天国の扉 焔を継ぐ者

藤井 紫

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第3章 炎の娘

第21話 揺れる灯り

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 針が最後のひと縫いを終えたとき、ウサマは小さく息を吐いた。
 鏡の中の頬には、細い糸がきれいに並んでいる。少し歪んではいたが、血は止まり、とりあえず傷口は閉じられた。
 だが、疼く。
 エリーが、そっと麻の小瓶を差し出す。
「……これ、痛み止めよ」
 ウサマは無言でそれを受け取り、礼のかわりに小さく頷いた。
 指先が震えていたことを、ようやくそのとき自覚する。
 その背後から、やわらかな声が落ちてきた。
「上出来だったわね。見ていて少しひやひやしたけれど」
 魔女は、椅子に腰をかけたまま、静かにこちらを見ている。
 笑っているような、ただ見ているだけのような、その顔は読めなかった。
「今夜は――ご褒美をあげる」
 ウサマがゆっくり顔を上げると、魔女は目を細めた。
「質問を一つだけ。わたくしが答えてあげるわ。何でも」
「……何でも?」
 ウサマの声は、ほんの少しだけ掠れていた。
 魔女は頷く。
「ただし、一つだけよ。代価なしで得られるのは、そこまで。覚えておいて。魔女に言葉を求めるなら、代価が必要。それがこの世界の、古くからのやり方」
 その言葉は、呪文のように炉の火の上に落ちて、じり、と音を立てた。
「……そういうものなんだな」
「ええ。そういうものなの」
 魔女は淡く笑った。
「焦らなくてもいいわ。今夜の一つは、あなたが自分で縫った痛みのぶん。考えがまとまるまで、すこしこの家に滞在なさいな」
「……うん。少し、考えさせて。すぐには、決められない」
 ウサマは静かに言った。
 魔女は微笑んだまま頷き、何も言わずに立ち上がると、炉の裏手にある小さな扉の奥へと姿を消した。
 薄絹のような衣がすっと棚の角をかすめ、やがて足音さえも聞こえなくなった。
 灯りはそのままだったが、まるで部屋の空気ごと、何かが去っていったようだった。


 ぴし、と炉の薪が音を立てて割れ、静寂の中に微かな火の揺らぎが戻る。
 ウサマは背をもたれさせながら、針の跡がじんと疼く頬に手を当てた。
 そして、しばらくの間、誰も言葉を発さなかった。
 やがて。
「……あの」
 黙って座っていたエリーが、ぽつりと声を落とした。
 ウサマが視線を向けると、彼女は膝の上で手をもじもじと動かしていた。
 さっきまでの魔女の娘らしい気丈さとは違い、まるで別人のように控えめだった。
「よかったら……少しだけ、おしゃべりしない?」
 炉の灯りに照らされたその表情は、どこか不安そうで、それでいて、すこしだけ期待しているようでもあった。
「……この時間に誰かと話すなんて、ほとんどなくて。ママが寝たあとは、いつも一人だから」
 そう言いながら、エリーは照れ隠しのように笑った。
 その笑顔には、不思議な素直さがあった。
 火の揺らぎがふたりの影を壁に揺らしていた。
 しばらく、カップの中でハーブの匂いだけが立ちのぼっていた。
 そして、意を決したようにエリーが口を開いた。
「……こうして、話すの……」
 ウサマが目を向けると、彼女は火を見たまま、ぽつりと続けた。
「年の近い人と、こんなふうに話すの、たぶん初めてかも」
 言ってから、照れくさそうに笑う。
「村の子たちは、あたしのこと本当はちょっと怖がってるし。ママのこと、知ってるから……なんか、魔女の娘っていう空気になるんだよね」
 その言葉には、寂しさというより、少しだけ諦めたような明るさがあった。
「別に嫌じゃないけど……でも、こうやって誰かと普通に話すの、ちょっと嬉しい」
 エリーはちらりとウサマを見る。
「……君は、怖がらないんだね。あたしのこと」
「今のところ、まだ石は飛んでこないから」
「……それ、引きずってる?」
「死ぬまで忘れない」
 ふたりは思わず笑った。
 焚き火の明かりが、ぱちりと小さな音を立てた。
 ふたりの笑い声が落ち着いたあと、また、やわらかな沈黙が訪れる。
 ウサマは、マグの縁を指でなぞりながら、エリーに話しかけた。
「エルセラ?」
「え?」
「……ずっと、『ママ』がそう呼んでた。あんたのこと」
 その名前を口にしたとたん、エリーの体がびくりと小さく跳ねた
 彼女は目を見開いたまま、ウサマを見つめる。
「……じゃ、ママが言ってたなら、君には良いのかな、教えても」
 エリー、いやエルセラは気まずそうに肩をすくめ、火を見つめ直した。
「……あたしの本当の名前」
 そう言って、彼女はちらりとウサマを見た。
(でも、君だって、本当はレオンじゃない気がする)
 ウサマは少しだけ目を伏せた。
 ごまかすように笑ってもよかったが、不思議と口からこぼれていた。
「ウサマ。……それが、俺の本当の名前」
 焚き火の火が、その音を確かに受け取ったように、ふっと揺れた。
「ウサマ……」
 エルセラが、ゆっくり繰り返した。
 その声音にはからかいも驚きもなく、ただ名前を受け取ったという響きがあった。
「うん、似合ってる」
「そう? ださくない?」
「だって、黒髪なのに、『金獅子王リオネル』の名前なんて似合わないよ。センスなさすぎ」
「んー、意味的には『獅子』なんだけどさ……」
 ふたりの間に、また静けさが戻った。
 でも、それはもう、最初の頃の沈黙とは違っていた。
 火があたたかく、夜がやさしかった。
「エルセラか」
 ウサマは名前をもう一度、火に投げかけるように口にした。
 その響きが思った以上に自然で、自分の声じゃないみたいだった。
 エルセラは、少しはにかんだように笑った。
「……多分、付けたのは本当の親」
「名前を?」
「うん。あたし、どこから来たのかも、誰の子かもわからないの。物心ついたときから、ママの子だったから」
 そう言って、エルセラは小さく肩を揺らした。
「ママは絶対に嘘をつかないの。あたしのこと、大切な人の子、ってママは言ってた。ほんとは、何か理由があるのかもしれないけど……でもあたしにはママが必要だし、ママもあたしのママでいてくれる。抱きしめてくれて、名前を呼んでくれて、おやすみって言ってくれる人。それだけで、十分だと思ってる」
 ウサマは、黙ってその言葉を聞いていた。
 火の揺らめきが、彼女の瞳に映っていた。蒼と翠のあいだの、不思議な色。
「だから……あたしにとっては、ママがママ。もう血とかじゃないの。すごく、すごく、大好きなんだ。本当は何歳なのか知らないけど、いつまでも可愛くて、世界一美人!」
 言葉に照れがにじんでいて、それでもまっすぐだった。
 ウサマは、そのまなざしにしばらく答えられなかった。
 やがて、静かに口を開いた。
「……俺は、逆かな。母さんも、父さんも、本当の親だけど」
「……けど?」
「二年前に、姿を消した。何も言わずに、俺と兄と妹を残して」
 エルセラが、息をのむ音が聞こえた。
「……それって……」
「たぶん、何か理由はあったんだと思う。……今、やっと、そう思える。でも、十三歳の時は……ただ、捨てられたって思った」
 ウサマの声は、火の揺れと同じように、かすかに震えていた。
 でも、それは泣いているわけじゃない。言葉を選ぶのに、少しだけ時間がかかっていただけだった。
「……俺も、母さんの手のぬくもりを知ってる。父さんの声も、目も、全部覚えてる。だからこそ、置いていかれた時、自分が何が間違ってたのかって、それまでの十三年間は何だったんだろうって、ずっと考えてた」
「ウサマ……」
「答えは出てない。多分、出ないんだと思う。でも、それでも、探したくて、ここまで来た」
 火のはぜる音が、ふたりの間の沈黙を埋めていた。
 やがて、エルセラがそっと言った。
「……ウサマって、強いね」
「そんなことない」
「あるよ。だって、ちゃんと好きだったって言えるもん。置いていかれても、傷ついても、あたしなら……そんなふうに言える自信、ない」
 ウサマは、はじめて彼女の目をまっすぐ見た。
 そして、小さく笑った。
 火はもう、小さく揺れるだけになっていた。
 薪はほとんど灰になり、炉の奥からかすかな熱が残っているだけ。
 ウサマは背もたれにもたれかかり、目を閉じていた。
 眠っているわけではない。ただ、胸の中でたくさんの言葉が、静かに渦を巻いているのを感じていた。
「……ねえ、ウサマ。ママに聞くこと、決めた?」
 問いはとても静かで、やさしかった。
 だけど、それは火を灯すように、ウサマの胸の奥にぽつりと残る。
 ウサマは少しだけ、首を横に振った。
「……全然、決められない」
「だよね」
 エルセラはそれ以上は何も言わなかった。
 ただ、膝を抱えたまま、同じように火の残り香を見つめている。
「……聞きたいことは、たくさんあるんだけどさ。ひとつだけって言われると……どれも、怖くなる」
「……うん。わかる。ママ、本物だから、ちゃんと考えてね」
 また、少しの沈黙。
 でもそれは、もう気まずさじゃなかった。
 ふたりの間にある火のぬくもりのように、言葉にならない思いが、静かに灯っていた。





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ノアとカイ小話

【第6話】あんなに可愛いものが、いないだって?

 風が止み、焚き火の火がまっすぐに立ち上る夜だった。
 虫の音も遠く、ふたりはそれぞれの寝袋に入りながら、眠れずにいた。
「……ノア」
 カイの声が低く響く。
「君の、お母さんのこと、聞いていい?」
「うん?」
「父上と双子なんだよね? 似てる?」
 ノアはすぐには答えず、目を閉じたまましばらく間を置いた。
 ホープ・ノクシアルは今年四十だ。その双子の母、アデルはとても四十歳には見えなかった。どんなに歳を水増ししても、三十歳にも見えない……。
 アサドが十五の時に出て行ったが、そこが限界だったのかもしれない……。
 やがて、言葉を選ぶように、小さく呟いた。
「目の色と、髪の色と、うねる感じはすごく似てると思う」
「ふーん」
 ノアの話を聞きながら、カイは自分の前髪をつかんで見た。
「……母さんは、手のきれいな人だったよ。薬草の匂いがいつもしてて。……どんなに忙しくても、手だけは荒れてなかった」
「へえ……すごいね」
「いつも誰かの世話をしてるのにね。小さな子の熱を測って、じいさんの咳を止めて、猫の目に塗り薬まで塗って……それに、絵が上手いんだ。いつも植物の絵を描いてた」
「なにそれ、万能すぎるでしょ」
 ふたりはくすりと笑った。
「それで、家から出ると、何故かいっつもたくさんの猫に囲まれるんだ。なんかの匂いが付いてたのかな」
「ところで、さっきから『猫』って何?」
「えっ? 猫、知らないの? 猫っていない?」
 ノアが驚いて身を起こすと、カイはほんの少し、困ったように眉を下げた。
「ヴァロニアでは、『猫』なんて聞いたことないよ?」
「……本当に? あんなに何処にでもいるのに……」
 ノアは焚き火越しに、信じられないという顔をした。
「オス・ローじゃ、家のまわりにいっぱいいたよ。細長くて、しなやかで、夜目がきく。屋根に上がるし、勝手に戸を押し開けてくるし」
「それ……本当に動物?」
「動物だよ! 毛がふわふわで、しっぽが長くて、目がでっかくて……」
「……それ、ネズミじゃないよね?」
「違う! むしろ、ネズミを捕る側!」
 カイは眉をひそめるように言った。
「うちの国じゃ、昔ネズミが疫病を運んだって歴史で学んだな……猫みたいなのがいたら、きっと大事にされたはずなのに。どういう事だろ」
「そうだったんだ……不思議だな、同じ大陸なのに」
 焚き火の火がはぜて、二人の間にひとときの静寂が戻る。
 それは文化や土地の違いを越えて、ふと共通するものに触れるような沈黙だった。

※参考 天国の扉 第1章「二つの秘密」より
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