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Nail Excellent
第一話
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「はぁ……」
統太は小さくため息をつき、続けて心の中で(疲れた)と呟いた。さすがに新入社員が職場で疲れたとまで言葉に出しにくい。自然に胸の中に言葉を留めるとカバンから資料やメモを取り出し、日報を書くためにパソコンを開く。
パソコンが立ち上がるわずかな間にふと自分の手に目をやる。指先はまだかろうじて柔らかいが爪の脇はカサカサと固くなり始めていた。気になって爪で引っ掻いていると
「売谷、営業マンは指先の印象も大切なんだよ、知ってるか?」
と、ちょうど後ろを通りかかった先輩に言われた。
「そう……なんですね」
「高額商品を扱ってるんだから、相手もきちんとしてる人が多いだろ」
「はぁ……」
とあやふやな返事をし、ささくれができそうな指を見つめた。
「おい、聞いてるか?」
「あ、はい。聞いてます。どうやって綺麗にするのかなって」
先輩はこちらに近づきながら
「俺はネイルサロンでやってもらってる。いいだろ」
手をぐっと統太の目の前に差し出してきた。よく分からないけどなんとなくすっきりしていて、自分の手と比べると何かが違うように見えた。
「わかりました、僕も綺麗にしてきます」
男でもネイルサロン行くんだ。自分には関係ない世界だと思っていた。
「あの人新人にはいつも手を自慢して見せるの。でも、新人は疲れてるから自分と同じようにネイルサロンにでも行って癒してもらえっていう意味もあると思うんだ」
向かいに座っている女性の先輩がネイルサロンを探すアプリを教えてくれる。その指先もシンプルだけどきれいにネイルが施されていた。
アプリで調べてみると統太の自宅近くにネイルサロンがあることがわかった。すぐにウェブ予約をし、日報を送るとパソコンの電源を落として会社を出た。
ネイルサロンって女性が行くところだと思っていたから緊張する。統太は自宅の最寄り駅で電車を降りた。
いつも通っているのに存在に全く気付かなかった。一瞬通り過ぎてしまいそうになってから扉の前で立ち止まる。見た目は小さなカフェか美容院のようで白い壁に木の扉、小さなアイアン製の看板が付いていた。
Nail Excellent
そっと扉を開けると柑橘系の香りが統太と入れ替わり外へ出ていく。
「いらっしゃいませ」
他のお客さんを見送ろうとしている女性スタッフがにこやかにこちらを見た。
「あの、予約した売谷です」
帰り際の女性にちらりと視線を送られ、統太の緊張はますます高まる。
「いらっしゃいませ」
奥から細身で背の高い男性が現れ、ホットミルクのような声を出した。
「売谷統太さまですね。こちらにどうぞ」
男の人? と、統太は少し戸惑いながら案内された正面の小さな部屋に入った。
「上着を脱ぎますか? シワになるといけないので」
「あ、はい、お願いします」
え? この人がネイルやるの? と、思いながらその横顔を見つめた。男性は上着を脱ぐのを手伝いハンガーに丁寧にかけた。
「どうぞお掛けください。担当させていただきます、釘秀馨です。もう一人のネイリストは姉なので下の名前で呼んでください。よろしくお願いします」
澄んだ瞳に視線をつかまれた瞬間、肋骨の下でドキンと音がした。本当に心臓ってこうやって鳴るんだ! っていうか、なんだよ今のドキンって。担当っていったよね、この人本当にネイリストなんだ……。統太は動揺を隠すように慌てて言葉を発した。
「指がカサカサなんです。ささくれも出来てて。綺麗になりますか」
恥ずかしいと思いながら手を差し出す。馨はマスクをしてから手を消毒して、統太の両手を下からそっと支え柔らかい台の上に置いた。
「少し乾燥してますけど大丈夫ですよ。綺麗になります」
馨はにっこり笑うと統太の手も消毒し、電気の点いた電子レンジみたいな箱から道具を取出してテーブルの脇に揃えた。
「爪の長さと形を整えますね。普段は爪切りで切りますか?」
「はい、爪切りで」
「お店ではファイルというヤスリで短くしたり整えたりするんですけど、使ったことありますか?」
「いや、ないですねー。爪切りの裏側に付いてるアレなら使ったことあるかな」
「あれ、ほとんど削れませんよね~」
「ですよね~」
目を合わせて笑って統太の緊張は少し和らいだ。
「すぐにささくれが出来るのは、なんでですか」
「ささくれは乾燥が原因なんです。出来れば乾く前にオイルとかクリームで保湿するといいですよ。寝る前とかも」
ほかにも爪は三層から成っていて爪切りで切ると断面が荒れるとか爪は一ヶ月で三ミリくらい伸びるとか説明してくれた。その間も手は止まらずファイルで爪先がきれいに丸く整っていく。指とファイルが踊るようにシャッシャッとリズムよく動いている。片方の爪が終わると
「こちらのお湯に指先を浸けてくださいね、柔らかくしてお手入れしやすくします」
指先だけお湯に浸る形の容器に手を誘導され、そこに指を入れると暖かくてほっとした。お湯には何か色が付いているけどなんだろう。すっかり気分が落ち着いた統太はもう片方の手の爪を整えている馨に質問した。
「なんでお湯に色がついているんですか?」
「入浴剤みたいなものです。発泡するので血行をよくしたり少し香りもあるから癒し効果もあるのかなぁ」
その間も手の動きは止まらない。そしてあっという間に両手の爪が整った。
「今度はこちらの手を出してもらって反対の手をお湯に浸けますね。では爪周りを押すのでもし痛かったりしたら言ってください」
爪の根元に液体を塗り、金属のへらみたいなものでそっと爪の周りから付け根のあたりをこするように動かすと何かが白く浮き上がってきた。
「なんですかそれ?」
興味津々で覗き込むと
「これは爪が伸びてくる時に一緒に伸びてくる薄い皮で、あっても困らないんですけど、なくなるとすごくスッキリするんですよ」
手を動かしながら馨は爪や指先について悩んでいることや希望を丁寧に聞き取り、それについて一つ一つ説明しながら施術をしていく。
ネイルは初めてで言葉が出てこない統太を上手くリードして必要なことを聞き出す。饒舌ではないが話し上手。静かに無駄なことを話さない。こんな風にお客さんと話せるといいなと思いながら、統太はあれこれ思いついたことを口にした。
「お客さんに手を見られるから綺麗にした方がいいって先輩にお手入れを薦められて来たんです、初めてで緊張してたんですよ」
「男性はなかなか入りにくいですよね、こういうところ」
「ほんとですね、今日まで無縁な場所だと思ってました」
「きっかけがあってよかったです。では次に余分なところを取りますね」
馨は自分の指先に布のようなものを巻き、爪の根元を拭き取りながらニッパーで何かを摘まみ取っている。一本終わると見せてくれて
「こんな感じにすっきりします、ささくれも根元からカットしました」
「なんだかわからないけど、すごいきれいになってる!」
統太が喜んでいるのを見て馨は目を細めると、また下を向いて器用に両指を動かしていく。統太は指の動きに目を取られていたけれど、だんだん指そのものに視線が移っていった。
きれいな指先、細くなく太くなくバランスが良い手の形だなぁと思いながらぼんやりと見ている。柔らかく触れられるのと穏やかな声とで、統太は眠くなってきた。
寝てはいけないと手から顔に目を移した。馨は下を向いて作業していて目が合うことも無いからついじっと見てしまう。伏せたまつ毛が濃く切れ長の一重をきれいに縁取っている。
ふいに顔をあげた時に目が合うとニッコリ微笑まれてまた心臓が鳴った。ふわふわと動く少し長めの髪は、男性らしさを隠していない。統太はいつの間にかじっと見つめていた。
「どうですか? きれいになったと思います」
馨の声で我に返った。
「わ! 自分の指じゃないみたい……スッキリしましたね。きれい」
いつの間にか統太の指先や爪は見違えるように整えられている。
「最後にオイルを付けますね」
爪の根元に一滴ずつオイルを垂らされると、ここに入ってきた時の柑橘系の香りがした。そのオイルを丁寧にマッサージするように馴染ませて終了。
「お疲れ様でした」
「ありがとうございます!」
来た時とは別物みたいになった指先。統太は目の前でヒラヒラ手を動かしながらいい香りを楽しんだ。
その場で会計を済ませると名刺を差し出された。
「またよろしくお願いします」
その名刺を両手で受け取り、触れた指先を意識して少し上ずった声になった。
「はい、また来ます」
釘秀馨さん、きれいな名前だな。次は指名して来よう、と統太は心に決めて丁寧に名刺入れに収めた。
統太は小さくため息をつき、続けて心の中で(疲れた)と呟いた。さすがに新入社員が職場で疲れたとまで言葉に出しにくい。自然に胸の中に言葉を留めるとカバンから資料やメモを取り出し、日報を書くためにパソコンを開く。
パソコンが立ち上がるわずかな間にふと自分の手に目をやる。指先はまだかろうじて柔らかいが爪の脇はカサカサと固くなり始めていた。気になって爪で引っ掻いていると
「売谷、営業マンは指先の印象も大切なんだよ、知ってるか?」
と、ちょうど後ろを通りかかった先輩に言われた。
「そう……なんですね」
「高額商品を扱ってるんだから、相手もきちんとしてる人が多いだろ」
「はぁ……」
とあやふやな返事をし、ささくれができそうな指を見つめた。
「おい、聞いてるか?」
「あ、はい。聞いてます。どうやって綺麗にするのかなって」
先輩はこちらに近づきながら
「俺はネイルサロンでやってもらってる。いいだろ」
手をぐっと統太の目の前に差し出してきた。よく分からないけどなんとなくすっきりしていて、自分の手と比べると何かが違うように見えた。
「わかりました、僕も綺麗にしてきます」
男でもネイルサロン行くんだ。自分には関係ない世界だと思っていた。
「あの人新人にはいつも手を自慢して見せるの。でも、新人は疲れてるから自分と同じようにネイルサロンにでも行って癒してもらえっていう意味もあると思うんだ」
向かいに座っている女性の先輩がネイルサロンを探すアプリを教えてくれる。その指先もシンプルだけどきれいにネイルが施されていた。
アプリで調べてみると統太の自宅近くにネイルサロンがあることがわかった。すぐにウェブ予約をし、日報を送るとパソコンの電源を落として会社を出た。
ネイルサロンって女性が行くところだと思っていたから緊張する。統太は自宅の最寄り駅で電車を降りた。
いつも通っているのに存在に全く気付かなかった。一瞬通り過ぎてしまいそうになってから扉の前で立ち止まる。見た目は小さなカフェか美容院のようで白い壁に木の扉、小さなアイアン製の看板が付いていた。
Nail Excellent
そっと扉を開けると柑橘系の香りが統太と入れ替わり外へ出ていく。
「いらっしゃいませ」
他のお客さんを見送ろうとしている女性スタッフがにこやかにこちらを見た。
「あの、予約した売谷です」
帰り際の女性にちらりと視線を送られ、統太の緊張はますます高まる。
「いらっしゃいませ」
奥から細身で背の高い男性が現れ、ホットミルクのような声を出した。
「売谷統太さまですね。こちらにどうぞ」
男の人? と、統太は少し戸惑いながら案内された正面の小さな部屋に入った。
「上着を脱ぎますか? シワになるといけないので」
「あ、はい、お願いします」
え? この人がネイルやるの? と、思いながらその横顔を見つめた。男性は上着を脱ぐのを手伝いハンガーに丁寧にかけた。
「どうぞお掛けください。担当させていただきます、釘秀馨です。もう一人のネイリストは姉なので下の名前で呼んでください。よろしくお願いします」
澄んだ瞳に視線をつかまれた瞬間、肋骨の下でドキンと音がした。本当に心臓ってこうやって鳴るんだ! っていうか、なんだよ今のドキンって。担当っていったよね、この人本当にネイリストなんだ……。統太は動揺を隠すように慌てて言葉を発した。
「指がカサカサなんです。ささくれも出来てて。綺麗になりますか」
恥ずかしいと思いながら手を差し出す。馨はマスクをしてから手を消毒して、統太の両手を下からそっと支え柔らかい台の上に置いた。
「少し乾燥してますけど大丈夫ですよ。綺麗になります」
馨はにっこり笑うと統太の手も消毒し、電気の点いた電子レンジみたいな箱から道具を取出してテーブルの脇に揃えた。
「爪の長さと形を整えますね。普段は爪切りで切りますか?」
「はい、爪切りで」
「お店ではファイルというヤスリで短くしたり整えたりするんですけど、使ったことありますか?」
「いや、ないですねー。爪切りの裏側に付いてるアレなら使ったことあるかな」
「あれ、ほとんど削れませんよね~」
「ですよね~」
目を合わせて笑って統太の緊張は少し和らいだ。
「すぐにささくれが出来るのは、なんでですか」
「ささくれは乾燥が原因なんです。出来れば乾く前にオイルとかクリームで保湿するといいですよ。寝る前とかも」
ほかにも爪は三層から成っていて爪切りで切ると断面が荒れるとか爪は一ヶ月で三ミリくらい伸びるとか説明してくれた。その間も手は止まらずファイルで爪先がきれいに丸く整っていく。指とファイルが踊るようにシャッシャッとリズムよく動いている。片方の爪が終わると
「こちらのお湯に指先を浸けてくださいね、柔らかくしてお手入れしやすくします」
指先だけお湯に浸る形の容器に手を誘導され、そこに指を入れると暖かくてほっとした。お湯には何か色が付いているけどなんだろう。すっかり気分が落ち着いた統太はもう片方の手の爪を整えている馨に質問した。
「なんでお湯に色がついているんですか?」
「入浴剤みたいなものです。発泡するので血行をよくしたり少し香りもあるから癒し効果もあるのかなぁ」
その間も手の動きは止まらない。そしてあっという間に両手の爪が整った。
「今度はこちらの手を出してもらって反対の手をお湯に浸けますね。では爪周りを押すのでもし痛かったりしたら言ってください」
爪の根元に液体を塗り、金属のへらみたいなものでそっと爪の周りから付け根のあたりをこするように動かすと何かが白く浮き上がってきた。
「なんですかそれ?」
興味津々で覗き込むと
「これは爪が伸びてくる時に一緒に伸びてくる薄い皮で、あっても困らないんですけど、なくなるとすごくスッキリするんですよ」
手を動かしながら馨は爪や指先について悩んでいることや希望を丁寧に聞き取り、それについて一つ一つ説明しながら施術をしていく。
ネイルは初めてで言葉が出てこない統太を上手くリードして必要なことを聞き出す。饒舌ではないが話し上手。静かに無駄なことを話さない。こんな風にお客さんと話せるといいなと思いながら、統太はあれこれ思いついたことを口にした。
「お客さんに手を見られるから綺麗にした方がいいって先輩にお手入れを薦められて来たんです、初めてで緊張してたんですよ」
「男性はなかなか入りにくいですよね、こういうところ」
「ほんとですね、今日まで無縁な場所だと思ってました」
「きっかけがあってよかったです。では次に余分なところを取りますね」
馨は自分の指先に布のようなものを巻き、爪の根元を拭き取りながらニッパーで何かを摘まみ取っている。一本終わると見せてくれて
「こんな感じにすっきりします、ささくれも根元からカットしました」
「なんだかわからないけど、すごいきれいになってる!」
統太が喜んでいるのを見て馨は目を細めると、また下を向いて器用に両指を動かしていく。統太は指の動きに目を取られていたけれど、だんだん指そのものに視線が移っていった。
きれいな指先、細くなく太くなくバランスが良い手の形だなぁと思いながらぼんやりと見ている。柔らかく触れられるのと穏やかな声とで、統太は眠くなってきた。
寝てはいけないと手から顔に目を移した。馨は下を向いて作業していて目が合うことも無いからついじっと見てしまう。伏せたまつ毛が濃く切れ長の一重をきれいに縁取っている。
ふいに顔をあげた時に目が合うとニッコリ微笑まれてまた心臓が鳴った。ふわふわと動く少し長めの髪は、男性らしさを隠していない。統太はいつの間にかじっと見つめていた。
「どうですか? きれいになったと思います」
馨の声で我に返った。
「わ! 自分の指じゃないみたい……スッキリしましたね。きれい」
いつの間にか統太の指先や爪は見違えるように整えられている。
「最後にオイルを付けますね」
爪の根元に一滴ずつオイルを垂らされると、ここに入ってきた時の柑橘系の香りがした。そのオイルを丁寧にマッサージするように馴染ませて終了。
「お疲れ様でした」
「ありがとうございます!」
来た時とは別物みたいになった指先。統太は目の前でヒラヒラ手を動かしながらいい香りを楽しんだ。
その場で会計を済ませると名刺を差し出された。
「またよろしくお願いします」
その名刺を両手で受け取り、触れた指先を意識して少し上ずった声になった。
「はい、また来ます」
釘秀馨さん、きれいな名前だな。次は指名して来よう、と統太は心に決めて丁寧に名刺入れに収めた。
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