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タクシー代は授業料

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2024年4月13日、22時32分。

遅番の仕事を終えた石川光太郎は、会社の向かいにある有料駐車場に停めた愛車へ乗り込んだ。

「あ、やべぇ」

光太郎はカバンの中身をひっくり返したが、大事なものが入っていないことに気付いた。

「財布がない…」

スマホケースには常に運転免許証を入れているため道路交通法違反は免れたが、クレジットカードや現金は全て財布の中にあるため、駐車場から出ることができなくなってしまった。
最寄り駅までは徒歩35分。モバイルICカードはスマホにインストールされているものの、仕事で疲れ切った光太郎にはそこまで歩く気力は残っていない。「陸の孤島」と呼ばれるこの地域では、歩く以外に帰る方法はないのだ。

「あ、もしもし。俺、リビングに財布置きっぱなしだった?」

光太郎は妻の麗子に電話をかけた。

「ちょっと待ってね…あ!あるわ。駐車場から出られなくなっちゃったの?タクシー呼んだらどう?支払いは家の前で私がするから大丈夫よ」

いつも冷静な麗子は焦る光太郎とは対照的に、すぐに解決策を思いついた。

「そうする。ありがとう。遅くなっちゃうけど、ごめんね」

「はぁ…」

大きくため息をついた光太郎は、藁にもすがる思いでタクシー会社に電話をした。

「お電話ありがとうございます、通葉タクシーでございます」

電話に出た老齢と思しき女性によると、光太郎がいる場所まで15分ほどでタクシーが来るらしい。

「それでよろしくお願いします。夜分にすみませんね」

光太郎は向かいにあるスーパーの脇でタクシーを待った。





「石川さん?通葉タクシーです」

明るい声で光太郎を呼ぶのは、通葉タクシーのベテラン運転手、高橋文人(たかはし・ふみひと)だった。

車に乗り込む光太郎。自分の不注意が情けなく、運転手に愚痴を漏らした。

「財布を忘れちゃって有料駐車場から出られなくなったちゃったんです。ほんとに最近ぼーっとしてて自分のことが嫌になります」

「石川さん、そんな人はたくさんいるよ。今日の夕方も、同じような人が乗ってきたんだ」

高橋によると今日乗車したのは老夫婦で、海外旅行に出掛けるために空港まで来たのだが、パスポートを忘れたことに気が付き、自宅へ取りに帰りたいと滝のような汗をかきながら大声で騒いだそうだ。

「ボクはタクシーの運転を30年やってるけど、毎年そんな人を乗せてるよ。石川さんが特別ぼーっとしてるわけじゃないとボクは思うよ」

タクシーの運転手と客。初対面であり、さらに今後会うこともないと思うと、光太郎は身の上話をたくさんしたくなった。

「私は塾の講師なんですが、なかなか生徒の成績が上がらなくて。上がったとしても『それは生徒が頑張ったからで、君の功績ではない』って部外者からよく言われて」

「でも、子どもさんたちと話してると、色々勉強になるでしょう。ボクも色々なお客さんを乗せるからね、本当に色々な立場の人をね。だから本当に勉強になる。例えば…」

様々な乗客の話をする高橋。

「あのさ、うちの息子がね」

高橋が自身のことを話し始めた。

「うちのバカ息子、市内でケーキ屋やってたんだけど、急に2号店を出すって言ってたくさん借金をして、全然お客さんが来ないから倒産したんだよ」

高橋は、一切息子には資金援助をしなかったと言う。今では音信不通で、生きているのかどうかすらも全くわからない状態らしい。

「あいつに比べたら、石川さんはちゃんと考えて生きてる。あなたの人生は必ずいい方向に進むはずだよ。生徒さんたちもきっと石川先生についていけば大丈夫って確信して授業を受けてるよ」

高橋がそう言うとまもなく、タクシーが光太郎の自宅に到着した。

「ありがとうございますぅ」

光太郎の妻の麗子が玄関から出てきた。

「高橋さん、ありがとう!また乗せてください」

タクシー代は深夜料金で3800円。
痛い出費だが、高橋先生の18分間の名講義の料金と考えると、不思議と悔しさが消えていった。
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