おちおち冥福も祈れない

ヒルミチ ヒナカ

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小話

死の家の記憶

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 物分かりがよすぎたのかもしれない、と思うことがある。
 なにぶん育った環境が悪い。泣き喚いても怒り狂ってもどうにもならないことを嫌というほどよく知っている。

 5歳の晴澄はるすみも本能的に理解していたのだろう。亡くなった母を前にして、まるで表情を変えなかった。悲しみの声をあげることもなければ、虚ろな瞳に疑問が浮かぶこともない。すべてを理解した上で、花に囲まれた死に顔をじっと見つめていた。
 充分な食事を摂っていないことがわかる痩せた手を握り、飛鳥あすかが小さな決意を固めたのは、もう20年以上前のことだ。

「晴澄、手貸して」
「はい」

 簡潔な返事とともに振り返った晴澄は、仕事の手伝いではなく自身の手そのものを求められていることを察し、思いきり眉間にしわを寄せてみせた。
 それでも飛鳥が腕を伸ばしたままでいると、渋々その手を差し出してくる。できた義弟おとうとだ。

 中学生で成長期が終わってしまった飛鳥と比べると、晴澄の手は遥かに大きい。関節は太く、分厚い皮膚が筋肉質な手首に繋がっている。ちょっとやそっとでは傷つきそうにない、生命力に溢れた手だった。

「立派になったなあ……」
「はあ……」

 晴澄は依然として怪訝そうだが、飛鳥には込み上げるものがある。
 記憶の中の折れそうな指とは似ても似つかない。これならもう心配はいらないだろう。チャンスも夢も、欲するものは自分で掴み取れる。

 義弟が兄貴気取りを煙たがっていることに気付かないほど、飛鳥も愚鈍ではない。だがあのとき、彼に身内としての愛情を注ぐ人間がいないとわかって、自分がそうなろうと思ったのだ。飛鳥もまた、唯一の肉親である母が多忙で孤独だったから、寂しさを持て余していたのかもしれない。
 呆れでも苛立ちでも、自分が近くにいることで晴澄の感情が動くならそれでよかった。海を漂うクラゲのようなあの父親とは別のものになってほしかったのだ。

 しかし──そろそろ、飛鳥もお役御免なのかもしれない。

「浮気かハル」
「……違う」

 最近の義弟は、見違えるほどに表情豊かだった。
 突然聞こえたからかいの声にこめかみを引き攣らせ、晴澄は飛鳥の手を振り払う。

「では、生涯おれ一筋ということだな。それならそれでよし」
「ちが……大体、当たり前のように会社に来るな」

 どうやって侵入してきているかはいまいちわからないが、よく顔を出す晴澄の恋人は自由奔放で、怒っていたと思えば次の瞬間には笑っている、嵐のような青年だ。勘が鋭く、彼のおかげで厄介な問題が解決したことも一度や二度ではない。
 首を突っ込みすぎなのだと晴澄は不本意そうにしているが、飛鳥は裏表のない彼をとても気に入っていた。

 趣味のいい香水は春の木漏れ日を思わせる。晴澄に足りないものを補い、その影を優しく照らしてくれるのが、ヴェスナという存在に違いなかった。
 飛鳥が、なれなかったものである。

「いつもありがとうね、ヴェスナくん」
「ん? ああ、構わん」

 唇の動きが無音で続く。過保護な兄だな、と。
 飛鳥の真意を見透かしているのはたぶん、この青年だけだ。

 しかめっ面をしている晴澄の眉間をつつきながら、ヴェスナはおおらかに笑ってみせるのだった。
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