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通過点のつもりだったのに
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都会の夜は、思っていたほど眩しくなかった。
「──本日も、お疲れさま。リリア」
マダムがグラスを拭きながら、わたしの名前を呼ぶ。
本名じゃない。店に来てからもらった、商品名みたいな名前。
「はぁい。今日あと何人?」
「もう終わりよ。あんた今夜はよく働いたわ」
「いつもどおりじゃない?」
「いつもどおりで、ちゃんと指名が埋まるのが一番ありがたいの」
そう言ってマダムは、ぽん、と帳簿を閉じた。
中身は見せてもらえないけれど、
そこには田舎娘だった頃のわたしには想像もつかなかった金額が並んでいるのだろう。
それでも胸は特に動かない。
「部屋、戻っていい?」
「ええ。ただ──」
マダムは少しだけ声を落とした。
「例の人、また来てる」
「……例の人、って誰?」
「触らないあの人よ。ほら、あんたに散々喋らせて帰る妙な客」
ああ、とすぐ分かった。
「あの人、今日も?」
「ラウンジで飲んでる。帰り際に顔が見えればいいってさ。あんた人気者ねぇ、高級娼婦様」
「高級ってつけるのやめてよ。むずむずする」
「事実でしょうが。あんたの一時間の値札、知ってる?」
「知らない。知りたくもない」
値札を意識したら、きっと笑えなくなる。
わたしは鏡台の前に座って、結い上げた髪のピンを外した。
今日の髪型は、都会に来て一年目の頃のわたしだったら祭りの日でもやってもらえなかったような複雑さだ。
ざらついたピンが、一つずつ外れていく。
「ねえ、マダム」
「なに?」
「わたしさぁ、いつまでここにいるんだろうね」
「さあね。都会から逃げ出すまで?」
「逃げ出すって言い方、なんか嫌だな」
「じゃあ、飽きるまで。都会に」
「……それもなんか違う」
都会に憧れて飛び出してきたのは、たしかだ。
村の中だけじゃ世界が終わってしまう気がしたから。
畑と、同じ顔ぶれの家と、毎年同じ祭り。
それを悪いと思ったことは、一度もないのに。
「なにかを掴みたくて」、って言葉を使えば綺麗に収まる事なんだろうけど。
でも正直、わたしはまだそれがなんだったのか分かっていない。
「通過点よ、ここは」
マダムはあっさりと言った。
「みんなそう。ここで終わる子なんてほとんどいないわ」
「ふうん」
「嫁に行く子もいれば、商人と組んで自分の店持つ子もいる。お貴族様に身請けされる子も、ね」
「……身請けねえ」
どこかおとぎ話みたいな言葉だと思う。
昔、村の年上の女の子が憧れた目で噂話をしていた。
『娼婦さんってさ、最後は誰かに選ばれて幸せになるんだって』
その頃のわたしは、娼婦というものをよく知らなかったけれど、
「最後は誰かに選ばれる」という部分だけは妙に心に残った。
今は少し違う。
「選ばれたら幸せって、ほんとかな」
思わず口からこぼれる。
マダムは一瞬だけこちらを見て、
それから肩をすくめた。
「選ばれ方によるんじゃない?」
「そりゃねー」
「で、どうするの?あの触らない客。ほっとく?」
「あー……顔見て帰るだけでしょ?」
「そう言ってたけど?」
少し迷う。
仕事は終わり。化粧も落としたい。
でも、一瞬顔を見せるくらいならたいした手間じゃない。
何よりあの人は──
「じゃ、行ってくる」
「はいはい。冷やかしでも客は客だからね」
マダムに言われるまでもない。
客は客。
その線引きだけは、ここに来てから一度も崩したことがない。
◆
ラウンジは夜の最後の一息みたいな空気だった。
帰った客も多くて、照明も少し落ちている。
ソファ席にはそれぞれの女の子が、まだ帰りたくないらしい男の人たちを捕まえていた。
わたしを指名する客は、多くはない。
でも、一度ついた客の大半がもう一度来る。
マダム曰く、それが「高級娼婦」というラベルの理由だと。
──それ、つまり話し相手にされてるだけでは?
と内心で思っているけれど、黙っている。
お金になるならそれでいい。
問題の人はすぐに見つかった。
カウンターの端。
店の一番端っこでいつも通り一人でグラスを転がしている。
髪は整えられているけど、貴族ほどきっちりしていない。
良い布の、でも装飾の少ない服。
夜の店に場違いではないけれど、
派手さがない。
商人、だと聞いたことがある。
詳しいことは知らない。
「お疲れさまです」
声をかけると、彼は少しだけ驚いた顔をした。
「……ああ。仕事は?」
「終わりました。マダムから顔だけでも見せてきなさいって」
「それは、余計なことをさせてしまったかな」
彼は静かに笑った。
ここの客に多い、馴れ馴れしさはない。
でも、一定の距離を取るでもない。
「リリアさんはもう帰るところだった?」
「メイク落として、髪ほどいて、適当に何か食べて寝るところです」
「健全な娼婦の夜だね」
「こう見えて健康第一なんですよ」
肩をすくめると、彼はまた少しだけ笑った。
この人は、わたしの身体に一度も触れたことがない。
指名を取って部屋に上がっても、
いつも、ソファに腰かけて話をするだけ。
「お仕事の愚痴とか、聞きましょうか?」
と冗談めかして言ったら、
「君の話を聞きたい」と返された。
だから、結局わたしが喋ることになる。
村の話。
都会に来た話。
やりたい事はなく、漫然と過ごす日々の事。
道端で咲いた花が綺麗だった事。
ここで働き始めたときの話。
「君はここを“通過点”だと思っているんだろう?」
この前そう言われたときは、正直びくっとした。
「……よく覚えてますね」
「君が自分で言った」
「言いましたっけ」
「酔っていたのかな」
「飲ませたのはそっちですよ」
つい口が軽くなる。
この人と話しているときだけ、妙に。
「今日は村の話はしない?」
「ネタ切れしました。村なんてそんなにたくさん事件起きませんよ」
「それもそうだ」
彼はグラスを指で回しながら少し考えるような顔をした。
「じゃあ今日は都会の話をしてくれる?」
「都会の話、ですか」
「君にとっての都会の話。ここでの一年で何か掴めた?」
びく、と、また胸の奥が揺れた。
さっきマダムに話したばかりのことを、なぜかまた問われている。
「……掴めてたら、こんなところでまだ働いてないですよ」
冗談めかして言うと、彼は「そうかな」と首をかしげた。
「ここでしか掴めないものもあるだろう?」
「例えば?」
「君が君の値札をどう見るか、とか?」
「……それは、……見たくないですねぇ」
本音が素直に出る。
彼はわたしをからかうでも、慰めるでもなく、ただ頷いた。
「見たくないものを見ないで済ませられるのも大人の特権だ」
「大人の使い方間違ってません?」
「間違ってるかもしれない」
彼は苦笑してグラスの中身を飲み干した。
アルコールの匂いがふわりと立ち上る。
酔っているようには見えない。
「そろそろおいとましよう」
「お見送りします?」
「いい。君はもう仕事じゃない」
すっと立ち上がった彼は、会計を済ませに受付の方へ向かった。
その背中をなんとなく目で追ってしまう。
──救おうとしない人だなあ。
ふと、そんな言葉が浮かんだ。
「身請けしてやろうか」とか、
「こんなところから出してやる」とか、
そういう、いかにもな台詞はこの人から一度も出たことがない。
ただ、部屋のソファでわたしの話を聞いて、
たまに質問して、
たまに黙って、
時間が来たらきちんとお金を払って帰る。
それだけ。
「……変な人」
小さく呟いたとき、横から声が降ってきた。
「変だからこそ、高い金払ってもらえるんじゃないの」
振り向くと同僚の子が肘でつついてきた。
「なにそれ。どういう理屈?」
「触らないで帰る客っていうのがいるってだけで店の話題になるし、そういうのが好きな貴族もいるのよ。ここは品がいいって」
「それ、品の方向間違ってない?」
「間違ってても、金になるなら正解でしょ?」
さっぱりした笑顔で言われると、反論しにくい。
「ねえ、リリア」
「なに?」
「もしさ。もしの話だけど」
彼女は少しだけ、声を落とした。
「あの人が身請けしたいって言ってきたら、どうする?」
不意打ちみたいな問いだった。
「……ないでしょ、そんなの」
「ない前提なんだ」
「だって、あの人救おうって顔してないもん」
「救われたいの?」
「別に。通過点だし、ここ」
わざと軽く言う。
さっきマダムにも言った言葉だ。
ここは通過点。
都会にしがみつくための通り道。
行き先は知らない。
村娘から高級娼婦になった。
それだけ。
私はそれ以上でもそれ以下でもない。
「ふうん」
同僚はそれ以上何も言わなかった。
代わりにさっきの彼が出ていった扉の方を見てぽつりと漏らす。
「……でも、ああいう目つきの男の人ってさ。たまに本当に身請けしてくるからね」
「こわいこと言わないで」
「怖くないかもしれないでしょ?」
「かもしれないで身請けされても困る」
わたしがそう返すと彼女はクスクス笑った。
ラウンジの照明がまた少し落ちる。
夜がゆっくりと終わっていく気配。
誰かの奥さんになりたいわけでもなく。
誰かに救われたいわけでもなく。
それでも、都会にしがみつきたくて、
ここにいる。
でも場所に縋り付く意味は、日に日に薄れて生活に擦り切れる。
娼婦は、今だけのわたし。
──そのはずだったのに。
数日後、マダムに呼び出されて、
わたしはあっさりと言われることになる。
「リリア。あんた、身請けの話が来てるわよ」
通過点の出口は、思っていたより突然だった。
頭が、止まった。
「今、なんて?」
「身請け。あんたを店から出したいって人がいるの」
言い方があまりにも軽い。
村で噂に聞いていた、
あのおとぎ話みたいな言葉。
──誰それが身請けされて、
──商人の奥方になった。
聞く分にはきらきらしている話。
自分のことになると話は別だ。
「……どこの誰ですか」
「王都の商人。そこそこ名前は通ってる」
紙を、指先でとん、と叩く。
「金額もいい。店としては断る理由がない」
「店としては」
「そう。あんたとしてはどう?」
身請け。
ここを出る。
王都のどこかで別の暮らし。
考えたことがないわけじゃない。
でもそれは、
もっと先の話だと思っていた。
何か掴んでから。
自分で決めてから。
……その「何か」が、分からないままなのに。
「王都の家がいくつ建つかしらねえ」
マダムがかのんびり言う。
「少なくともあんたの村には何軒も…」
「その例えやめてください」
頭が少しくらくらする。
村の家が何軒も。
雨が降るたび桶を並べていたあの屋根。
わたしの値札。
「……わたしは、いくらなんですか」
気づけば聞いていた。
「教えないわよ」
即答だった。
「なんでですか」
「知ったら、私はこれだけって思うでしょ」
「もう思ってますけど」
マダムは少しだけ笑った。
「リリア。あんたここからどうするつもりだったの?」
「どう、って……」
「ずっと働くなら、悩まず断ればいい。
通り道だと思ってるなら、どこかで降りなさい」
通り道。
胸の奥が、ちくりとする。
「……通り道なら、出口は自分で選びたいです」
ぽろっと出た本音に、
マダムは少しだけ目を細めた。
「贅沢になったわね」
「王都に一年いれば、さすがに」
「ふうん」
帳簿の角を指で軽く叩く。
「返事は三日待つそうよ」
「三日……」
短い。
でも、考えるには十分すぎる。
「ただし」
声が少しだけ低くなる。
「断っても店は受けたい話よ」
「……脅しですか」
「現実」
あまりに率直で逆に笑ってしまった。
「分かりました。考えます」
「そうしなさい」
そして何気ない調子で付け足す。
「ちなみにね」
「はい?」
「その商人、触らない客だって」
「…………え」
間抜けな声が出た。
「あんたの部屋に来て話だけして帰る人」
頭の中にすぐ顔が浮かぶ。
魔晶灯の下で、
静かにグラスを転がしていた横顔。
「……なんでそこで繋がるんですか」
「さあ。あんたの話気に入ったんじゃない?」
マダムは楽しそうだ。
わたしはまったく楽しくない。
「身請けする顔してました?」
「身請けの顔ってどんな顔よ」
「もっと、救ってやるって感じの」
「そういう男はだいたい顔に出るわ」
マダムは少しだけ真顔になった。
「でもね。
救ってやるって思ってる男は身請けなんてしない」
「……じゃあ、どういう時に?」
「一緒にいたいって思った時」
それだけ言って帳簿を開いた。
部屋に戻る途中ラウンジを横切る。
片づけをしていた受付の子が声をかけてきた。
「あ、リリア。さっきの商人さん、今日も来てたよ」
「……そう」
「帰り際、ちょっと笑ってた」
「……そうですか」
部屋に戻り、扉を閉める。
ドレスを脱ぎ、髪をほどき、化粧を落とす。
鏡の中には、高級娼婦の顔。
村娘だった頃には、想像もできなかった顔だ。
「……身請け、ね」
呟いてみる。
怖いのか。
惜しいのか。
それとも、少しだけ期待しているのか。
自分でもまだ分からない。
ただひとつだけはっきりしている。
「……やっぱり変な人だな」
あの触らない客のことだった。
三日あれば、
少しくらいは考えられるだろうか。
「──本日も、お疲れさま。リリア」
マダムがグラスを拭きながら、わたしの名前を呼ぶ。
本名じゃない。店に来てからもらった、商品名みたいな名前。
「はぁい。今日あと何人?」
「もう終わりよ。あんた今夜はよく働いたわ」
「いつもどおりじゃない?」
「いつもどおりで、ちゃんと指名が埋まるのが一番ありがたいの」
そう言ってマダムは、ぽん、と帳簿を閉じた。
中身は見せてもらえないけれど、
そこには田舎娘だった頃のわたしには想像もつかなかった金額が並んでいるのだろう。
それでも胸は特に動かない。
「部屋、戻っていい?」
「ええ。ただ──」
マダムは少しだけ声を落とした。
「例の人、また来てる」
「……例の人、って誰?」
「触らないあの人よ。ほら、あんたに散々喋らせて帰る妙な客」
ああ、とすぐ分かった。
「あの人、今日も?」
「ラウンジで飲んでる。帰り際に顔が見えればいいってさ。あんた人気者ねぇ、高級娼婦様」
「高級ってつけるのやめてよ。むずむずする」
「事実でしょうが。あんたの一時間の値札、知ってる?」
「知らない。知りたくもない」
値札を意識したら、きっと笑えなくなる。
わたしは鏡台の前に座って、結い上げた髪のピンを外した。
今日の髪型は、都会に来て一年目の頃のわたしだったら祭りの日でもやってもらえなかったような複雑さだ。
ざらついたピンが、一つずつ外れていく。
「ねえ、マダム」
「なに?」
「わたしさぁ、いつまでここにいるんだろうね」
「さあね。都会から逃げ出すまで?」
「逃げ出すって言い方、なんか嫌だな」
「じゃあ、飽きるまで。都会に」
「……それもなんか違う」
都会に憧れて飛び出してきたのは、たしかだ。
村の中だけじゃ世界が終わってしまう気がしたから。
畑と、同じ顔ぶれの家と、毎年同じ祭り。
それを悪いと思ったことは、一度もないのに。
「なにかを掴みたくて」、って言葉を使えば綺麗に収まる事なんだろうけど。
でも正直、わたしはまだそれがなんだったのか分かっていない。
「通過点よ、ここは」
マダムはあっさりと言った。
「みんなそう。ここで終わる子なんてほとんどいないわ」
「ふうん」
「嫁に行く子もいれば、商人と組んで自分の店持つ子もいる。お貴族様に身請けされる子も、ね」
「……身請けねえ」
どこかおとぎ話みたいな言葉だと思う。
昔、村の年上の女の子が憧れた目で噂話をしていた。
『娼婦さんってさ、最後は誰かに選ばれて幸せになるんだって』
その頃のわたしは、娼婦というものをよく知らなかったけれど、
「最後は誰かに選ばれる」という部分だけは妙に心に残った。
今は少し違う。
「選ばれたら幸せって、ほんとかな」
思わず口からこぼれる。
マダムは一瞬だけこちらを見て、
それから肩をすくめた。
「選ばれ方によるんじゃない?」
「そりゃねー」
「で、どうするの?あの触らない客。ほっとく?」
「あー……顔見て帰るだけでしょ?」
「そう言ってたけど?」
少し迷う。
仕事は終わり。化粧も落としたい。
でも、一瞬顔を見せるくらいならたいした手間じゃない。
何よりあの人は──
「じゃ、行ってくる」
「はいはい。冷やかしでも客は客だからね」
マダムに言われるまでもない。
客は客。
その線引きだけは、ここに来てから一度も崩したことがない。
◆
ラウンジは夜の最後の一息みたいな空気だった。
帰った客も多くて、照明も少し落ちている。
ソファ席にはそれぞれの女の子が、まだ帰りたくないらしい男の人たちを捕まえていた。
わたしを指名する客は、多くはない。
でも、一度ついた客の大半がもう一度来る。
マダム曰く、それが「高級娼婦」というラベルの理由だと。
──それ、つまり話し相手にされてるだけでは?
と内心で思っているけれど、黙っている。
お金になるならそれでいい。
問題の人はすぐに見つかった。
カウンターの端。
店の一番端っこでいつも通り一人でグラスを転がしている。
髪は整えられているけど、貴族ほどきっちりしていない。
良い布の、でも装飾の少ない服。
夜の店に場違いではないけれど、
派手さがない。
商人、だと聞いたことがある。
詳しいことは知らない。
「お疲れさまです」
声をかけると、彼は少しだけ驚いた顔をした。
「……ああ。仕事は?」
「終わりました。マダムから顔だけでも見せてきなさいって」
「それは、余計なことをさせてしまったかな」
彼は静かに笑った。
ここの客に多い、馴れ馴れしさはない。
でも、一定の距離を取るでもない。
「リリアさんはもう帰るところだった?」
「メイク落として、髪ほどいて、適当に何か食べて寝るところです」
「健全な娼婦の夜だね」
「こう見えて健康第一なんですよ」
肩をすくめると、彼はまた少しだけ笑った。
この人は、わたしの身体に一度も触れたことがない。
指名を取って部屋に上がっても、
いつも、ソファに腰かけて話をするだけ。
「お仕事の愚痴とか、聞きましょうか?」
と冗談めかして言ったら、
「君の話を聞きたい」と返された。
だから、結局わたしが喋ることになる。
村の話。
都会に来た話。
やりたい事はなく、漫然と過ごす日々の事。
道端で咲いた花が綺麗だった事。
ここで働き始めたときの話。
「君はここを“通過点”だと思っているんだろう?」
この前そう言われたときは、正直びくっとした。
「……よく覚えてますね」
「君が自分で言った」
「言いましたっけ」
「酔っていたのかな」
「飲ませたのはそっちですよ」
つい口が軽くなる。
この人と話しているときだけ、妙に。
「今日は村の話はしない?」
「ネタ切れしました。村なんてそんなにたくさん事件起きませんよ」
「それもそうだ」
彼はグラスを指で回しながら少し考えるような顔をした。
「じゃあ今日は都会の話をしてくれる?」
「都会の話、ですか」
「君にとっての都会の話。ここでの一年で何か掴めた?」
びく、と、また胸の奥が揺れた。
さっきマダムに話したばかりのことを、なぜかまた問われている。
「……掴めてたら、こんなところでまだ働いてないですよ」
冗談めかして言うと、彼は「そうかな」と首をかしげた。
「ここでしか掴めないものもあるだろう?」
「例えば?」
「君が君の値札をどう見るか、とか?」
「……それは、……見たくないですねぇ」
本音が素直に出る。
彼はわたしをからかうでも、慰めるでもなく、ただ頷いた。
「見たくないものを見ないで済ませられるのも大人の特権だ」
「大人の使い方間違ってません?」
「間違ってるかもしれない」
彼は苦笑してグラスの中身を飲み干した。
アルコールの匂いがふわりと立ち上る。
酔っているようには見えない。
「そろそろおいとましよう」
「お見送りします?」
「いい。君はもう仕事じゃない」
すっと立ち上がった彼は、会計を済ませに受付の方へ向かった。
その背中をなんとなく目で追ってしまう。
──救おうとしない人だなあ。
ふと、そんな言葉が浮かんだ。
「身請けしてやろうか」とか、
「こんなところから出してやる」とか、
そういう、いかにもな台詞はこの人から一度も出たことがない。
ただ、部屋のソファでわたしの話を聞いて、
たまに質問して、
たまに黙って、
時間が来たらきちんとお金を払って帰る。
それだけ。
「……変な人」
小さく呟いたとき、横から声が降ってきた。
「変だからこそ、高い金払ってもらえるんじゃないの」
振り向くと同僚の子が肘でつついてきた。
「なにそれ。どういう理屈?」
「触らないで帰る客っていうのがいるってだけで店の話題になるし、そういうのが好きな貴族もいるのよ。ここは品がいいって」
「それ、品の方向間違ってない?」
「間違ってても、金になるなら正解でしょ?」
さっぱりした笑顔で言われると、反論しにくい。
「ねえ、リリア」
「なに?」
「もしさ。もしの話だけど」
彼女は少しだけ、声を落とした。
「あの人が身請けしたいって言ってきたら、どうする?」
不意打ちみたいな問いだった。
「……ないでしょ、そんなの」
「ない前提なんだ」
「だって、あの人救おうって顔してないもん」
「救われたいの?」
「別に。通過点だし、ここ」
わざと軽く言う。
さっきマダムにも言った言葉だ。
ここは通過点。
都会にしがみつくための通り道。
行き先は知らない。
村娘から高級娼婦になった。
それだけ。
私はそれ以上でもそれ以下でもない。
「ふうん」
同僚はそれ以上何も言わなかった。
代わりにさっきの彼が出ていった扉の方を見てぽつりと漏らす。
「……でも、ああいう目つきの男の人ってさ。たまに本当に身請けしてくるからね」
「こわいこと言わないで」
「怖くないかもしれないでしょ?」
「かもしれないで身請けされても困る」
わたしがそう返すと彼女はクスクス笑った。
ラウンジの照明がまた少し落ちる。
夜がゆっくりと終わっていく気配。
誰かの奥さんになりたいわけでもなく。
誰かに救われたいわけでもなく。
それでも、都会にしがみつきたくて、
ここにいる。
でも場所に縋り付く意味は、日に日に薄れて生活に擦り切れる。
娼婦は、今だけのわたし。
──そのはずだったのに。
数日後、マダムに呼び出されて、
わたしはあっさりと言われることになる。
「リリア。あんた、身請けの話が来てるわよ」
通過点の出口は、思っていたより突然だった。
頭が、止まった。
「今、なんて?」
「身請け。あんたを店から出したいって人がいるの」
言い方があまりにも軽い。
村で噂に聞いていた、
あのおとぎ話みたいな言葉。
──誰それが身請けされて、
──商人の奥方になった。
聞く分にはきらきらしている話。
自分のことになると話は別だ。
「……どこの誰ですか」
「王都の商人。そこそこ名前は通ってる」
紙を、指先でとん、と叩く。
「金額もいい。店としては断る理由がない」
「店としては」
「そう。あんたとしてはどう?」
身請け。
ここを出る。
王都のどこかで別の暮らし。
考えたことがないわけじゃない。
でもそれは、
もっと先の話だと思っていた。
何か掴んでから。
自分で決めてから。
……その「何か」が、分からないままなのに。
「王都の家がいくつ建つかしらねえ」
マダムがかのんびり言う。
「少なくともあんたの村には何軒も…」
「その例えやめてください」
頭が少しくらくらする。
村の家が何軒も。
雨が降るたび桶を並べていたあの屋根。
わたしの値札。
「……わたしは、いくらなんですか」
気づけば聞いていた。
「教えないわよ」
即答だった。
「なんでですか」
「知ったら、私はこれだけって思うでしょ」
「もう思ってますけど」
マダムは少しだけ笑った。
「リリア。あんたここからどうするつもりだったの?」
「どう、って……」
「ずっと働くなら、悩まず断ればいい。
通り道だと思ってるなら、どこかで降りなさい」
通り道。
胸の奥が、ちくりとする。
「……通り道なら、出口は自分で選びたいです」
ぽろっと出た本音に、
マダムは少しだけ目を細めた。
「贅沢になったわね」
「王都に一年いれば、さすがに」
「ふうん」
帳簿の角を指で軽く叩く。
「返事は三日待つそうよ」
「三日……」
短い。
でも、考えるには十分すぎる。
「ただし」
声が少しだけ低くなる。
「断っても店は受けたい話よ」
「……脅しですか」
「現実」
あまりに率直で逆に笑ってしまった。
「分かりました。考えます」
「そうしなさい」
そして何気ない調子で付け足す。
「ちなみにね」
「はい?」
「その商人、触らない客だって」
「…………え」
間抜けな声が出た。
「あんたの部屋に来て話だけして帰る人」
頭の中にすぐ顔が浮かぶ。
魔晶灯の下で、
静かにグラスを転がしていた横顔。
「……なんでそこで繋がるんですか」
「さあ。あんたの話気に入ったんじゃない?」
マダムは楽しそうだ。
わたしはまったく楽しくない。
「身請けする顔してました?」
「身請けの顔ってどんな顔よ」
「もっと、救ってやるって感じの」
「そういう男はだいたい顔に出るわ」
マダムは少しだけ真顔になった。
「でもね。
救ってやるって思ってる男は身請けなんてしない」
「……じゃあ、どういう時に?」
「一緒にいたいって思った時」
それだけ言って帳簿を開いた。
部屋に戻る途中ラウンジを横切る。
片づけをしていた受付の子が声をかけてきた。
「あ、リリア。さっきの商人さん、今日も来てたよ」
「……そう」
「帰り際、ちょっと笑ってた」
「……そうですか」
部屋に戻り、扉を閉める。
ドレスを脱ぎ、髪をほどき、化粧を落とす。
鏡の中には、高級娼婦の顔。
村娘だった頃には、想像もできなかった顔だ。
「……身請け、ね」
呟いてみる。
怖いのか。
惜しいのか。
それとも、少しだけ期待しているのか。
自分でもまだ分からない。
ただひとつだけはっきりしている。
「……やっぱり変な人だな」
あの触らない客のことだった。
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少しくらいは考えられるだろうか。
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