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第1章 姉妹だけが知っている
2 身代わり
しおりを挟むーーー今夜は、私が菫の代わりをする。
その一言に、隣で聞いていたタマは、
「えぇーーーッ!!」
と、大声をあげて、仰け反った。
「ど……ど、ど……どういう意味ですかッ?!」
多少変わり者の姫に慣れているタマでさえ、この発言に動揺している。
「土筆さまが、代わりをする……というと、まさか、こ、こ、こ、こ……」
両手の人差し指の指先をチョン、チョンと突き合わせながら、
「……近衛中将と?」
目を白黒させながら尋ねてくるタマに、
「まさかっ!!」
慌てて、土筆は首を振った。
「しません。そんなこと!」
片手を広げて、目の前に掲げ、誤解のないようにキッパリと告げる。
「あと、その指先の動きヤメテ。」
「で……で、でも、今、菫さまの代わりにお相手するって……」
「お相手じゃないわ。代わり会うだけよ。」
「会うって言っても、夜……ですよ? それも寝室で。」
言ってから、ハッとして、
「まさか土筆さま……夜の寝室で、男女は語らい合うだけだと思っいらっしゃるんじゃ……」
「ちょっと! 馬鹿にしないでよ!!」
確かに、土筆は、男女の仲になるような相手はいない。恋の駆け引きも、勿論、経験がない。だが流石に、もう16歳。知識くらいはちゃんとある。
「菫の代わりに会って、中将殿とお付き合いするつもりはありませんって断るのよ。」
気の弱い妹に代わり、自分が言ってやるのだ。
「…だ……大丈夫でごさいますか? 相手がその気にでもなったら、いくら姫さまでも……」
「大丈夫よ。几帳ごしに会うだけだもの。いざとなったら、几帳ごと蹴り倒してやるわ。」
それに、いざ向こうが几帳を乗り越え、押し入ってきても、相手が土筆だと分かれば、ガッカリして帰るに違いない。
「お姉さま………!!」
菫が、頼もしい姉を、キラキラとした瞳で見上げている。
「ありがとうございます!!」
飛び上がって抱きついてきた菫を抱きとめて、
「心配しなくていいわ。姉さまに任せなさい。」
土筆は、胸をドンと叩いてみせた。
* * *
その日の夕刻。
日の落ちた花房邸には、続々と牛車がやって来る。
花の宴は、舞い散る花を眺めながら、皆で酒を飲む、早い話が宴会だ。自慢の庭園はいくつもの行灯で照らされ、花が夜に映える。
権大納言の力を四方に見せつけるとともに、もっと力のある者たちには、親しく擦り寄り阿るための宴。
父、花房資親は、実に権力欲旺盛な男だった。
「本当に、随分、賑やかでございますね。」
毎年のことなのに、タマが感心したように言う。
「ホント。眺めているだけで、疲れたわ。」
土筆も先程、宴会場になっている西の対屋近くまで行っていた。入り口から、几帳ごしにだが、会場も覗いた。
人見知りな菫は、勿論、自室に籠もっている。土筆も本来なら、部屋で静かに本でも読んでいたかった。
にも関わらず、ワザワザ出向いてきたのは、今夜の敵、近衛中将、藤高時峰を一目見てやろうという、言わば事前の敵情視察なわけだ。
早速、噂の好色男はどこかと、給仕に忙しい女房に声をかけたら、「あの方ですよ。」と、すぐに教えてくれた。教えてくれた……のはいいが、よりによって、最も遠い席に座っている。
土筆は、几帳の隙間から目を凝らして、じっと見つめた。
なるほど、さすがに武官らしく身体付きは逞しい。顔立ちも、なんとなく整っている気がする。遠すぎてよく見えないけど。
しばらく粘ってみたものの、結局、よく分からず、土筆はついに諦めて、宴席から撤退することにした。
そうして、「疲れた、疲れた」と一休みしていた土筆のもとに、女房のタマがやってきたのだった。
「菫の様子はどうだった?」
タマは今の今まで、菫の側にいた。「やはりお姉さまに申し訳ないわ」、「今からでも、お父様に申し上げるわ。」などと騒ぎだした菫の側について、「土筆様にお任せなさりませ。」と宥めていたのだった。
「まぁ、お父様に訴えでたところで、じゃあ、なしに……ってなるとは思えないものね。」
「むしろ、予定を早めて、サッサと寝室に押し込みそうですよね。」
それ程に野心家な父だ。やると決めたことは、絶対にやり遂げる。
「だからこそ、誰にもバレてはダメ。これは、私と菫とタマだけの計画なのよ。」
「御意に。」
タマが頷く。
「じゃあ、そろそろ行きましょう。」
土筆は立ちあがると、凛と決意した足取りで、菫の部屋に向かった。
菫の部屋は、土筆の部屋から渡殿(渡り廊下)を通った先。この邸では、もっとも端にある。
これは、小心者の彼女がなるべく人騒がしいところから離れていられるように、という配慮からの配置だが、それが余計に、噂が噂を呼んで、世間では深窓の姫君と謳われていた。
土筆は、菫の代わりに、ここで、中将を待つことになる。
「側についていましょうか?」
心配そうに尋ねるタマ。
「いいえ。あなたがいると、先導の女房が気づいてしまうわ。中将には、ともかく、ここまで来てもらわないと。」
納得させるには、中将本人と話をつけなくてはならない。
「分かりました。それでは、土筆さまのお部屋におりますね。」
「そうしてちょうだい。」
タマが、万が一のときは、大声で叫ぶようにとしつこく告げてから出ていく。土筆は、薄暗い部屋に一人になった。
ただでさえ、慣れた自分の部屋でもないのに、小さな燭台の明かりだけでは、やはり少し心許なく感じる。
部屋の真ん中に几帳を立て、土筆は奥に鎮座していた。この几帳ごしに話をつける。間違っても、乗り越えてこられないようにしないと。
まだ春だというのに、土筆の握りしめた手に、じっとりと汗が滲む。
半刻ほどたった頃だろうか。
遠くから、足音ととともに、昼間聞いた女房の浮かれた声がした。
「えぇ、えぇ。お疲れなら、こちらで休むとよろしいですわ。それは、もう、静かなお部屋でございますから……」
そんなにあれこれ説明したら、かえって怪しいだろうと思うほどに、饒舌だ。
女房は、当然のごとく、中の土筆に声をかけずに踏み込んできた。
几帳の奥で、土筆は座ったまま、小さく息を呑む。
ここでバレてはいけない。バレたら、全てが台無しだ。
すると、女房よりも低い足音が、床を軋ませた。
「やぁ、これは確かに涼しそうな部屋だ。ここなら、酔いも醒めるでしょう。」
先程、美しいと評判の顔は拝めなかったが、初めて耳にする声は、低くて、甘い。美声だった。
「それは良かったですわ。あの几帳の奥に、お布団が……いえ、あの、是非、ごゆっくりお休みになって……」
女房は後退りながら話しているらしい。声がどんどん遠くなる。
「あの、酔いが醒めても、無理に戻って来なくても、よろしゅうごさいますのよ………」
オホホホホ、という笑い声が尻切れトンボのように聞こえたかと思うと、ダダダと廊下を早足で遠ざかる音。
多分、菫が騒ぎ出す前に逃げ出したのだろう。この几帳の奥にいるのが、菫でないとは、知りもせず。
さて、勝負はこれからだ。
この好色男と話をつけて、ともかく、穏便に菫を諦めてもらわなくては。
穏便に……できるかしらーーー?
その時、几帳の向こう側から、ガタッと動く音がした。
土筆の心臓がビクンと跳ねる。
ここは屋敷の一番端。今は皆、宴会場の対屋に出払っていて、誰もいない。
頼りのタマも一つ向こうの部屋で待たせている。
冷静に考えてみれば、もし男が本気で力ずくできたら、土筆には抵抗する術なんてない。
あの昼間の勇ましさは、どこへやら。
突然、自分が酷く迂闊な判断をしてしまっとのではないかと、激しい後悔が湧いてくる。
もしかして、男がここに踏み込んで来るのではーーー土筆はグッと全身に力を入れて身構えた。
しばし沈黙が続いた。
どうやら、踏み込んでくる気配はない。
沈黙は続いている。
もしかして、このまま朝が来るのではと、心配になった頃、その沈黙を男が破った。
「さて。私は、この几帳の向こうに行っていいのかな?」
几帳の向こうに女がいる、と知っているのだ。
よくよく考えたら、あちこちの女の元に通っているのだ。婿に取りたいと画策するものも多い。こんなことは、よくあるのだろう。
そして、自分が尋ねれば、当然、女は「是」と答えると思っている。
だが、土筆の答えは違う。
「ダ……ダメです!」
思ったよりもしっかりとした声が出て、ちょっと安心した。
「ほう? ダメ? どうしてですか?」
断られるなどと思っていなかったに違いない。中将は、逆に関心を持ったようだ。
「私は、この邸の主人に、この部屋で好きに過ごしていいと案内されました。それはつまり、この部屋の娘ごと好きにしていい、ということでしょう?」
「なッ……?!」
なんて言い方!!侮辱も甚だしい。
しかし、父の意図に関しては、否定できないところが悲しい。
土筆は、コホンと咳を一つして、
「父はどう申したか分かりませんが、こちらにその気はございませんので、お断り申し上げます。」
男女の断り文句というのは、こんなのでいいのだろうか? 直接的すぎたかしら。でも、今更、引き返せない。
「どうぞ、酔いが醒めたら庭を回って、お帰りになって。」
相手からは見えないだろうが、背筋をピンと伸ばして告げた。すると、男は、理解を示すかのように頷いた。
「なるそほど。」
良かった。分かってくれた。これで一件落着……のはずだったのだが、
「では、酔いが醒めるまでは、ここにいていいのですね?」
「………は?」
「だって貴女は今、言ったじゃないですか。酔いが醒めたらお帰りにって。それって、酔いが醒めるまでは、ここにいて良い、ということですよね?」
「えぇ……っと、それは……まぁ、酔ってお帰りになるのは、危ないですし………」
あれ? なんだか、雲行きが怪しくなってきた。
今まで、あまりない経験だが、これは、自分のほうが丸め込まれている……気がする。
また、ガタンと音がした。男の動く気配。
もしかして、こちら側に踏み込んで来るのではと身を縮めた。しかし、音はすぐに止んだ。
「良かった。それでは、しばし、ここでくつろがせて頂こう。」
男の声に、土筆は、恐る恐る几帳の隙間から覗き見る。
男は、どこからか脇息を取ってきたらしく、そこに肘をついて言葉通り、寛いだ姿勢を取っていた。
月明かりに照らされた男の姿は、まるで絵巻物から出てきた月の精のように美しかった。
なるほど。これは、確かに皆が騒ぐはずだわーーーなんてことを、心の中で考えていたら、男がこちらを見た。
男の凛々しい目と、目が合ってしまったような気がして、慌てて後ずさった。
後ろめたいような、気恥ずかしいような気がして、心臓がドキドキと飛び跳ねている。
そんな土筆の心境など知らぬ男が、口を開いた。
「改めて、ご挨拶申し上げます。私の名前は、近衛中将、藤原時峰。ここは、花房家の一番端。とすると、三女、菫姫の御部屋とお見受けするが、貴女の名は?」
そうだ。ここは菫の部屋。
だから本来、いるのは当然、菫なのだけどーーーこんなふうに問われるとは思っていなかった。
菫のふりして断るつもりだったけど、時峰は、案外紳士的だ。いっそ、正直に言うべきだろうか。
そんなことをぐるぐる考え、逡巡している間に、時峰は、
「言いたくないのであれば、結構です。その代わり、しばし、私とお話でもしませんか?」
「………話? 貴方と何の………?」
すると、思いの外、気さくな物言いで、「私は最近、悩み事が2つほどありましてね。」と語りだす。
「そのうちの1つ………これは、厄介なことに巻き込まれて困っている、という話なのですが、どうです? 聞いてみませんか?」
「厄介な困りごと? 中将さまがですか?」
「えぇ、左様です。」
皆から完璧と目される中将の困りごととは、何だろう。
土筆は、自分の中の好奇心が、むくむくと膨れ上がっていくのを感じていた。
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