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交差していく平行線
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「葵って赤が好きなの?」
梅雨に私がそう言った。
「うん。気分がいい時は赤、駄目な時は緑。泉にもそういうのある?」
「あるよ。私は青が好き。嫌いな色は…黄色かな」
「じゃあ今日はちょっとイライラモード?」
「そう、だね」
「じゃあこれあげる」
葵はそう言って鞄からお菓子を取り出してきた。『おっとっと』だった。
「これ、食感も好きだけど、ネーミングセンスが抜群にすごいと思う。だって『おっとっと』だよ。転びそうな時に出るセリフじゃん。ふつう縁起悪そうだから付けないよ、こんな名前」
箱を開けながら葵はそう言った。そう言われてみると変な名前で面白いなと思ったちょっとふざけて『おっとっと』と口に出して言ってみた。葵が笑った。そして私の真似をしながら同じセリフを言った。私も笑った。お互いに笑かしあいながらお菓子の箱を空にした。
その日の帰り道、コンビニに寄った。
どんなお菓子を買っていってあげよう。
甘いものだったら葵は何が好きかな。
葵は何味が好きなんだろう。
葵は何て言ってくれるだろう。
葵は笑ってくれるかな。
そんなことを思うと、初めて葵の小説に自分の妄想を書き足した時の、あの胸のくすぐったさが蘇ってきた。体が小さくジャンプしてしまいそうになった。
その日の夜は明日がすごくすごく待ち遠しかった。
その日を境にラクガキスペースにはお菓子が置かれるようになった。
私たちはお互いをもっと知るようになった。
「葵の使ってるシャーペン。これすごく使いやすい。どこで買ったの?」
ある日、私が小説に落書きしながらそう聞くと、葵は文房具屋の場所を教えてくれた。
それから私も同じシャーペンを使うようになった。
「あちゃ~…。泉がいっつも黒い靴下履いてるのってこれが理由だったんだね」
ある日、葵が絵に落描きをしているとそう言った。葵の履いていた白い靴下に、絵の具が飛んでいた。
それから葵も黒い靴下を履いてくるようになった。
少しずつお揃いのものが増えていった。ラクガキを通してお互いの好きなこと嫌いなことを共有し合っていった。灰色の気持ちもお互いの作品にならぶつけることができた。
気分が悪い時、私は葵の書いた小説の主人公に容赦なく雨を降らせた。葵もイライラしている時は私の描いた絵の上に思いっきり緑色を広げた。それは誰かを殴ってストレス解消をするような尖った心地とは違っていた。裸の心を受け止めてもらえる安心感があった。
小説も絵もお互いの筆跡がぐちゃぐちゃに混ざり合っていった。それは奇妙な交換日記のようだった。
「何か悪いことをしよう」
夏の終わりに葵が言った。葵は時々、突拍子もない事を言う。でも私はそんな猫みたいな気まぐれさが好きだった。葵に振り回されるのは、二人で遊園地のコーヒーカップに乗っているようで楽しかった。
「壁に…落描きしてみたい」
そんな事を思いついた自分に少し驚いた。今までずっと小さなキャンバスにしか選んでこなかった。幼い頃から先生に怒られないように振る舞ってきた。はみ出す事が怖いと思っていた。
「おっ、いいねそれ!」
葵が目を輝かせてそう言った。
私たちはさっそく棚を移動して突き当りの壁をまっさらにした。
手を叩いてホコリを払いながら葵が言った。
「こういうのはやったもん勝ちだからさ。先生には言わずにやっちゃおう。どうせこの校舎壊しちゃうんだし、大目に見てくれるよきっと。事後承諾だ」
「ジゴショウダクってどういう意味?」
「やっちゃった後に許してくれ~って言うこと…かな」
「そうなんだ。難しい言葉知ってるなんて流石だね」
「ありがと…。でも最近よく考えるんだ。もし私が世界中の言葉を全部覚えたらって。そうしたら納得のいく小説が書けるようになるのかなって…。本当の気持ちを伝えられるのかなって…。多分出来ないと思う。そういうのとは違う気がする。うまく言えないけど…」
壁を撫でながら葵がそう言った。少し寂しげな横顔だった。
「それ、分かる気がする。私も写真みたいに正確に絵を描けるようになったら、どうなんだろうって、よく考えたりする…」
私もそう言って壁を指先で触ってみた。爬虫類の肌のようにデコボコな感触だった。
少し嘘をついた。絵が上手くなりたい。納得のいく絵を描けるようなりたい。その気持ちはあった。でもそれ以上に、葵と一緒にいたいという気持ちが絵を描く原動力になっていた。
初めてお互いの作品にラクガキし合った時のあの胸の高鳴りは、静まることなく私の中でくすぶり続けていた。そして時々、葵の見せる何気ない仕草を引き金に心の内側をどうしようもなく掻き毟っていた。葵の書いた文章に落書きするたび、私の描いた絵が落描きされるたび、体は熱病のように赤くなった。好きという気持ちは厚みを増していった。
その頃にはもうラクガキ用のキャンバスもノートも一杯になっていた。キャンバスは美術室の壁に、ノートは継ぎ足しの出来るリングファイルになった。私たちのラクガキは少し大きくなった。
私はハケを手に取って壁に最初の大きな絵を描いた。葵が最初に落描きしてくれたあのハートマークを描いた。今度は自分の好きな青色の絵の具を使った。
顧問の先生には思ったより怒られなかった。葵の言っていた通り、取り壊しの決まった校舎の壁という理由で大目にみてもらえた。私たち以外にもう部員は増えないことは、先生も感じているようだった。
嬉しかったけど、少し寂しかった。私たちがこの学校を旅立っていった後、この美術室はブルドーザーやショベルカーでぺしゃんこになる。私の抱えている葵への想いもきっと、一緒に土の下に埋めていくとになるんだと思った。それを受け入れられるかどうか、自信がなかった。
それから私たちは少し悪い子になった。旧校舎の空き教室を回っていろんなものを盗んで美術室に運び込んだ。小さな脚立を手に入れると、壁の上まで絵を描けるようになった。電気ポットを見つけたおかげで暖かい飲み物を飲めるようになった。先生が使う座り心地のいい椅子も拉致してきた。葵が足、私が背もたれを持って二人で一脚ずつ運んだ。まるで死体を運ぶギャングにでもなったような気分だった。窓にはめる古い形のクーラーは大きすぎて断念した。
私たちの場所がまた少し居心地の良いものになった。
ある日、葵が『家電の匂いがする~』と言って戸棚を開けると、そこにCDラジカセがあった。葵は家電に対するなんだか不思議な嗅覚があった。電気ポットも葵が見つけた戦利品だった。
ラジカセの中には教材用のつまらないCDしか入っていなかった。でもイヤフォンのコードが一緒になっていたので、携帯と繋げられると分かった。
葵がラジカセと携帯を繋いだ。少しするとラジカセの小さなスピーカーから切なげなピアノの旋律が流れてきた。夜を連想させる大人が聴くようなジャズだった。少し意外だった。もっと元気のある音楽を聴いていると思っていた。
葵は言った。
「歌詞がある曲って苦手なんだ。言葉と演奏が同時に入ってくると混乱しちゃう」
「これ何ていうアーティスト?」
「ビル・エヴァンス…これを聴きながらバスに乗るのが好き」
彼女はそう答えると、恥ずかしそうに携帯の角を撫でた。
私の知らない葵の一面が他にもいっぱいある。そうと思うと、それらを全部手で触ってみたいという衝動にかられた。イヤフォンをしながらバスに乗って窓の外を眺める葵。家に帰り、ベッドで眠る葵。私と二人きりでない時も、葵は呼吸をして何かを食べたり、驚いたり、感動したり、時に傷ついたりしている。全部ひとり占めしたい。ずっとずっと抱きしめていたい。欲張りな気持ち。
「泉…ちょっとそこ…くすぐったい」
「あっ…ごめん…」
私はいつのまにか葵の耳に触っていた。慌てて手を離す瞬間、葵の髪が少し指に触れた。さらさらとした心地よい感触が伝わってきた。
「いいよ…私髪が綺麗なのがちょっと自慢なんだ。たまに触らせてって言われるし…。泉はどんな曲聴くの?」
葵が手で耳の後ろの髪をとかしながら聞いてきた。
私はコードを差し替えて携帯を操作した。スローテンポのドラム、厚みのあるギターと、ちょっとラップ調の男性ボーカルが響き始めた。
「本当にこれ聴いてるの?」
「うん」
「泉がロック聴くなんて思わなかった。何ていうアーティスト?」
「レッド・ホット・チリ・ペッパーズっていうバンド…お父さんが好きでよく聴いてる」
「ホットドックみたいな名前だね」
そう言って葵は笑っていた。
その後何を話したのかは、ほとんど覚えていない。葵の髪の感触で頭がいっぱいになっていたから。
「もう一回髪、触っていい?」
私はまた一歩、葵に近づいた。
「たまになら、いいよ」
葵は許してくれた。
それから私たちは時々お互いの髪型を作るようになった。私たちは自然と髪を伸ばすようになった。葵の髪は綺麗だった。使っているシャンプーや髪を傷つけない髪留めを教えてもらった。
小さなお揃いがまた少し増えていった。
梅雨に私がそう言った。
「うん。気分がいい時は赤、駄目な時は緑。泉にもそういうのある?」
「あるよ。私は青が好き。嫌いな色は…黄色かな」
「じゃあ今日はちょっとイライラモード?」
「そう、だね」
「じゃあこれあげる」
葵はそう言って鞄からお菓子を取り出してきた。『おっとっと』だった。
「これ、食感も好きだけど、ネーミングセンスが抜群にすごいと思う。だって『おっとっと』だよ。転びそうな時に出るセリフじゃん。ふつう縁起悪そうだから付けないよ、こんな名前」
箱を開けながら葵はそう言った。そう言われてみると変な名前で面白いなと思ったちょっとふざけて『おっとっと』と口に出して言ってみた。葵が笑った。そして私の真似をしながら同じセリフを言った。私も笑った。お互いに笑かしあいながらお菓子の箱を空にした。
その日の帰り道、コンビニに寄った。
どんなお菓子を買っていってあげよう。
甘いものだったら葵は何が好きかな。
葵は何味が好きなんだろう。
葵は何て言ってくれるだろう。
葵は笑ってくれるかな。
そんなことを思うと、初めて葵の小説に自分の妄想を書き足した時の、あの胸のくすぐったさが蘇ってきた。体が小さくジャンプしてしまいそうになった。
その日の夜は明日がすごくすごく待ち遠しかった。
その日を境にラクガキスペースにはお菓子が置かれるようになった。
私たちはお互いをもっと知るようになった。
「葵の使ってるシャーペン。これすごく使いやすい。どこで買ったの?」
ある日、私が小説に落書きしながらそう聞くと、葵は文房具屋の場所を教えてくれた。
それから私も同じシャーペンを使うようになった。
「あちゃ~…。泉がいっつも黒い靴下履いてるのってこれが理由だったんだね」
ある日、葵が絵に落描きをしているとそう言った。葵の履いていた白い靴下に、絵の具が飛んでいた。
それから葵も黒い靴下を履いてくるようになった。
少しずつお揃いのものが増えていった。ラクガキを通してお互いの好きなこと嫌いなことを共有し合っていった。灰色の気持ちもお互いの作品にならぶつけることができた。
気分が悪い時、私は葵の書いた小説の主人公に容赦なく雨を降らせた。葵もイライラしている時は私の描いた絵の上に思いっきり緑色を広げた。それは誰かを殴ってストレス解消をするような尖った心地とは違っていた。裸の心を受け止めてもらえる安心感があった。
小説も絵もお互いの筆跡がぐちゃぐちゃに混ざり合っていった。それは奇妙な交換日記のようだった。
「何か悪いことをしよう」
夏の終わりに葵が言った。葵は時々、突拍子もない事を言う。でも私はそんな猫みたいな気まぐれさが好きだった。葵に振り回されるのは、二人で遊園地のコーヒーカップに乗っているようで楽しかった。
「壁に…落描きしてみたい」
そんな事を思いついた自分に少し驚いた。今までずっと小さなキャンバスにしか選んでこなかった。幼い頃から先生に怒られないように振る舞ってきた。はみ出す事が怖いと思っていた。
「おっ、いいねそれ!」
葵が目を輝かせてそう言った。
私たちはさっそく棚を移動して突き当りの壁をまっさらにした。
手を叩いてホコリを払いながら葵が言った。
「こういうのはやったもん勝ちだからさ。先生には言わずにやっちゃおう。どうせこの校舎壊しちゃうんだし、大目に見てくれるよきっと。事後承諾だ」
「ジゴショウダクってどういう意味?」
「やっちゃった後に許してくれ~って言うこと…かな」
「そうなんだ。難しい言葉知ってるなんて流石だね」
「ありがと…。でも最近よく考えるんだ。もし私が世界中の言葉を全部覚えたらって。そうしたら納得のいく小説が書けるようになるのかなって…。本当の気持ちを伝えられるのかなって…。多分出来ないと思う。そういうのとは違う気がする。うまく言えないけど…」
壁を撫でながら葵がそう言った。少し寂しげな横顔だった。
「それ、分かる気がする。私も写真みたいに正確に絵を描けるようになったら、どうなんだろうって、よく考えたりする…」
私もそう言って壁を指先で触ってみた。爬虫類の肌のようにデコボコな感触だった。
少し嘘をついた。絵が上手くなりたい。納得のいく絵を描けるようなりたい。その気持ちはあった。でもそれ以上に、葵と一緒にいたいという気持ちが絵を描く原動力になっていた。
初めてお互いの作品にラクガキし合った時のあの胸の高鳴りは、静まることなく私の中でくすぶり続けていた。そして時々、葵の見せる何気ない仕草を引き金に心の内側をどうしようもなく掻き毟っていた。葵の書いた文章に落書きするたび、私の描いた絵が落描きされるたび、体は熱病のように赤くなった。好きという気持ちは厚みを増していった。
その頃にはもうラクガキ用のキャンバスもノートも一杯になっていた。キャンバスは美術室の壁に、ノートは継ぎ足しの出来るリングファイルになった。私たちのラクガキは少し大きくなった。
私はハケを手に取って壁に最初の大きな絵を描いた。葵が最初に落描きしてくれたあのハートマークを描いた。今度は自分の好きな青色の絵の具を使った。
顧問の先生には思ったより怒られなかった。葵の言っていた通り、取り壊しの決まった校舎の壁という理由で大目にみてもらえた。私たち以外にもう部員は増えないことは、先生も感じているようだった。
嬉しかったけど、少し寂しかった。私たちがこの学校を旅立っていった後、この美術室はブルドーザーやショベルカーでぺしゃんこになる。私の抱えている葵への想いもきっと、一緒に土の下に埋めていくとになるんだと思った。それを受け入れられるかどうか、自信がなかった。
それから私たちは少し悪い子になった。旧校舎の空き教室を回っていろんなものを盗んで美術室に運び込んだ。小さな脚立を手に入れると、壁の上まで絵を描けるようになった。電気ポットを見つけたおかげで暖かい飲み物を飲めるようになった。先生が使う座り心地のいい椅子も拉致してきた。葵が足、私が背もたれを持って二人で一脚ずつ運んだ。まるで死体を運ぶギャングにでもなったような気分だった。窓にはめる古い形のクーラーは大きすぎて断念した。
私たちの場所がまた少し居心地の良いものになった。
ある日、葵が『家電の匂いがする~』と言って戸棚を開けると、そこにCDラジカセがあった。葵は家電に対するなんだか不思議な嗅覚があった。電気ポットも葵が見つけた戦利品だった。
ラジカセの中には教材用のつまらないCDしか入っていなかった。でもイヤフォンのコードが一緒になっていたので、携帯と繋げられると分かった。
葵がラジカセと携帯を繋いだ。少しするとラジカセの小さなスピーカーから切なげなピアノの旋律が流れてきた。夜を連想させる大人が聴くようなジャズだった。少し意外だった。もっと元気のある音楽を聴いていると思っていた。
葵は言った。
「歌詞がある曲って苦手なんだ。言葉と演奏が同時に入ってくると混乱しちゃう」
「これ何ていうアーティスト?」
「ビル・エヴァンス…これを聴きながらバスに乗るのが好き」
彼女はそう答えると、恥ずかしそうに携帯の角を撫でた。
私の知らない葵の一面が他にもいっぱいある。そうと思うと、それらを全部手で触ってみたいという衝動にかられた。イヤフォンをしながらバスに乗って窓の外を眺める葵。家に帰り、ベッドで眠る葵。私と二人きりでない時も、葵は呼吸をして何かを食べたり、驚いたり、感動したり、時に傷ついたりしている。全部ひとり占めしたい。ずっとずっと抱きしめていたい。欲張りな気持ち。
「泉…ちょっとそこ…くすぐったい」
「あっ…ごめん…」
私はいつのまにか葵の耳に触っていた。慌てて手を離す瞬間、葵の髪が少し指に触れた。さらさらとした心地よい感触が伝わってきた。
「いいよ…私髪が綺麗なのがちょっと自慢なんだ。たまに触らせてって言われるし…。泉はどんな曲聴くの?」
葵が手で耳の後ろの髪をとかしながら聞いてきた。
私はコードを差し替えて携帯を操作した。スローテンポのドラム、厚みのあるギターと、ちょっとラップ調の男性ボーカルが響き始めた。
「本当にこれ聴いてるの?」
「うん」
「泉がロック聴くなんて思わなかった。何ていうアーティスト?」
「レッド・ホット・チリ・ペッパーズっていうバンド…お父さんが好きでよく聴いてる」
「ホットドックみたいな名前だね」
そう言って葵は笑っていた。
その後何を話したのかは、ほとんど覚えていない。葵の髪の感触で頭がいっぱいになっていたから。
「もう一回髪、触っていい?」
私はまた一歩、葵に近づいた。
「たまになら、いいよ」
葵は許してくれた。
それから私たちは時々お互いの髪型を作るようになった。私たちは自然と髪を伸ばすようになった。葵の髪は綺麗だった。使っているシャンプーや髪を傷つけない髪留めを教えてもらった。
小さなお揃いがまた少し増えていった。
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