おちおち冥福も祈れない

ヒルミチ ヒナカ

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7話 若き葬儀屋の悩み

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「ハル。遅かったな」

 他人の家の玄関で、我が物顔で足を組んでいる男。見慣れた姿のはずなのに、ぐらりと脳を揺さぶられるのは、嗅覚が拾ってしまう香りのせいだ。
 それは今日、強い頭痛を呼び起こした。

 ──棺いっぱいのアネモネを幻視する。

 蝋燭に照らされる母の死に顔は、色とりどりの花よりもずっと美しかった。

「っ……」
「ハル?」

 蘇ってしまった情景に口元を押さえる。
 ──そういうことだったか。
 とうに忘れていた母との別れ。ヴェスナという捻じ曲がった鍵は、その記憶の蓋をこじ開けるものだった。
 父の存在、実家という場所も影響しているのだろう。ヴェスナは承知の上で条件を揃えたのだろうか。とんでもない男である。

 鮮明になった死に顔がヴェスナに重なる。不規則になる呼吸を悟られないよう息を殺し、晴澄は彼の腕を引いた。

「……話はもう終わった。帰るぞ」
「待ってくれ」

 瞼を赤く腫らせた父が、遠慮がちに間に入ってきた。

「錠野広澄と申します。あなたの名前を、教えてもらえますか」
「ヴェスナだ」

 父の問いに、ヴェスナは悪魔的な笑みで頬を歪める。途端に母の幻影は消失し、不思議と解放されたような気持ちで、晴澄も彼の腕をつかむ力を弱めることができた。

「ヴェスナくん。ありがとう。晴澄くんを、よろしく頼みます」

 父は深々と頭を下げると、独り言のように、だが晴澄にだけは聞かせるように、そっと唇を動かすのだった。

「……晴澄くんが心を開くのもわかる。どうしてか、風花さんを思い出す人だね」

 “開く者”の特性。ヴェスナと相対する者は、自身の内側に働きかける香りに心の鎖を緩めてしまう。
 父もまた、晴澄と同じく、母を見出したに違いなかった。
 それはきっと晴澄が知らない、生きた母の香りなのだろうが。



 ヴェスナを引っ張って自宅に帰り着き、ソファに座りこむ。着替える気にもエアコンをつける気にもならなかった。ただ、ぼんやりと天井を見上げる。
 いつものように窓を開け放したヴェスナは、晴澄の隣に腰を下ろすと、首筋に指を這わせてきた。

「どうした、無気力な顔をして。てっきりおれに当たり散らして乱暴を働いてくるものだとばかり思っていたが」
「……」

 しなだれかかる体を押しのけようとも思えない。ヴェスナの体重でなだれるように体勢が崩れ、背中がソファに埋まる。
 それでもまだ、天井を見つめる以外のことができなかった。
 五感を断ち、自分と向きあおうにも、道筋が不明瞭だ。パーツはすべて揃っているのに、全体像が見えないからまとめられない。

 ヴェスナはそんな晴澄の手を自分の頬に宛てがってみせた。汗ばむ掌に唇を滑らせ、指先を軽くついばみ、慈しむような微笑みを浮かべる。

「震えているな。怯えているのか」
「怯える? まさか……」

 しかし自らの手を胸元に引き戻せば、そこにはわずかな震えが見て取れた。
 咄嗟に拳に変えてごまかそうとした晴澄を、ヴェスナが許すわけもない。両手で拳を包みこむと、その白い額に押し当てる。

「強がる必要はない、いつもお前は怖がっている。でなければ、そう頑なに心を閉ざしたりはしないだろう」
「──何を怖がっているというんだ」
「死を」

 神聖さを帯びたやわらかな響きに、晴澄は眉をひそめる。
 葬儀屋というのは、死を日常的なものとして扱う職業だ。怖がっているようでは仕事にならない。
 そのことに誇りを持っているわけではなかったが、遺体を前にして晴澄たちが冷静でいられるのは、恐怖の感情がないからではないのか。死は理解できないから恐ろしいものだが、葬儀屋は誰よりも死を理解しているのだ。

「怖いから目を背けているだけだ、おまえは。遺族の傍にいるときはばつの悪そうな顔をしている」
「それは……」
「苦手なのだろう。死によって失われる想いを、行き場のなくなった愛情を、受け止めることができないのだろう。
 もっとも生命が死を厭うのは自然なことで、責められることではない。おまえの恐怖も間違ってはいないのだ」
「……父も、間違ってはいないと?」
「ああ……それこそおまえにとっては、父親が悪い例になってしまったのかもしれんな」

 セイラから聞いた、とヴェスナは皮肉たっぷりに目を光らせてみせる。
 実家に義母がいるのを失念していた。父と晴澄が距離を測りあっている間、こちらはこちらで話しこんでいたらしい。

「おまえは父が間違っていると思うか」

 母を深く愛したがゆえに、残された息子を愛せなかった父。
 愛されていないという自覚は、晴澄にはなかった。あるいは自身を守るため、気にしないようにしていたとも考えられる。事情を察した今でさえ、憐れな子どもだと他人事のように俯瞰している部分があった。

「……わからない。愛した人を失った経験がない」
「そこが問題だな。まるで思慮深い乙女だ」

 ヴェスナの開いた瞳孔が近づいて、身体の自由を彼に奪われたかのように錯覚する。
 肌の震えが止まっていた。

「だから、あのときおれは言ったのだ。おまえの命があるかぎり、恋人として寄り添うことを約束してもいいとな。おまえは愛の喪失を酷く恐れている。ならば失わずに済む生き方を選んでみることだ」

 心臓の上に指が突き立つ。
 晴澄の錆びついた錠はまだ開こうとしない。

 けれど、ガチャリと鍵の嵌まる音は、聞こえてしまった。

「おまえはもっとわがままに生きるといい。おれのような人ならざる者と一緒なら、さすがのおまえも安心できよう?」

 まっとうに生きているとも言えないあたたかな重みを、晴澄は抱きしめずにはいられなくなった。

 強引で、自分勝手で、横柄で粗暴で傲慢で、とにかくろくでもない男だが──
 今の晴澄にとって、ここが一番心安らぐ場所なのは確かなのだ。

「……開いてみても何もないかもしれないぞ」
「開いただけで喜んでやるさ。おれはそういう控えめな存在だ」
「そういうことは無断で実家に押しかけなくなってから言え」
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