線をやると、英嗣の背後に控えていた毅が威圧的に征十郎の肩を押す。

「ご主人、先日は急な話をしてしまい、大変失礼を致しました」

 征十郎は背を正して毅に礼をした。するとゲジ眉を顰めた貴族院議員が英嗣を見やる。

「なんだね、遠藤くん、きみのお知り合いでしたかな?」
「さあ? 僕のような若輩を知る者はいませんから、閣下の思想に感銘を受けた熱烈な信奉者かと思っておりました」
「ふむ。儂に心酔するものは多いからな。きみが表に顔を出さんのは、第二の血盟団事件を恐れておるからかね?」

 昭和七年に起こった血盟団事件は、暗殺集団が政財界の狙った連続テロ事件だ。この事件の前後事件は、征十郎たち国を憂う若い将校たちならみんな知っている。
 
 そこへ、中将たちがどたどたと足音を立てて駆けつけてきた。
 英嗣と貴族院議員を見るなり、中将は酔いを覚ます勢いで目を大きくした。

「村瀬! こっちにに来んか!」

 中将たちがいる上がりかまちへ向かうなり、怒りで顔を赤くした中将が征十郎の頬を叩いた。

「おお、軍人とやらは勇みきっておるな」
「ですが、閣下の面前で暴力などはいささか失礼かと思いますがね」
「けっこうけっこう! 儂もかつては明治の維新を駆け抜けた御仁に叩かれて成長したものよ」
「閣下の恩情、有難く頂戴します」

 中将が貴族院議員と英嗣に頭を低く下げると、上官たちも倣って頭を下げた。それを見た征十郎は、中将が貴族院議員に平身低頭する意味に気がついた。

 中将閣下とあろう方が媚びへつらい、貴族院議員や商売人と懇意になろうとしているのか?

 明治維新で一掃された腐敗した政治は、この昭和の世も汚職まみれだ。私腹を肥やすことしか頭にない政治家と儲けしか考えていない財閥や商家は、不況不作の貧しい国民を顧みないでやりたい放題だ。
 国民と官僚に近い軍人には選挙権がない。国を変えようにもどうすることも出来ないままだ。
 玄関から入ってきた背広姿の男が貴族院議員に礼をした。

「閣下、お車の支度が出来ております」

 貴族院議員と英嗣たちが動く。咄嗟に征十郎の足も動いた。

「待ってください! 毅殿! あなたの奥方は……」

 告げ口なんて男のすることではない。わかっているが目の前の英嗣が憎らしい。
 振り返った貴族院議員が英嗣をしげしげと見つめた。

「遠藤つよしとはきみの御尊父……遠藤の当主の御芳名ではないかね?」
「さあ? 父とは長らく顔を合わせていないので忘れてしまいました」

 英嗣はなに食わぬ顔で口を弧にして受け答えた。その不遜さに征十郎の怒りが爆発寸前になる。

「父親だと……!? おまえが遠藤の次期当主、毅ではないのか?」

 征十郎は毅の胸ぐらを掴み引っ張る。巌のような毅は眉一つピクリとも動かさない。それは一種の肯定だ。

「遠藤剛嗣つよしの奥方は僕の母ですが、なにかありましたか?」

 男は帽子の影で冷たい笑顔を浮かべている。
 征十郎は男が底知れなくてゾッとした。

「おまえは……誰だ……?」
「将校殿はお疲れのようだ。満州の空の下で養生をなさった方がいい」
「なぜ……それをおまえが知っているのだ?」
「僕は貴官を知らない。独り言をお聞き間違えのようだ」

 瞠目している征十郎に対して、英嗣はにこやかではあるが目が笑っていない。

「失礼しました、遠藤さま。准尉は少々酔っておるのです。よく言って聞かせますから、どうかこの場はお忘れ下さい!」

 中将が間に入り、毅から征十郎を引き剥がした。
 玄関扉をくぐった英嗣が立ち止まり小声で呟いた。

「人のものに手を出そうとするから大陸などに飛ばされるんだ。結果いいようになったもの、本来なら左遷では済まされない大罪だ」

 ハッとした征十郎は英嗣を追いかけようとした。
 彼が何を知って何をしたのか。和泉との関係はなんだと言うのか。
 英嗣を庇い身を前に出した毅は、冷たく征十郎を睨む。巌のような男はまるで主人に忠実な闘犬のようだ。

「村瀬! 下がれ!」

 征十郎の肩を掴み止めた中将が耳打ちする。

「彼奴らに盾突こうと思うな。悪名高い遠藤だぞ。意に介さない人物はどんな相手でも潰す男だ。貴様の首よりも後見人の儂の首を思え」

 玄関がピシャリ閉ざされてしまった。征十郎の行くあてのなくなった怒気が、その拳を強く握らせた。

「……中将閣下……いえ……。知人に……よく似ていたので……勘違いをしてしまいました」

 奥歯を噛みしめ苦しい言い訳で濁す。
 そんな征十郎を、中将は力いっぱい突き飛ばした。

「いいか、勘違いだろうがなんだろうが、今日のことは忘れろ! 向こうも我々のことなど忘れる! わかったな、これは後見人からの命令だ」

 腑に落ちないことであれ、恩人からの命令には背けない。征十郎は受けた恥と疑問を拳に握りしめた。




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