天国の扉 焔を継ぐ者

藤井 紫

文字の大きさ
22 / 80
第3章 炎の娘

第22話 ただの水遊びだったのに

しおりを挟む
 質問の許しを与えられてから数日、ウサマはまだ何を問うか選べずにいた。
 魔女はそれを特に咎めもしなかった。
「急がなくていいわ」
 とだけ言って、毎朝どこかへ出かけていく。
 代わりに、エルセラと過ごす時間が増えていた。
「こっち、こっち!」
 その日も、ウサマは彼女に連れられて森の奥を歩いていた。
 朝の霧が晴れたあとの静けさ。鳥の声。葉のきらめき。
 ここにいると、戦火なんて遠いどこかの国のことのようだ。
「このへん、リスがたまに落とすナッツが拾えるの。あ、あとこれ見て。これは甘い根っこ」
 木の根元にしゃがみこむエルセラは、森の子らしく、泥だらけの指で楽しげに地面を探る。
 その仕草を、ウサマは笑いながら見ていた。
「で、こっちがあたしの秘密のお風呂場よ!」
 木々の合間から、青く澄んだ水面が見えた。
 森の中とは思えないほど広く、鏡のような静けさで、葉の影を映している。
「……ねえ、ウサマ。あたし、ちょっと、泳いでくる」
 突然そう言ったエルセラは、いつもよりすこし艶っぽい笑みを浮かべていた。
「は? いきなり?」
「気持ちいいわよ。……ほら、さっきからちょっと汗くさいし」
「それはお互いさまだろ……」
 エルセラはすっと池の縁に立ち、ふわりと服を脱いで、軽くまとめた黒髪をほどいた。森の乙女は、池で泳ぐことにも慣れているのだ。
「のぞかないでね、絶対」
 そう釘を刺す声には、真剣さというより、冗談めいたからかいが混じっていた。 
 それでもウサマは律儀に背を向けて、近くの木の陰に腰を下ろした。
 ――と思ったが。
 ヴェレダ村を出て以来、身体を流していない。
 ……俺も、さすがにそろそろ洗っとくべきか。
 ふと自分の腕を嗅いでみた。
 森歩きの連日で、汗と泥と焚き火の匂いが染みついている。
 意を決して立ち上がり、反対の岸からそっと服を脱ぎ、足を入れる。
 ひやりとした水に全身を沈めたとき、向こう岸でエルセラの笑い声が聞こえた。
「……っふふふ。まさか、君まで入ってくるとはね」
「おまえが、汗くさいって言ったくせに」
 けれど、ウサマは気づいていなかった。
 ウサマを見ていたエルセラの視線。
 服を脱ぐところから、水をかぶって濡れた黒髪が額に張りつくその様子まで、エルセラが視線の端で、しっかり見ていたことに――
(……ウサマって、脱いだら、思ってたより身体つきが大人だったんだ)
 エルセラは、心の声がウサマに聞こえていると知るはずもなく。
 ウサマが汗や汚れを洗い流す様子を、エルセラはじっと見つめた。こんな間近で、しかも男の裸を見るのは初めてで、なんとも言えない不思議な気持ちだった。
 なんだか顔がほてってきたので、エルセラは水の中に頭まで浸かる。
 その時、エルセラの髪に変化が現れた。
 黒かったはずの髪が、水にふわりと溶けていく。
 濃い墨のような染料が、透明な池の中に舞い、その下から、柔らかな金色が姿を現していた。
「……ん?」
 ウサマは水が少し黒くなったことに気づき、振り返ってエルセラの姿を見てしまった。
 真っ白な肌。しかし、それよりも、
「エルセラ……おまえ、髪が、」
 その声に、エルセラがばしゃりと水をかける。
「……ちょっと! こっち見ないでって言ったでしょ!」
 焦ったような言い方だったが、どこか照れがにじんでいた。
 ウサマは慌てて片手で顔を覆い、目を逸らす。
「いや……ごめん、でも……それ、おまえの髪が……」
「金髪でしょ。……染めてたのよ。黒い方が安全だから」
 エルセラは髪を絞りながら、真顔で言った。
 その姿は、子どもっぽいはしゃぎとは違い、どこか大人びた雰囲気すら帯びていた。
「……夜になったら、また染め直すから。ママに頼んであるの」
「染め直すのか?」
「うん。ほら、あたしはママの子だから黒じゃないとダメなの」
 けれど、その金の髪に、なぜか懐かしい誰かの姿が、ほんの一瞬だけ重なった気がした。

 森を抜ける風が、すこし冷たくなっていた。
 池の水気が残った髪と服が、歩くたびに体温を奪っていく。
「……寒いね、早く帰ろ」
「着替えがないのに、泳ぐからだろ」
「くさかったんだもん」
 どちらからともなく笑い合いながら、ふたりは魔女の家へと戻ってきた。
 林が切れ、家の輪郭が見えた瞬間、ウサマは足を止めた。
 扉の前に、誰かが立っていた。
 黒い外套。細く背の高い女の姿。
 顔はフードの奥に隠れている。
 それは、まるで風の中からにじみ出た影のように、まったく動かず立っていた。
「……あれ、誰?」
 エルセラの声が小さく震える。
 森の中では無邪気だったエルセラの背筋が、すっと強張った。
「……知ってる人?」
「ううん……知らない。だって、ここには誰も来ないはず……」
 けれど、なぜか視線を逸らせなかった。
 ふたりが近づくと、女はようやく顔を上げた。
 その目は、フードの奥で翠に光っていた。
「……お戻りになりましたね、エルセラ様」
 その声は、やわらかく響いた。
 でも、それは森の魔女の語りではなかった。
 どこか宮廷の儀礼のような、古くて、格式のある言葉だった。
「え……?」
 エルセラがぽかんと立ち尽くす。
(金色の髪、海国の瞳。間違いない、あの方の子だ)
 フードの女の心の声から、ウサマは何かを察しはじめていた。この女がただ者ではないこと。
 女は静かに言った。
「――私どもは、女王陛下より遣わされております。正しくは、王女エルセラ殿下を、お迎えに参りました」
 ウサマの背中を、冷たい風が貫いた。
 水遊びの余韻など、もうどこにもなかった。





・゜゜・*:.。. .。.:*・゜゜・*:.。..。:*・゜゜・*:.
ノアとカイ小話

【第7話】ノアの後悔

 焚き火の赤が、揺れていた。
 森の風が静まり、夜が降りる。
 焚き火を囲む二人は、昼の疲れを癒すように、ぬるくなった湯をすすっている。
「ねえ、ノア。……父上が聖地に行った時、君は何してたの?」
 ノアは記録帳の端を折りながら、顔を上げた。
「……確か、あの時は、広場の掃除をし終わって、家に帰ろうとしてたと思うよ」
 カイは星の見えない夜空を見ながら、ぽつりと漏らす。
「僕も……あの時、行ってたんだよ。父さんと一緒に。でも、アレー村のおばあちゃん家に置いていかれたけど」
「……そうだったんだ」
「だから、なんか……ちょっと悔しいな。もし僕も一緒に聖地まで行ってたら、君に会えてたかもしれないのに」
 ノアは驚いた顔でカイを見た。
「それ、僕も思ってた」
「え?」
「君に、あの時会ってたら、どうなってたかなって」
「……それ、今と違ってたかな?」
「うーん……でも、やっぱり今の君に会えて良かったよ」
「なにそれ。ちょっと照れるな」
 カイが、火の明かりに目を細めたまま口を開いた。
「……僕さ、おばあちゃんに聞いた話、思い出した」
 ノアは、少し驚いたように目を上げた。
「どんな話?」
「父上が子どもの頃、ノアのお母さんのことが大好きで、いつも後ろをついて歩いてたって」
「双子だもんね」
「でも、ノアのお母さんは、黙ってたんでしょ? 自分の過去のこと。ヴァロニア生まれだとか、双子だってこととか」
「うん……。父さんは、隠し事が下手で、聞けば何でも正直に教えてくれる人だったけど、母さんは絶対に言わないかな。だから、僕らも気付かなかった……」
 火のはぜる音にかき消されるような声だった。
「ジェードおばさんの話もしてくれたよ」
……」
「うん。ジェードおばさんは、ルースおばさんの後ろばっかりついて歩いていたって」
「フフッ。なにそれ」
 ノアは、かすかに笑ったが、声のトーンが落ちる。
「今まで、誰にも言えなかったんだけど。……ホープ様が『ジェード』という人を探しに来た時、本当は、僕は、母さんが『ジェード』だって知ってたんだ……」
 ノアは、遠くを思い出すように視線をそらした。
 火がはぜる音が一拍おいてから、またぽつりと言った。
「……今は、後悔してる。あの時、ホープ様と母さんを会わせれば良かったって」
「んー。でも、おばさんが会いたかったかどうか、わからないよ? 語らなかったんでしょ? 過去の話を」
「……うん」
「その時、君は十歳だったんでしょ? やっぱりノアはすごいな。ちゃんと大人の対応が出来て」
 カイはゆっくりと姿勢を変え、焚き火を見つめた。
「ジェードおばさんは、家族を守るために、何も言わなかったんだよ、きっと」
 ノアもまた、ただ静かに火を見つめていた。
 夜が静かに深まり、焚き火の火がゆらいだ。

しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

神々の愛し子って何したらいいの?とりあえずのんびり過ごします

夜明シスカ
ファンタジー
アリュールという世界の中にある一国。 アール国で国の端っこの海に面した田舎領地に神々の寵愛を受けし者として生を受けた子。 いわゆる"神々の愛し子"というもの。 神々の寵愛を受けているというからには、大事にしましょうね。 そういうことだ。 そう、大事にしていれば国も繁栄するだけ。 簡単でしょう? えぇ、なんなら周りも巻き込んでみーんな幸せになりませんか?? −−−−−− 新連載始まりました。 私としては初の挑戦になる内容のため、至らぬところもあると思いますが、温めで見守って下さいませ。 会話の「」前に人物の名称入れてみることにしました。 余計読みにくいかなぁ?と思いつつ。 会話がわからない!となるよりは・・ 試みですね。 誤字・脱字・文章修正 随時行います。 短編タグが長編に変更になることがございます。 *タイトルの「神々の寵愛者」→「神々の愛し子」に変更しました。

【完結】使えない令嬢として一家から追放されたけど、あまりにも領民からの信頼が厚かったので逆転してざまぁしちゃいます

腕押のれん
ファンタジー
アメリスはマハス公国の八大領主の一つであるロナデシア家の三姉妹の次女として生まれるが、頭脳明晰な長女と愛想の上手い三女と比較されて母親から疎まれており、ついに追放されてしまう。しかしアメリスは取り柄のない自分にもできることをしなければならないという一心で領民たちに対し援助を熱心に行っていたので、領民からは非常に好かれていた。そのため追放された後に他国に置き去りにされてしまうものの、偶然以前助けたマハス公国出身のヨーデルと出会い助けられる。ここから彼女の逆転人生が始まっていくのであった! 私が死ぬまでには完結させます。 追記:最後まで書き終わったので、ここからはペース上げて投稿します。 追記2:ひとまず完結しました!

靴屋の娘と三人のお兄様

こじまき
恋愛
靴屋の看板娘だったデイジーは、母親の再婚によってホークボロー伯爵令嬢になった。ホークボロー伯爵家の三兄弟、長男でいかにも堅物な軍人のアレン、次男でほとんど喋らない魔法使いのイーライ、三男でチャラい画家のカラバスはいずれ劣らぬキラッキラのイケメン揃い。平民出身のにわか伯爵令嬢とお兄様たちとのひとつ屋根の下生活。何も起こらないはずがない!? ※小説家になろうにも投稿しています。

拾われ子のスイ

蒼居 夜燈
ファンタジー
【第18回ファンタジー小説大賞 奨励賞】 記憶にあるのは、自分を見下ろす紅い眼の男と、母親の「出ていきなさい」という怒声。 幼いスイは故郷から遠く離れた西大陸の果てに、ドラゴンと共に墜落した。 老夫婦に拾われたスイは墜落から七年後、二人の逝去をきっかけに養祖父と同じハンターとして生きていく為に旅に出る。 ――紅い眼の男は誰なのか、母は自分を本当に捨てたのか。 スイは、故郷を探す事を決める。真実を知る為に。 出会いと別れを繰り返し、命懸けの戦いを繰り返し、喜びと悲しみを繰り返す。 清濁が混在する世界に、スイは何を見て何を思い、何を選ぶのか。 これは、ひとりの少女が世界と己を知りながら成長していく物語。 ※週2回(木・日)更新。 ※誤字脱字報告に関しては感想とは異なる為、修正が済み次第削除致します。ご容赦ください。 ※カクヨム様にて先行公開(登場人物紹介はアルファポリス様でのみ掲載) ※表紙画像、その他キャラクターのイメージ画像はAIイラストアプリで作成したものです。再現不足で色彩の一部が作中描写とは異なります。 ※この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

妻からの手紙~18年の後悔を添えて~

Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。 妻が死んで18年目の今日。 息子の誕生日。 「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」 息子は…17年前に死んだ。 手紙はもう一通あった。 俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。 ------------------------------

無能令嬢、『雑役係』として辺境送りされたけど、世界樹の加護を受けて規格外に成長する

タマ マコト
ファンタジー
名門エルフォルト家の長女クレアは、生まれつきの“虚弱体質”と誤解され、家族から無能扱いされ続けてきた。 社交界デビュー目前、突然「役立たず」と決めつけられ、王都で雑役係として働く名目で辺境へ追放される。 孤独と諦めを抱えたまま向かった辺境の村フィルナで、クレアは自分の体調がなぜか安定し、壊れた道具や荒れた土地が彼女の手に触れるだけで少しずつ息を吹き返す“奇妙な変化”に気づく。 そしてある夜、瘴気に満ちた森の奥から呼び寄せられるように、一人で足を踏み入れた彼女は、朽ちた“世界樹の分枝”と出会い、自分が世界樹の血を引く“末裔”であることを知る——。 追放されたはずの少女が、世界を動かす存在へ覚醒する始まりの物語。

クラス最底辺の俺、ステータス成長で資産も身長も筋力も伸びて逆転無双

四郎
ファンタジー
クラスで最底辺――。 「笑いもの」として過ごしてきた佐久間陽斗の人生は、ただの屈辱の連続だった。 教室では見下され、存在するだけで嘲笑の対象。 友達もなく、未来への希望もない。 そんな彼が、ある日を境にすべてを変えていく。 突如として芽生えた“成長システム”。 努力を積み重ねるたびに、陽斗のステータスは確実に伸びていく。 筋力、耐久、知力、魅力――そして、普通ならあり得ない「資産」までも。 昨日まで最底辺だったはずの少年が、今日には同級生を超え、やがて街でさえ無視できない存在へと変貌していく。 「なんであいつが……?」 「昨日まで笑いものだったはずだろ!」 周囲の態度は一変し、軽蔑から驚愕へ、やがて羨望と畏怖へ。 陽斗は努力と成長で、己の居場所を切り拓き、誰も予想できなかった逆転劇を現実にしていく。 だが、これはただのサクセスストーリーではない。 嫉妬、裏切り、友情、そして恋愛――。 陽斗の成長は、同級生や教師たちの思惑をも巻き込み、やがて学校という小さな舞台を飛び越え、社会そのものに波紋を広げていく。 「笑われ続けた俺が、全てを変える番だ。」 かつて底辺だった少年が掴むのは、力か、富か、それとも――。 最底辺から始まる、資産も未来も手にする逆転無双ストーリー。 物語は、まだ始まったばかりだ。

処理中です...