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緑の小袖
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「泣いているのか、少年」
突然の声に、顔を上げる。
涙でぼやけた視界いっぱいに広がった濃い緑に、カイは一瞬目を瞬かせ、そして大急ぎで目の周りをごしごしと擦った。もう少し顔を上げなくとも、カイの前にいる人物が誰であるかは、すぐに分かる。三日前、カイをこの、山がちな領土を支配する辺境伯の許へと差し出した父とともに謁見した、辺境伯の側で微笑みを浮かべていた少女。辺境伯の唯一人の娘であり、いずれはこの領地を継ぐ者。辺境伯に仕える騎士である父の息子であるカイが将来、仕えることになるであろう主君。
「どうした? 家が恋しいか? それとも騎士になる為の修行がつらいのか?」
城壁の小さな窪みにしゃがむカイの前で、豊かな黒髪が揺れる。その黒髪に、カイは気力をかき集め、何とか首を横に振ってみせた。将来の主君に、泣いているところなど、見せるわけにはいかない。微かに芽生えた誇りが、カイの涙を止めた。
「そうか」
柔らかに揺れる緑の袖に包まれた白く細い指が、カイのぐしゃぐしゃに乱れた頭に触れる。その指の温かさが、カイの心を温めた。
「そうだ」
不意に、少女の右手が、緑色の左袖を外す。外したその、豪奢な織り模様が施された緑色の袖を、少女はカイの左腕に結んだ。
「騎士の、証しだ、少年」
少女の行動の意味が分からず、呆然と少女を見上げたカイの瞳に、立ち上がった少女の微笑みが映る。
「私の騎士となる者の、証しだ」
その少女の、春の風に揺れる黒髪と緑の服に、カイはしっかりと、頷いた。
初夏の風に揺れる緑色を認め、一瞬だけ、息が止まる。しかしすぐに礼儀を思い出し、カイは目の前に現れた女性の前に跪いた。
「ここはごたついております、……奥方様」
姫様。言いかけたその言葉を、辛うじて飲み込む。不意に遠くなった騒がしさに首を傾げる間も無く、カイは言葉を紡いだ。
「一騎打ちはもうすぐ始まります。観覧席の方へお越しください、奥方様」
カイが辺境伯の許で騎士としての修行を始めてから、七年の月日が経つ。最初は小姓として仕えていたカイも、この春から従者として本格的な騎士修行に明け暮れていた。そして。懐に隠し持つ緑の袖を、静かに思い出す。カイの左腕にその袖を結んでくれた少女は、つい三日前、年老いた父の代わりに辺境伯としての職務を果たす者として、この地を支配する王の従兄弟アルベルト卿と婚姻を結んだ。その婚礼の祝いとして、今日は、王に仕える騎士達と辺境伯に仕える騎士達との馬上槍試合が計画されていた。
「少年は、試合には出ないのか?」
降ってきた優しい声に、伏せていた顔を上げる。目に映る、昔と寸分違わぬ微笑みに、カイの鼓動はどうしようもなく速まった。
「まだ、従者ですから、一騎打ちに出ることはできません」
それでも何とか、平静を保った声を出す。
「ですが、団体戦には、出る予定です」
「そうか」
カイの返事に、今は辺境伯妃となった少女は僅かに頷き、そして背後の侍女達の声に促されたかのようにカイに背を向けた。
その、濃い緑色の背を見つめてから、我に返ったかのように立ち上がる。あの方への言葉通り、一騎打ちの後に行われる、王に仕える騎士達と辺境伯に仕える騎士達とが団体で戦う模擬戦には、カイも辺境伯に仕える従者として参加することになっている。仕えている先輩騎士達に必要なものを、きちんと準備しておかなければ。頭を横に振ってから、カイは自軍の天幕の方へと歩を進めた。
ふと、辺りを見回す。試合を見に来た、辺境伯に仕える騎士達の娘なのか、それとも城で働く侍女達なのか、光沢のあるゆったりとした服をまとった乙女達が、磨かれて太陽の光を反射する鎧を身にまとった騎士達に自分の服の袖を渡す光景がいくつも、カイの視界に映った。乙女や婦人が騎士に自分の着脱可能な袖を贈るのは、愛の証し。そのことをカイが知ったのは何時のこと、だっただろうか?勿論、今は辺境伯妃であるかつての少女がカイの左腕に自分の袖を結んだ理由が『愛』ではないことは、カイも十分承知している。ただ、自分に仕えるようになるであろう将来の騎士に、励ましを贈っただけ。それでも。カイに袖を贈ってくれた、いつになってもカイを『少年』としか呼ばない女主人を、カイは心から慕っていた。
そうだ。不意に浮かんだ思いつきに、微笑む。これから行われる模擬戦で武功を立てることができたら、あの方に、新しい袖を無心しよう。そして名前で呼んでもらおう。カイは一人こくんと頷くと、懐から取り出した、何度も触れているせいでくしゃくしゃになってしまった緑色の布切れを、自分の左腕にそっと巻きつけた。
やけに多い砂埃に、思わずむせる。
馬に乗る、自軍の騎士達の向こうに見える大きく黒い影に、カイの全身は震えに震えていた。さすが、王に仕える騎士達。がっちりとした肩幅を持つ身体にきらきらと輝く鎧を身に付け、先に行われた一騎打ちでも次々と、辺境伯に仕える騎士達を馬から落としていた。その者達と、模擬戦とはいえ、戦わなければならないとは。歯を食いしばっても、震えは止まらない。
「戦え! 戦え! 騎士の方々!」
それでも。あの方の前で醜態を晒すわけにはいかない。開戦の合図とともに、カイは弱々しく馬腹を蹴った。
カイの予想通り、王に仕える騎士達は、圧倒的な力でカイ達辺境伯に仕える騎士達を圧迫する。何とか、しないと。馬から落とされる騎士達を見て唇を噛みしめたカイは、今度は強く馬腹を蹴った。確かに、王の騎士達の強さは圧倒的だ。だが。兜の隙間から見えた、敵陣の横の隙に、カイは自分の小柄な身体を利用して模擬槍を突き刺した。
「なっ!」
響く叫び声は、自分のものか敵のものか。怯む影に闇雲に槍を振るカイは、頭を殴られたことにも、馬から落ちたことにすら、気付かなかった。
はたと、目覚める。
見たことのない柔らかな色の天幕が、カイのずっと上で優しく揺れていた。
ここは、何処だろう? 動かない身体を、ゆっくりと動かす。自分の、従者用の部屋ではない。穏やかな花の香りと、頬に触れる柔らかな敷布の暖かさに、カイはゆっくりと目を閉じた。
と。
「起きたか、少年?」
聞き知った明るい声に、再びはっと瞼を上げる。帳を持ち上げた緑色の豪奢な袖と、カイを見つめる微笑みに、カイの胸は騒いだ。
「無茶な攻撃をすると、騎士団長が呆れていたぞ」
そのカイの戸惑いを余所に、辺境伯妃は明るく言葉を紡ぐ。
「アルは、褒めていたがな。驕りの隙を突いた、良い攻撃だったと」
褒美を、やろうか? 目を細めた辺境伯妃に唇を震わせて頷く。あなたの袖が欲しい。そう、言わなければ。しかしその言葉は、カイの喉で消えた。
「従者の具合は?」
聞こえてきた男性の声と、その声に頷いてカイから目を逸らした辺境伯妃に、小さく息を吐く。
「目は覚ましたが、もう少し寝ていた方が良いようだ、アル」
「そうか」
二人の、明るい会話に耳を塞ぎたくなり、カイは呻きを堪えて目を閉じた。カイが辺境伯妃を『奥方様』という敬称でしか呼べないように、あの方も、カイをその名前で呼んでくれることは、決して無い。あの方が愛称で呼ぶ、伴侶であり新しい辺境伯でもあるアルベルト卿とあの方との間にあるような親密な関係には、決してなれない。こめかみを流れる涙を感じ、カイは柔らかい枕で目を拭った。
夜の闇に舞う、無数の松明の炎に、手綱を持つ手に力が籠もる。
自分の領土を拡張する為に、夜襲まで計画するとは。松明の光で微かに翻る、隣の辺境伯の紋章である竜の醜悪な形に、カイは大きく舌打ちをした。辺境伯アルベルト卿が亡くなり、まだ幼い息子達と未亡人だけの弱小な領土だと見くびられているのだろう。無意識に歪んだ唇を噛み、それでもカイは目敏く辺りを見回した。谷の上にいるから、遠くまで見通すことができる。しかしそれでも、あの方が待つ城は見えない。当たり前のことが悲しくなり、カイは首を横に振った。今は、感傷に浸っている時では無い。隣に領地を持つ、竜の紋章の辺境伯は、カイの主人である伯妃の拒絶にも拘わらず何度も、未亡人となった伯妃に結婚を迫り、それが受け入れられないと悟ると、伯妃が仲介を依頼していた王の命令を無視してこちらの領地への侵攻を開始した。そんな見下げた奴など、生かしておくに値しない。
今は亡き辺境伯から騎士叙任を受けたのは、もうずっと昔のこと。経験を積んだ騎士としてカイが率いる。辺境伯領の境界を見回る小さな部隊がこの大規模な夜襲隊を見つけたのは、夜の帳が下りきった頃。既に、足の速い馬に乗せた騎士を伝令として辺境伯の城へと走らせてある。後は。顔を上げて遠くを見やり、カイは小さく微笑んだ。山がちな領土だから、領地の境界から伯妃の城までの間には幾つか、大部隊では通りにくい谷がある。そこを通る時を狙う。松明の揺らめきを、カイはじっと睨んだ。
ふと思い出し、懐から小さな布を取り出す。馬上槍試合や、領土の境界で起こる小競り合いの度に、身につけていたあの方の袖は傷付き、今では色も織りも分からなくなってしまっている。ぼろぼろになってしまった、その布切れを、カイはそっと左腕に巻いた。
その僅かの間に、松明の間隔が広がっている。おそらくカイが狙っていた場所を通っているのであろう、翻る竜の旗に、カイは静かに腰の剣を抜いた。狙うは、あの旗の近くにいる敵の大将。彼を屠り、再びあの方に相見えた時には今度こそ、あなたの緑の袖が欲しいと言おう。既に大人になったカイをいまだに『少年』と呼び続ける辺境伯妃の、心労で真っ白になってしまった髪と、青白い腕を覆う濃い緑の袖を思い返して小さく微笑むと、カイは細長くなった敵部隊の横を突くように馬腹を蹴って岩崖の谷を駆け下りた。
突然の声に、顔を上げる。
涙でぼやけた視界いっぱいに広がった濃い緑に、カイは一瞬目を瞬かせ、そして大急ぎで目の周りをごしごしと擦った。もう少し顔を上げなくとも、カイの前にいる人物が誰であるかは、すぐに分かる。三日前、カイをこの、山がちな領土を支配する辺境伯の許へと差し出した父とともに謁見した、辺境伯の側で微笑みを浮かべていた少女。辺境伯の唯一人の娘であり、いずれはこの領地を継ぐ者。辺境伯に仕える騎士である父の息子であるカイが将来、仕えることになるであろう主君。
「どうした? 家が恋しいか? それとも騎士になる為の修行がつらいのか?」
城壁の小さな窪みにしゃがむカイの前で、豊かな黒髪が揺れる。その黒髪に、カイは気力をかき集め、何とか首を横に振ってみせた。将来の主君に、泣いているところなど、見せるわけにはいかない。微かに芽生えた誇りが、カイの涙を止めた。
「そうか」
柔らかに揺れる緑の袖に包まれた白く細い指が、カイのぐしゃぐしゃに乱れた頭に触れる。その指の温かさが、カイの心を温めた。
「そうだ」
不意に、少女の右手が、緑色の左袖を外す。外したその、豪奢な織り模様が施された緑色の袖を、少女はカイの左腕に結んだ。
「騎士の、証しだ、少年」
少女の行動の意味が分からず、呆然と少女を見上げたカイの瞳に、立ち上がった少女の微笑みが映る。
「私の騎士となる者の、証しだ」
その少女の、春の風に揺れる黒髪と緑の服に、カイはしっかりと、頷いた。
初夏の風に揺れる緑色を認め、一瞬だけ、息が止まる。しかしすぐに礼儀を思い出し、カイは目の前に現れた女性の前に跪いた。
「ここはごたついております、……奥方様」
姫様。言いかけたその言葉を、辛うじて飲み込む。不意に遠くなった騒がしさに首を傾げる間も無く、カイは言葉を紡いだ。
「一騎打ちはもうすぐ始まります。観覧席の方へお越しください、奥方様」
カイが辺境伯の許で騎士としての修行を始めてから、七年の月日が経つ。最初は小姓として仕えていたカイも、この春から従者として本格的な騎士修行に明け暮れていた。そして。懐に隠し持つ緑の袖を、静かに思い出す。カイの左腕にその袖を結んでくれた少女は、つい三日前、年老いた父の代わりに辺境伯としての職務を果たす者として、この地を支配する王の従兄弟アルベルト卿と婚姻を結んだ。その婚礼の祝いとして、今日は、王に仕える騎士達と辺境伯に仕える騎士達との馬上槍試合が計画されていた。
「少年は、試合には出ないのか?」
降ってきた優しい声に、伏せていた顔を上げる。目に映る、昔と寸分違わぬ微笑みに、カイの鼓動はどうしようもなく速まった。
「まだ、従者ですから、一騎打ちに出ることはできません」
それでも何とか、平静を保った声を出す。
「ですが、団体戦には、出る予定です」
「そうか」
カイの返事に、今は辺境伯妃となった少女は僅かに頷き、そして背後の侍女達の声に促されたかのようにカイに背を向けた。
その、濃い緑色の背を見つめてから、我に返ったかのように立ち上がる。あの方への言葉通り、一騎打ちの後に行われる、王に仕える騎士達と辺境伯に仕える騎士達とが団体で戦う模擬戦には、カイも辺境伯に仕える従者として参加することになっている。仕えている先輩騎士達に必要なものを、きちんと準備しておかなければ。頭を横に振ってから、カイは自軍の天幕の方へと歩を進めた。
ふと、辺りを見回す。試合を見に来た、辺境伯に仕える騎士達の娘なのか、それとも城で働く侍女達なのか、光沢のあるゆったりとした服をまとった乙女達が、磨かれて太陽の光を反射する鎧を身にまとった騎士達に自分の服の袖を渡す光景がいくつも、カイの視界に映った。乙女や婦人が騎士に自分の着脱可能な袖を贈るのは、愛の証し。そのことをカイが知ったのは何時のこと、だっただろうか?勿論、今は辺境伯妃であるかつての少女がカイの左腕に自分の袖を結んだ理由が『愛』ではないことは、カイも十分承知している。ただ、自分に仕えるようになるであろう将来の騎士に、励ましを贈っただけ。それでも。カイに袖を贈ってくれた、いつになってもカイを『少年』としか呼ばない女主人を、カイは心から慕っていた。
そうだ。不意に浮かんだ思いつきに、微笑む。これから行われる模擬戦で武功を立てることができたら、あの方に、新しい袖を無心しよう。そして名前で呼んでもらおう。カイは一人こくんと頷くと、懐から取り出した、何度も触れているせいでくしゃくしゃになってしまった緑色の布切れを、自分の左腕にそっと巻きつけた。
やけに多い砂埃に、思わずむせる。
馬に乗る、自軍の騎士達の向こうに見える大きく黒い影に、カイの全身は震えに震えていた。さすが、王に仕える騎士達。がっちりとした肩幅を持つ身体にきらきらと輝く鎧を身に付け、先に行われた一騎打ちでも次々と、辺境伯に仕える騎士達を馬から落としていた。その者達と、模擬戦とはいえ、戦わなければならないとは。歯を食いしばっても、震えは止まらない。
「戦え! 戦え! 騎士の方々!」
それでも。あの方の前で醜態を晒すわけにはいかない。開戦の合図とともに、カイは弱々しく馬腹を蹴った。
カイの予想通り、王に仕える騎士達は、圧倒的な力でカイ達辺境伯に仕える騎士達を圧迫する。何とか、しないと。馬から落とされる騎士達を見て唇を噛みしめたカイは、今度は強く馬腹を蹴った。確かに、王の騎士達の強さは圧倒的だ。だが。兜の隙間から見えた、敵陣の横の隙に、カイは自分の小柄な身体を利用して模擬槍を突き刺した。
「なっ!」
響く叫び声は、自分のものか敵のものか。怯む影に闇雲に槍を振るカイは、頭を殴られたことにも、馬から落ちたことにすら、気付かなかった。
はたと、目覚める。
見たことのない柔らかな色の天幕が、カイのずっと上で優しく揺れていた。
ここは、何処だろう? 動かない身体を、ゆっくりと動かす。自分の、従者用の部屋ではない。穏やかな花の香りと、頬に触れる柔らかな敷布の暖かさに、カイはゆっくりと目を閉じた。
と。
「起きたか、少年?」
聞き知った明るい声に、再びはっと瞼を上げる。帳を持ち上げた緑色の豪奢な袖と、カイを見つめる微笑みに、カイの胸は騒いだ。
「無茶な攻撃をすると、騎士団長が呆れていたぞ」
そのカイの戸惑いを余所に、辺境伯妃は明るく言葉を紡ぐ。
「アルは、褒めていたがな。驕りの隙を突いた、良い攻撃だったと」
褒美を、やろうか? 目を細めた辺境伯妃に唇を震わせて頷く。あなたの袖が欲しい。そう、言わなければ。しかしその言葉は、カイの喉で消えた。
「従者の具合は?」
聞こえてきた男性の声と、その声に頷いてカイから目を逸らした辺境伯妃に、小さく息を吐く。
「目は覚ましたが、もう少し寝ていた方が良いようだ、アル」
「そうか」
二人の、明るい会話に耳を塞ぎたくなり、カイは呻きを堪えて目を閉じた。カイが辺境伯妃を『奥方様』という敬称でしか呼べないように、あの方も、カイをその名前で呼んでくれることは、決して無い。あの方が愛称で呼ぶ、伴侶であり新しい辺境伯でもあるアルベルト卿とあの方との間にあるような親密な関係には、決してなれない。こめかみを流れる涙を感じ、カイは柔らかい枕で目を拭った。
夜の闇に舞う、無数の松明の炎に、手綱を持つ手に力が籠もる。
自分の領土を拡張する為に、夜襲まで計画するとは。松明の光で微かに翻る、隣の辺境伯の紋章である竜の醜悪な形に、カイは大きく舌打ちをした。辺境伯アルベルト卿が亡くなり、まだ幼い息子達と未亡人だけの弱小な領土だと見くびられているのだろう。無意識に歪んだ唇を噛み、それでもカイは目敏く辺りを見回した。谷の上にいるから、遠くまで見通すことができる。しかしそれでも、あの方が待つ城は見えない。当たり前のことが悲しくなり、カイは首を横に振った。今は、感傷に浸っている時では無い。隣に領地を持つ、竜の紋章の辺境伯は、カイの主人である伯妃の拒絶にも拘わらず何度も、未亡人となった伯妃に結婚を迫り、それが受け入れられないと悟ると、伯妃が仲介を依頼していた王の命令を無視してこちらの領地への侵攻を開始した。そんな見下げた奴など、生かしておくに値しない。
今は亡き辺境伯から騎士叙任を受けたのは、もうずっと昔のこと。経験を積んだ騎士としてカイが率いる。辺境伯領の境界を見回る小さな部隊がこの大規模な夜襲隊を見つけたのは、夜の帳が下りきった頃。既に、足の速い馬に乗せた騎士を伝令として辺境伯の城へと走らせてある。後は。顔を上げて遠くを見やり、カイは小さく微笑んだ。山がちな領土だから、領地の境界から伯妃の城までの間には幾つか、大部隊では通りにくい谷がある。そこを通る時を狙う。松明の揺らめきを、カイはじっと睨んだ。
ふと思い出し、懐から小さな布を取り出す。馬上槍試合や、領土の境界で起こる小競り合いの度に、身につけていたあの方の袖は傷付き、今では色も織りも分からなくなってしまっている。ぼろぼろになってしまった、その布切れを、カイはそっと左腕に巻いた。
その僅かの間に、松明の間隔が広がっている。おそらくカイが狙っていた場所を通っているのであろう、翻る竜の旗に、カイは静かに腰の剣を抜いた。狙うは、あの旗の近くにいる敵の大将。彼を屠り、再びあの方に相見えた時には今度こそ、あなたの緑の袖が欲しいと言おう。既に大人になったカイをいまだに『少年』と呼び続ける辺境伯妃の、心労で真っ白になってしまった髪と、青白い腕を覆う濃い緑の袖を思い返して小さく微笑むと、カイは細長くなった敵部隊の横を突くように馬腹を蹴って岩崖の谷を駆け下りた。
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