惜しみなく愛は奪われる

なかむ楽

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第三章:椿は艶やかに落ち濡れる

 五

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 書斎の重厚な机に英嗣は腰を下ろしていた。その手は征十郎からの手紙を持っている。

「英嗣さん! ……どうして黙って手紙を持っていったのですか?」
「ひどいな。先に黙っていたのは和泉さんでしょう?」

 片手に持った封筒をひらひら軽く振った英嗣は、薄く笑いながら机から降り和泉と向かいあった。

「……その手紙は虚偽が多く書かれているので、英嗣さんをいたずらに傷つけてしまうと思ったので、あえて黙っていました」
「お気遣いありがとうございました。けれども、僕がそんなにヤワな男に見えていたのが残念です」

 いかにも英嗣らしい自信のある言葉だが、和泉は安心できないでいる。
 勇気を持って聞くなら今だと、胸に抱きかかえた手を強く握りしめた。

「――真実を教えてください。その手紙に書かれていることは嘘ですよね? 新聞記者さんが言っていたことも嘘ですよね?」

明らかに英嗣が怪訝に眉を顰めた。

「新聞記者? いつそんなものが来たのですか?」
「……先ほどお台所にお見えでした」
「警備を考えないといけないようですね。それで、そのドブネズミがあなたに何を吹聴したのですか? お聞かせください」

 笑顔の奥に隠された不穏さが静かに滲み出ていると、感じ取った和泉は息を呑んだ。

「手紙と……同じことを聞きました。エンドウツヨシはあなたのお父さまであると」

 英嗣はなにも答えず黙っている。言葉を探している素振りもない。痺れを切らしたのは和泉だ。

「どうしてすぐに嘘だと仰ってくださらないの? あなたの言葉はわたしの真実なのです」

 だけど、これ以上盲目的に信じ続けられないだろう。疑いの芽は摘んでもその根は深く心に残るものだ。

「わたしは、英嗣さんをもう疑いたくありません」
「……もう・・、とは?」

 あっと、和泉は口を押さえた。思わず出てしまったのは、ずっとあった英嗣に対するわだかまりだ。

「……似ていない兄弟はこの世にたくさんいます。ですが、あなたと毅さんは本当に兄弟なのですか?」

 似ていない兄弟。寡黙で秘密が多い毅。彼が本当に夫でなければいいと幾度となく思っていただけに、都合がいいほうを信じてしまいそうだ。

「馬鹿なことだと流さずに本当のことを教えてください……! もう……心が潰れてしまいそうです!」

 最初の蟠りを吐き出したせいで、英嗣に聞きたかったことが口をく。
 本家で暮らしていると思っていたけれど、どこで寝泊まりをしているのか。
 本当に独身なのか。家庭を持っていてそちらに帰っているのではないか。会えない日はそちらで過ごしているのではないか。
 感情の昂りが抑えられない和泉は、半ばヒステリックに声を上げていた。

「それに関しては誤解をといておきましょう。僕はよそに家庭を持っていませんし、本家で寝泊まりなど一度たりとしたことはありません」
「じゃあ会えない日はどこにいるのですか? 待合やホテル住まいですか? ……以前夜中に起きた時、離れ屋に入っていく英嗣さんをお見かけしました。……帰ったふりをして離れ屋で寝泊まりをしているとでも?」

 和泉が立ち入りを禁じられている離れ屋。なぜ入ってはいけないのか。

「そこに英嗣さんの着替えなどの生活用品があるから立ち入り禁止なのですか? わたしに見られるのを避けるために?」
「見られていたとは知りませんでした」
「否定をなさらないのですね?」
「事実ですからね」

 そして英嗣は呟く。「そろそろ潮時かな」と。

「あなたがこの屋敷で寝泊まりしていると……教えてくださっていたら不安にならなずに済んでいました」

 英嗣には和泉に言えない秘密があるのだ。

「家庭がある訳でもない……、それなのに普段の生活を教えられない。わたしに信用がないからですね」
「信用は他者にするものではないですよ、和泉さん。信用とは取引などの実績に発生するものです」
「今はそんな話をしていません! 最初の質問に答えてください。あなたと毅さんは兄弟ではなくて、主従関係なのですか? あなたが次期当主なのですか? 征十郎さんは嘘を言っているのですよね?」

 泣きながら和泉が睨みつけると、英嗣は優しげに微笑んだ。

「そうです。遠藤の次期当主は僕で、毅は僕の兄ではなく従僕です」
「……な!?」

 英嗣の肯定で、和泉は足元から崩れてしまいそうな衝撃を受けた。身体が勝手によろりと後退る。

「なぜですか? 命を狙われる可能性があるから毅さんを身代わりにしているのですか? それならばどうしてわたしにも偽るの? わたしはあなたの命など狙いません!」
「この手紙にある影武者とやらではありませんよ。だいいち、毅は僕と似ていないから誰の目も誤魔化せません。それに僕は影武者など立てた覚えはありません」
「それなら……どうして毅さんは当主だと偽って結婚をしたのでしょう?」
「僕が命令をしたからです」

 その言葉で流れている涙がいっそう溢れ出した。

「――嘘ですよね?」

 一歩、英嗣が和泉に近づく。そのぶん和泉も一歩下がった。

「わたしを愛していると仰ったのも……すべて嘘、だったの? 愛し合ったのも、なにもかも。……馬鹿な女だと欺いて……笑っていたのですかっ!」

 ぼろぼろと涙を零す和泉が背中を扉にぶつけると、落ち着いた笑顔のまま英嗣が腕を伸ばしその逃げ場をなくした。

「……三年間もわたしを騙していたのですね!」

 和泉は英嗣の胸を叩きつけた。悔しい。悲しい。ひどい!
 不義をしていたのだと。人の道に背く行為だと知ってなお、愛し合った日々も言葉も心もすべて幻想だったのだ。

「煉獄すらあなたと歩く覚悟をしていたのに!」

 英嗣は和泉の顎を掬い持った。顔を上げられ涙がとめどなく零れゆくのに視界が滲みすぎていて、英嗣ががどんな表情なのかわからない。

「僕を嫌いになろうと、あなたは逃れられない」

 嫌いになれたらどれだけいいだろう。和泉はゆっくり目蓋を下ろした。

「触れ……ないで」




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