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第1章 空の旅路へ
第5話
しおりを挟む夜の工房は、静かだった。
星の光だけが、薄暗い室内をほのかに照らしている。
トレインは、小さなランプの灯りのもと、自分の浮遊艇を丁寧に磨いていた。
それはタイヤを持たない、流線型の細身の乗り物だった。
形だけ見れば、どこか獣のような躍動感を孕んでいる。
硬質なフレームは村の漂流島から採取した軽量合金で組まれ、動力核には、エアリアの神核由来の“風魔結晶”が嵌め込まれている。
個人用の小型浮遊艇には、『エアライド』という正式な呼び名がついている。
だが、トレインはこの愛機に、自分だけの名を贈っていた。
「――《スウィフトウィング》」
速さを、翼に。
自由を、空に。
そんな願いを込めて、自作の艇にその名をつけた。
作り方はすべて、ダリオンに教わっていた。
フレームの溶接。風魔結晶の接続。風圧制御装置(エア・スタビライザー)の調整。
何度も失敗し、何度も怒鳴られ、それでも手を動かして作り上げた、世界でたった一つの乗り物。
トレインは、布を使って《スウィフトウィング》の風受け板を丹念に磨いた。
金属の肌が、ランプの光を浴びてほのかに輝く。
彼の指先が、震える。
期待と、不安と、ほんの少しの誇らしさが、胸いっぱいに膨らんでいた。
浮遊艇が浮かび上がるのは、エアリアの神核から流れる「風の魔力」を呼び起こすからだ。
地脈を走る風の記憶と共鳴し、空気を押し下げることで浮力を得る――
それは科学ではなく、祈りにも似た力である。
スカイランナーになるということは、すなわち、
この世界に満ちた“見えない風の意志を信じる者になる“ということだった。
トレインはそっと手を止めた。
手のひらを《スウィフトウィング》の風魔結晶に当てる。
ほんの微かな振動が、指先に伝わった。
まるで、艇が呼吸をしているかのようだった。
「あと、もう少しだけだな」
自分に言い聞かせるように、トレインは小さくつぶやいた。
あと2日。
風裂祭の開幕。
スカイタウンの高空に挑む時。
その時、自分のすべてをこの艇に預ける。
空を割る風の中で、自らの名を、声を、刻むために。
トレインはランプの火を細めながら、最後の仕上げを進めた。
ねじれた風受け板を微調整し、エアスタビライザーの出力をチェックし、搭載用の小型風鈴をハンドル近くに取り付けた。
風鈴は、小さなものだった。
幼い頃、リリムと拾った欠けた風見鳥のかけら。
それを細工して作った、世界にひとつだけの守りの鈴。
空を駆けるとき、鈴が鳴る。
風を受け、空を読め、と教えてくれるように。
トレインは手を止め、ゆっくりと深呼吸をした。
夜のアストリア。
どこまでも澄んだ星の海の下で、少年はひとり、夢の翼を磨き続けた。
朝が、来た。
まだ陽も昇りきらない灰色の空の下、アストリアの村は、静かに呼吸していた。
霧が、草原を薄く覆い、風がその上を滑っていく。
村の風鈴たちは、かすかな音を立てて、夜と朝との境界線をなぞっていた。
トレインは、工房の前に立っていた。
背には、手作りの浮遊艇《スウィフトウィング》。
胸には、張り裂けそうな鼓動。
すべては、今日のためだった。
工房の扉が軋み、ダリオンが顔を出した。
「トレイン」
低く、静かな声だった。
それだけで、トレインはすべてを理解した。
行け、——と。
胸を張って飛んでいけ、と。
トレインは一度だけ軽く頭を下げた。
言葉はいらなかった。
空は、すでに、彼を待っていた。
丘を駆け上がる。
まだ湿り気を帯びた朝の空気が、頬を打つ。
リリムが、丘の上で手を振っていた。
彼女は何も言わなかった。ただ、小さな笑顔を、トレインに向けた。
それだけで、十分だった。
トレインは《スウィフトウィング》にまたがり、風魔結晶に手をかざした。
結晶が微かに震え、艇全体がふわりと宙に浮かび上がる。
その瞬間、すべての音が、遠ざかった。
風の音だけが、耳に残る。
トレインはそっと目を閉じた。
空は広い。
恐ろしく広い。
けれど、怖くない。
胸の奥で、風が呼んでいた。
「行こう」
トレインは小さく呟き、ハンドルを握りしめた。
エアスタビライザーが風を捉え、《スウィフトウィング》は加速する。
霧の海を突き抜け、斜面を駆け上がり、
重力の流れをほどく——
草原が揺れる。
浮き上がる機体が地面スレスレの影を掴んだまま、エンジン音が空に放たれた。
村が遠ざかる。
緑の草原も、木立も、幼い日々の思い出も、すべて小さな点になっていく。
だが、心は軽かった。
目の前に広がるのは、ただ無限の空。
高く。
遠く。
自由に。
漂流島をすり抜け、風脈を辿り、空の海を翔ける。
雲の合間から、初めて見るスカイタウンの尖塔が、金色に光を放っていた。
胸が震えた。
これが、——空。
昔から慣れ親しんだこの景色も、今日だけは一味違った。
《スウィフトウィング》の風鈴が、かすかに鳴った。
ひとつだけの音、——雲間へと突き進んでいく確かな軌跡が、空へと溶けていった。
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