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第二十三章 失楽園
第481話 茨の道
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時は少し遡る。
水銀を食堂に残し、外へと出たパラチオンは、大岩状の『珊瑚』が降り注ぐネグラの惨状を前に、言葉を失った。
歩道の真ん中に、店舗の屋根に、訓練場に、図書館に、広場に――
ギリシャの海岸都市を模して白く塗られた、美しい街並みが、今は菌糸に侵され、赤い胞子に包まれ、まるで血のように染まっている。
その菌床から、棘を持つ蔦状菌糸がうねり、角のような突起が隆起し、地を穿ち、壁を穿ち、空へと向かって伸びている。
まるで、絵本で読んだ茨姫が眠る城のように――
行く手を塞ぐかのように、全てを封じ込めるかのように、真っ赤な茨が箱庭を覆い尽くしていた。
そして何よりも、ネグラの柵の向こう側。海辺から天へと突き上がる、真紅の塔。
そこに生えた巨大な単眼が、まるで神のように全てを見下ろし、逃げ場のない圧を放っていた。
(こんな有様では……どこに向かえば……?)
非戦闘員であるテルルとアトロピンを、どう避難させるべきか。
赤い塔――あの“何か”は、ペガサス教団本部で見たそれの比ではない。想像を遥かに超える規模に、パラチオンの思考は乱れた。
「パラチオン」
その時、不意に白衣の裾が、くいと控えめに引かれた。
見ると、アトロピンを抱えたテルルが、指先で彼の白衣を引っ張っていた。
「あそこに……ウミヘビが、集まっている……」
次いでテルルは、白亜の壁で塗り固められたマンションの屋上へ、視線を向ける。
そこには複数のウミヘビたちが集結しており、降り注ぐ『珊瑚』に対しても、飛び道具系統の抽射器を用いて迎撃していた。
あのマンションはウミヘビの寝床であり、毒素が色濃く染み込んだ建物だ。それが功を奏しているのだろう、菌床の侵蝕を免れている。
恐らく現時点で、最も安全な場所と言える。
「人が、多ければ……守り合える。……と、思う」
「……そうか。では、お前の案に従おう。あそこを目指す」
未曽有の惨禍を前に身動きが取れずにいたパラチオンは、 テルルの小さな声を道標とし、ようやく足を踏み出した。
「マンションには抽射器もある。早めに回収しなくては……。テルル、俺様から離れるなよ?」
「……パラチオン」
くい。もう一度、裾を引っ張られる。
まだ何か言いたい事があるらしい。どうしたのだと、パラチオンがテルルの方へ身を傾ければ、
「この子は、お前が、抱えていてくれ……」
彼は抱えていたアトロピンを、パラチオンへ差し出した。
「……私は、身体が弱い……。足も、遅い……。しかし、お前ならば、瞬きの間に……」
2人で先に逃げろ。自分は置いていけ。
暗に、そう言っている。
テルルは人間で言う、虚弱体質だ。一般的なウミヘビの持つ卓越した身体能力はなく、酷く疲れやすい。
走り続ける事さえできない程に。
逆にパラチオンはウミヘビの中でも飛び抜けた身体能力を持つ。体格にも恵まれている。幼アトロピンを抱えたとして、何の負担にもならない。精々、片手が塞がってしまう程度か。
何ならテルルごと抱えても、走りに支障は出ない。
ただし、両手が塞がってしまう。そうなれば、『珊瑚』の飛来や菌糸の襲撃を防げない。
それを見越し、テルルはアトロピンを託そうと思ったのだろうが――
「無駄口を叩いていないで、足を動かせ」
パラチオンは「くだらない」とでも言うかのように、ふいと顔を逸らし無視をした。
テルルは眉を下げ、困り顔を浮かべる。ならばアトロピンを下ろし、自力でパラチオンの元へ向かって貰おうかと、視線を下げてみれば、
「……てるる」
アトロピンは、赤みがかった紫の瞳でじっとテルルを見上げていた。
そして、小さな手でテルルの白衣をきゅっと掴む。離さないという、強い意思を込めて。
「行くぞ、テルル。俺様から離れるなよ」
「……。あぁ」
ふっと、小さく微笑んだ後。
テルルはアトロピンを抱き直し、パラチオンの背に身を寄せるように歩き始めた。
食堂からマンションまでの距離はそう遠くない。歩いて10分といった所か。ウミヘビの脚力を駆使すれば3分とかからない。
しかしその道中は今、文字通り茨の道と化している。
大岩状の『珊瑚』が突き刺さった地面からは蔦状菌糸が無数に生え、まるで生き物のように蠢いている。
一本一本が自律しており、鞭のように宙を撥ね、辺りを無差別に打ち据える。
また、そこら中から突き出ている角状菌糸は、前触れもなく膨張したかと思えば、
バギッ!
瓦礫を弾き飛ばし、鋭い音を立てて一斉に跳ね上がる。槍の群れのように。
それに対し、パラチオンは片端から叩き落とした。拳で殴る。足で蹴る。時には近場にあった角状菌糸をへし折り、それを槍として向かってくる脅威を全て跳ね返す。
見えている範囲は勿論、音の出どころから、気配から、周囲の変化から、次の攻撃を即座に見切っていく。
だがそれでも全ては防げない事を、パラチオンは理解していた。何せ菌床は足元にも張り巡っているのだ。その上にいる限り、真下から串刺しにされる可能性を無視できない。
そこでパラチオンは敢えて靴を脱ぎ捨てた。
そして素足を伝い、菌床へ毒素を注いでいく。間もなく辺りの『珊瑚』は赤黒く変色し、死滅。束の間の安全地帯ができあがる。
「進むぞ」
そしてパラチオンは顎で先を示し、歩みを再開する。
都度、毒素を注ぎながらの進行では走る事は叶わないが、それでもテルル達の安全が優先だ。
それに急いだ結果、パラチオンまたはテルルが負傷をしてしまえば、青い血を流してしまえば……アトロピンを中毒に陥らせる危険が生じてしまう。
必然的に、慎重にならざるを得なかった。
(抽射器があれば、容易に活路を見出せるのだが……っ!)
苛立ちから舌打ちをするパラチオン。彼の抽射器、短機関銃を駆使すれば行手を阻んでくる菌糸へ風穴を空け、菌床に対しても容赦なく毒弾を撃ち込める。
だが素手と素足で対処するしかない今、圧倒的にリーチが足りない。
もどかしい思いをしている間にも、何体かの『珊瑚』の触手が再び空を割って降ってきた。
パラチオンは咄嗟に掴んだ飛び石ほどの瓦礫を放り投げ、触手へ直撃させ、進路を逸らしていく。
「あと、少し……!」
迎撃しながらの進行によって、マンションは目前。
後は目の前に立ち塞がる、壁のように密生した菌糸を枯らし切れば、障害は全て取り除ける。
パラチオンは口角をつり上げ、毒素を宿した蹴りを“壁”へ叩き込んだ。
直後、ぬるり、と。
側面の建物を這い上がるようにして、真っ赤な“異物”が迫る。
数本の蔦を束ねたような、異様に太い“触腕”だ。
パラチオンが視界の端で気づいた時には、既に振りかぶられていた。
それは真っ直ぐ――テルルを、狙った。
ドカッ!
死角からの奇襲を避けきれず、テルルの細い身体が吹き飛ぶ。
だが彼は反射的に、アトロピンを庇うようにぎゅっと抱きしめ、そのまま地面に叩きつけられた。
「テルル! アトロピン!!」
パラチオンの声が裂ける。
しかし触腕は止まらない。その先端を矢尻のように尖らせ、鋭利に変形させ、今まさに2人を串刺しにしようと、高く振り上げた――!
「待て……っ!」
パラチオンが駆け付けるよりも先に、
――ヒュッ
矢が空を裂く。標的に穴が空く。直に毒素を受けた触腕は赤黒く変色し、死滅していく。
尤もそれは青い血による効果ではなく、
「苦戦しておるな、パラチオン」
近くの店舗の屋根、その上に立つストリキニーネが放った、毒矢によるものだった。
水銀を食堂に残し、外へと出たパラチオンは、大岩状の『珊瑚』が降り注ぐネグラの惨状を前に、言葉を失った。
歩道の真ん中に、店舗の屋根に、訓練場に、図書館に、広場に――
ギリシャの海岸都市を模して白く塗られた、美しい街並みが、今は菌糸に侵され、赤い胞子に包まれ、まるで血のように染まっている。
その菌床から、棘を持つ蔦状菌糸がうねり、角のような突起が隆起し、地を穿ち、壁を穿ち、空へと向かって伸びている。
まるで、絵本で読んだ茨姫が眠る城のように――
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そして何よりも、ネグラの柵の向こう側。海辺から天へと突き上がる、真紅の塔。
そこに生えた巨大な単眼が、まるで神のように全てを見下ろし、逃げ場のない圧を放っていた。
(こんな有様では……どこに向かえば……?)
非戦闘員であるテルルとアトロピンを、どう避難させるべきか。
赤い塔――あの“何か”は、ペガサス教団本部で見たそれの比ではない。想像を遥かに超える規模に、パラチオンの思考は乱れた。
「パラチオン」
その時、不意に白衣の裾が、くいと控えめに引かれた。
見ると、アトロピンを抱えたテルルが、指先で彼の白衣を引っ張っていた。
「あそこに……ウミヘビが、集まっている……」
次いでテルルは、白亜の壁で塗り固められたマンションの屋上へ、視線を向ける。
そこには複数のウミヘビたちが集結しており、降り注ぐ『珊瑚』に対しても、飛び道具系統の抽射器を用いて迎撃していた。
あのマンションはウミヘビの寝床であり、毒素が色濃く染み込んだ建物だ。それが功を奏しているのだろう、菌床の侵蝕を免れている。
恐らく現時点で、最も安全な場所と言える。
「人が、多ければ……守り合える。……と、思う」
「……そうか。では、お前の案に従おう。あそこを目指す」
未曽有の惨禍を前に身動きが取れずにいたパラチオンは、 テルルの小さな声を道標とし、ようやく足を踏み出した。
「マンションには抽射器もある。早めに回収しなくては……。テルル、俺様から離れるなよ?」
「……パラチオン」
くい。もう一度、裾を引っ張られる。
まだ何か言いたい事があるらしい。どうしたのだと、パラチオンがテルルの方へ身を傾ければ、
「この子は、お前が、抱えていてくれ……」
彼は抱えていたアトロピンを、パラチオンへ差し出した。
「……私は、身体が弱い……。足も、遅い……。しかし、お前ならば、瞬きの間に……」
2人で先に逃げろ。自分は置いていけ。
暗に、そう言っている。
テルルは人間で言う、虚弱体質だ。一般的なウミヘビの持つ卓越した身体能力はなく、酷く疲れやすい。
走り続ける事さえできない程に。
逆にパラチオンはウミヘビの中でも飛び抜けた身体能力を持つ。体格にも恵まれている。幼アトロピンを抱えたとして、何の負担にもならない。精々、片手が塞がってしまう程度か。
何ならテルルごと抱えても、走りに支障は出ない。
ただし、両手が塞がってしまう。そうなれば、『珊瑚』の飛来や菌糸の襲撃を防げない。
それを見越し、テルルはアトロピンを託そうと思ったのだろうが――
「無駄口を叩いていないで、足を動かせ」
パラチオンは「くだらない」とでも言うかのように、ふいと顔を逸らし無視をした。
テルルは眉を下げ、困り顔を浮かべる。ならばアトロピンを下ろし、自力でパラチオンの元へ向かって貰おうかと、視線を下げてみれば、
「……てるる」
アトロピンは、赤みがかった紫の瞳でじっとテルルを見上げていた。
そして、小さな手でテルルの白衣をきゅっと掴む。離さないという、強い意思を込めて。
「行くぞ、テルル。俺様から離れるなよ」
「……。あぁ」
ふっと、小さく微笑んだ後。
テルルはアトロピンを抱き直し、パラチオンの背に身を寄せるように歩き始めた。
食堂からマンションまでの距離はそう遠くない。歩いて10分といった所か。ウミヘビの脚力を駆使すれば3分とかからない。
しかしその道中は今、文字通り茨の道と化している。
大岩状の『珊瑚』が突き刺さった地面からは蔦状菌糸が無数に生え、まるで生き物のように蠢いている。
一本一本が自律しており、鞭のように宙を撥ね、辺りを無差別に打ち据える。
また、そこら中から突き出ている角状菌糸は、前触れもなく膨張したかと思えば、
バギッ!
瓦礫を弾き飛ばし、鋭い音を立てて一斉に跳ね上がる。槍の群れのように。
それに対し、パラチオンは片端から叩き落とした。拳で殴る。足で蹴る。時には近場にあった角状菌糸をへし折り、それを槍として向かってくる脅威を全て跳ね返す。
見えている範囲は勿論、音の出どころから、気配から、周囲の変化から、次の攻撃を即座に見切っていく。
だがそれでも全ては防げない事を、パラチオンは理解していた。何せ菌床は足元にも張り巡っているのだ。その上にいる限り、真下から串刺しにされる可能性を無視できない。
そこでパラチオンは敢えて靴を脱ぎ捨てた。
そして素足を伝い、菌床へ毒素を注いでいく。間もなく辺りの『珊瑚』は赤黒く変色し、死滅。束の間の安全地帯ができあがる。
「進むぞ」
そしてパラチオンは顎で先を示し、歩みを再開する。
都度、毒素を注ぎながらの進行では走る事は叶わないが、それでもテルル達の安全が優先だ。
それに急いだ結果、パラチオンまたはテルルが負傷をしてしまえば、青い血を流してしまえば……アトロピンを中毒に陥らせる危険が生じてしまう。
必然的に、慎重にならざるを得なかった。
(抽射器があれば、容易に活路を見出せるのだが……っ!)
苛立ちから舌打ちをするパラチオン。彼の抽射器、短機関銃を駆使すれば行手を阻んでくる菌糸へ風穴を空け、菌床に対しても容赦なく毒弾を撃ち込める。
だが素手と素足で対処するしかない今、圧倒的にリーチが足りない。
もどかしい思いをしている間にも、何体かの『珊瑚』の触手が再び空を割って降ってきた。
パラチオンは咄嗟に掴んだ飛び石ほどの瓦礫を放り投げ、触手へ直撃させ、進路を逸らしていく。
「あと、少し……!」
迎撃しながらの進行によって、マンションは目前。
後は目の前に立ち塞がる、壁のように密生した菌糸を枯らし切れば、障害は全て取り除ける。
パラチオンは口角をつり上げ、毒素を宿した蹴りを“壁”へ叩き込んだ。
直後、ぬるり、と。
側面の建物を這い上がるようにして、真っ赤な“異物”が迫る。
数本の蔦を束ねたような、異様に太い“触腕”だ。
パラチオンが視界の端で気づいた時には、既に振りかぶられていた。
それは真っ直ぐ――テルルを、狙った。
ドカッ!
死角からの奇襲を避けきれず、テルルの細い身体が吹き飛ぶ。
だが彼は反射的に、アトロピンを庇うようにぎゅっと抱きしめ、そのまま地面に叩きつけられた。
「テルル! アトロピン!!」
パラチオンの声が裂ける。
しかし触腕は止まらない。その先端を矢尻のように尖らせ、鋭利に変形させ、今まさに2人を串刺しにしようと、高く振り上げた――!
「待て……っ!」
パラチオンが駆け付けるよりも先に、
――ヒュッ
矢が空を裂く。標的に穴が空く。直に毒素を受けた触腕は赤黒く変色し、死滅していく。
尤もそれは青い血による効果ではなく、
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