御簾の向こうの事件帖

里見りんか

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第6章 身代わり尚侍

3 夜の庭

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 その日の晩、登華殿とうかでんの御格子にコツン、コツンと何かが当たるような音がした。
 石でも投げたような、その音に土筆は戸を開けて、外の簀子に出た。

 後宮の庭は暗い。頬に当たる夜風が少し肌寒い。
 音がしたのは、弘徽殿とは反対側の壁だった。清涼殿からも遠く、普段ならば、こんな夜中に人の気配などない場所だろう。

 しかし今晩は、そこに見目麗しい公達が一人、月明かりを背に立っていた。
 土筆と目が合うなり、眉目秀麗な顔は甘やかに綻んだ。

「やぁ、お久しぶりです」
「時峰さま!」

 土筆が急いで簀子の際まで寄ると、時峰も近づいてきた。
 淡い月の光を纏う姿は、初めて会った晩に花房家の庭にふわりと降り立った日のことを思い起こさせる。

 あの時も綺麗な人だと思ったけれど、今は姿が目に映ると、胸がぎゅうっと締め付けられる。

「良かった。まだ起きていましたね」
「時峰さまこそ、晩に、このようなところまで足を運んで大丈夫なのですか?」

 誰かに見られてはまずいのではと、自然と声が小さくなった。

 手紙で返事をくれれば十分だったのだ。まさか会いに来るとは。しかも、土筆からの手紙は、今日の昼間に渡したばかりなのだ。

「今晩は、宿直なのです。ちょっとこちらの方まで巡回しに来ているだけです」

 時峰がいたずらっぽく微笑んだ。

「貴女が手紙などくれるから、会いたくなって、来てしまいましたよ」

 こういうことを当たり前のように言うところは、恋人同士になっても変わらない。いや、むしろ前より一層、甘くなった。
 土筆は、未だ慣れずに戸惑うばかりだというのに……

 時峰は、そんな土筆の様子などお構いなしに、いつもの真面目な口調に戻って言う。

「手紙を読みました。知りたいのは、左近大夫のことですね?」
「えぇ、そうです。時峰さまなら、ご存知かと思って……」

 すると、時峰は誇らしげな顔をした。

「貴女は運が良い。ちょうど今晩、彼は私と一緒に宿直をしていました。それで先程、ちょっと酒を飲ませて、ね? うまいこと霧立の内侍のことを、聞き出してきましたよ」

 クイッと盃を煽る仕草。宿直の最中にお酒など飲んでいいのかしらという疑問が土筆の頭を過ったが、それは一先ず置いておくことにした。

「それで左近大夫様は、なんと? 霧立の内侍と深い関係だったのですか?」
「深い関係になりたいと熱心に通った時期はあるが、あまりうまくいかなかったようです」

 酒のおかげか、左近大夫は愚痴半分に、随分とあけすけに語ってくれたらしい。

「左近大夫様が通われていたというのは、いつ頃の話ですか?」
「本人が言うには、半年くらい前だと。最後に直接お話したのも、その頃のようですよ。勿論、御簾越しですが」

 半年前か。霧立の内侍の子がいつ頃産まれる予定なのか分からないけれど、半年前だと微妙だろうか。
 どちらにしろ、左近大夫の言うことが本当なら、深い関係にはなっていないのだ。霧立の内侍の相手は、彼ではないのだろうか。

 あれこれ考えを巡らせていると、時峰が「そういえば、少し気になることを言っていました」と、何かを思い出したように言った。

「気になること、ですか?」
「左近大夫は、尚侍の歓心を買うために、何度か贈り物をしたそうです」

 霧立の内侍は、帝の従兄弟である霧立宮の娘だ。霧立宮自身は、すでに出家しており、政治的な権力はないに等しいが、それでも家柄を考えれば、贈り物は、それなりの品でなくてはならない。

「尚侍の好みをさりげなく伺ったり、いろいろと気を揉んだようなのですが……」

 贈り物をする以上、そういうこともあるだろう。
 しかし時峰は、その先が何とも不可解だというように顎に手を当てて首をひねる。

「何か問題があったのですか? とんでもなくおかしな物を要求されたとか?」

「おかしな物ではないのですが、どうも尚侍の要求が妙に細かいようで……例えば着物の柄や生地、織り方に至るまで、細かく指定してくる。それどころか、時には、同じ生地の全く同じ着物を2着作って欲しいと頼まれたこともあったそうです」

「同じ着物を2着ですか? なんのためにそんなことを……」

 着物なんて、置ける場所も限られている。
 いくら気に入った柄でも、全く同じ物を沢山持っても仕方がない。せっかく着替えても、他人の目には同じものに映るからだ。結局は、いつも同じ物を着ていると思われてしまう。
 2着も作っても、財力がない娘だと思われるだけで、損しかない。

「当然、同じ疑問を左近大夫も抱いたようです。それで本人に尋ねたら、一つ駄目になったときのために替えが欲しい、と。気に入った物を長く着たいからと言ったそうですが」

 時峰も、土筆と同じように腑に落ちていないような顔をしている。

「左近大夫としては、ともかく要求が細かい上に、どれだけ心を尽くしても手出しを許さない気位の高さで呆れてしまった、と。それで、だんだんと足が遠たようですよ」

 時峰は、最後に「本人が言うには」と付け足した。

「本人が言うには?」

 土筆が首を傾げると、時峰はフフと笑った。

「私が見る限り、あれは未練がありますね。口では『呆れた』なんて言っていますが、まだ尚侍のことを諦めてはいないですよ」

「そう……なんですか?」

 確かに、左近大夫の文の文面は、尚侍のことをかなり心配している様子だった。

「押して駄目なら、引いてみろってな話で、少し距離を置くことで、かえって自分のことを気にしてくれるんじゃないかっていう……いわば駆け引きですね」

 なるほど。これが現実の男女の駆け引きというものなのね。物語では読んだことがあるけれど。

「……さすが、世に色男と名高い、中将 藤原時峰さまですね」

 何気なく呟いた土筆の言葉に、時峰はギョッと目を剥いた。

「ちょ、ちょっと待ってください! 私があちこちの女性に手を出しているというのは単なる噂で、実際に心を寄せたのも、口説いたのも、貴女一人だけですよ。当然、分かってくれているとものだと……」

「…え?」

「『え?』、じゃありません。今更、そのような誤解をされるとは、心外です」

 時峰が突然、慌てだしたから、どうしたのかと思ったが、彼が必死にする言い訳の意味を理解して、土筆は急に気恥ずかしくなった。

「違います! そのような意図があって呟いたのではなくて……時峰さまは、宮中の方とも親交が盛んですし、華やかな交友関係をお持ちだから、そういうことも、よくご存知なのだろうと思っただけだけです」

 答える声が、段々と小さくなっていく。
 こういう関係に慣れていないから、悪気なく失礼なことを言ってしまったようだ。

「あの…気分を害したのならば、ごめんなさい。深い意味はなかったのです」

 気づけば、時峰がじっとこちらを見ている。時峰と目合わせているのも居た堪れなくなってきた。

 目を逸らそうとすると、時峰の手がスッと伸びてきた。指先が土筆の頬に僅かに触れる。

「土筆姫」
「……あの?」

「貴女が何かを考え込む時、焦っている時、こんな顔をしていたのかと…こんなにも表情豊かだったのかと、改めて知りました」

 目の前の端正な顔が、切なげに微笑んだ。

「貴女の出仕が決まり、心が痛く、辛い思いをしていましたが、代わりに、今まで御簾ごしでしか知ることの出来なかった貴女の姿をこんなにも近くで見られた。それが嬉しいのです」

 そういえば、夜にタマの手引きで忍んできたを除いて、時峰とはずっと、几帳や御簾ごしの会話だった。
 御簾の内側というのは、外より暗い。
 その明暗の差で、御簾の内側から外は見えるが、外から中は見えづらい。今までも、土筆から外の時峰の姿は見えていても、時峰から土筆の様子は見えなかった。

 時峰に指摘され、唐突に、御簾1枚がないことの近さを実感した。
 隔てる御簾がない。それは、手を伸ばせば触れられる距離ということだ。

 時峰の指先が、土筆の頬を愛でるようにゆっくりと動く。

「あ、あの……時峰さま?」

 恥ずかしくて、顔を逸らしたい。この場から逃げてしまいたい。
 なのに、何故か土筆の身体は、簀子に杭でも打ち付けられたみたいに動かない。

 土筆に触れる手に力が増した。
 頬が時峰の端正な顔へと導かれる。ゆっくりと引き寄せられていく。

 その意図に気付いた土筆は、目を閉じようとした。

 しかし、その瞬間、目の前にいたはずの時峰の姿が消えた。
 頬に触れていた手の温もりもない。

 戸惑っていると、下の方から「姫!」と呼ぶ、忍び声が聞こえた。

 土筆が声の先を追おうとしたら、内緒話をするときのような声が牽制を告げる。

「近くに人がいました。少し、このままで」

 どうやら、見回りの人間の気配でもしたらしい。咄嗟に身をかがめて隠れたようだ。

 土筆も周囲に目を凝らした。
 さわさわと涼しい風が渡り、庭木が揺れる。時峰が言うような人影は見当たらない。

 土筆も心もち、身を低くして待った。すると、しばらくして、闇の中から時峰がすくっと立ち上がった。

「時峰さま?」

 先程の一件で、甘やかな雰囲気は消えてしまった。どこか間の悪い気まずさが二人を包む。

「もう行かないと……」

 時峰が月の位置を確かめてから、残念そうに言った。
 そういえば、宿直の最中だと言っていた。いつまでも出歩いているわけにはいかないのだろう。

「また、来ます」

 時峰の別れの挨拶に僅かに感じた寂しさを、心の奥底に押し込めて返す。

「あの……無理なさらないでください」

 清涼殿からは離れていても、後宮の庭だ。夜中に忍び込んでいるのは、あまり外聞がよくないだろう。

「別に、無理なんてしていませんよ。私が姫に会いたいから、来ているのです」

 時峰は笑って言うと、名残惜しそうに土筆の頬に軽く撫でてから、闇の中に消えていった。

 時峰に触れられ、少しだけ熱を持った頬を冷ますように、秋の夜風が心地よく流れていった。

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