欠片断説 ―『明日の風に』短編集―

風城国子智

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闘技場狂詩曲

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 肉が腐ったような、不快な匂いが鼻を突く。
 その匂いから逃れようと身体を動かすと、今度は床の水っぽい泥が風理ふうりの膝を濡らした。
〈……こりゃあ、駄目だな〉
 滅多に口にしない諦めを吐き出すと、風理は足に嵌められた鎖が動く範囲でなるべく乾いた地面に腰を下ろし、鉄格子の外を見やって溜息をついた。
 事の起こりは、二、三日前。
 風理たち親子は、『流浪の民』である妻朧嵐ろうらんの一族と共に街道を歩いていたのだが、その一団に軽装備の兵士の一団が突然襲い掛かってきたのだ。勿論、風理も一族の他の男たちも抵抗を試みたのだが、護身術としての武力しか持たない自分達ときちんと訓練された兵では力の差は歴然としている。とりあえず、風理一人が囮になり、女子供を含む一族全てを逃がすことに成功したのは奇跡というべきか。
 朧嵐がいるから、皆大丈夫だよな、多分。そう思いつつ、風理は再び溜息をついた。一人捕まってしまった風理を殺しもせず、こうして牢に繋いでおく真意は一体何か? 考えられるところは一つしかない。
 と。
 ざわめいた声と複数の足音が風理の耳に入ってくる。その音はどんどん近くなり、風理の鉄格子の前で、はたと止まった。
 ゆっくりと顔を上げると、風理達を襲ったのと同じ服装をした兵士が四、五人、牢の前に並んでいるのが見える。そして、錠を開ける音が止まるとすぐに、風理の身体はその兵達に押さえつけられた。
「お前の番だ、出ろ!」
 足枷を外されると同時に、太い縄が背中に回された手首を縛る。風理は半ば引きずられるように牢から出された。
 そしてそのまましばらく歩かされる。泥だらけの階段をよろめきながら昇ると、強い血の匂いが風理の鼻を刺激した。
 これは、やはり。自分の予感の正しさに、かえって落ち込む。風理の周りを取り囲んでいた兵士達は、風理をある扉の前に立たせた後、手首の縄を切って風理の身体を扉の外へ押し出した。
 久しぶりに見る日の光が、風理の目を射る。その瞳をのろのろと開けると、砂埃の向こうに極彩色の点がうごめくのが見えた。間違いない。ここは『闘技場』だ。娯楽と戦いと血を求める人々が、狂ったような歓声を上げている。そこに流れる空気に、風理の精神も無意識のうちに高揚してきていた。
 ふと地面に視線を落とすと、取り上げられた愛用の剣が鞘付きのまま転がっている。この剣さえあれば。剣の腕と、修羅場の潜り抜け方には自信がある。だから、きっと生きてここから脱出できるに違いない。その確信を持って、風理はゆっくりと剣を鞘から抜いた。
 だが。真向かいの扉が開いたとき、その自信は一瞬にして崩れ去る。風理の目の前に現れたのは、縦も横も彼の倍以上ありそうなオーガーと呼ばれる魔物、だった。
「……なんと」
 一族ごとさらおうとした理由は、これか。
 よくよく神経を集中してみると、風理がいる砂地の広場の周りには、魔物が観客に危害を加えないようにという配慮からだろう、魔法を無効化する『魔法結界』が張られている。これでは、風理お得意の『風魔法』は使えない。
 心に絶望が渦巻く中、一つだけほっとしたことがある。朧嵐や子供達が捕まらなくて、本当に、良かった。

 一方、その頃。
 風理の娘、珮理はいりは、天楚てんそ市にある石造りの闘技場を呆然と見上げていた。
「噂どおり、でっかい……」
 見上げても、左右を見回しても、石壁だけが延々と続いている。その石造りの建築物は、珮理を圧倒するのに十分すぎる大きさを持っていた。
 新たに天楚の王となった者が、その財力と権力を誇示する為に建てたといわれるこの闘技場では、人間と魔物との異種格闘が大きな話題を呼んでいるという。おそらく風理はここに連れ去られたに違いない。一族の大人たちがそう噂するのを小耳に挟んだ珮理はいてもたってもいられず、大人達の目をかいくぐってここまでやってきた。
 その目的はもちろん、父、風理を助け出すこと。もう七つになったのだから、自分ひとりでもきっと助け出せる。父さんにはいつも助けてもらっているから、恩返しもしたい。そんな、ある意味無謀な考えを持って、珮理は闘技場の前に立っていた。
 が、しかし。
〈……どうやって入ろう?〉
 やはり、というべきか。珮理の『冒険』は闘技場に入る前で止まってしまっていた。
 もちろん、珮理なりに努力はした。闘技場の正門から堂々と入ろうとしたのである。だがしかし、すぐに入場係の兵士に捕まり、「子供の見るものではない」と外に放り出されてしまったのである。他の入り口はないかと探し回っても、入り口という入り口には兵士が必ず立っているため中に入ることすらできない。どんどん多くなってゆく人込みの中を歩き回りながら、珮理は殆ど泣きそうになった。
 と、その時。
 背後に邪悪な人影を感じ、びくっとして立ち止まる。逃げようと考えるより速く、その人影は珮理の口を塞ぎ、その身体を太い腕で羽交い絞めにして持ち上げた。
「やっ!」
 その腕から逃れようと、必死に足をばたつかせる。しかし、どんなに頑張ってもその腕はびくともしない。口を塞がれてしまっているから、助けを叫ぶこともできない。そのまま、珮理は闘技場の中へと連れて行かれてしまった。
「どう、しよう……」
 珮理の頭の中は大混乱をきたしていた。
 とりあえず、『闘技場に入り込む』という当初の目的が達せられたのは結果オーライだが、これでは、風理を助けに行くどころか自分の身さえ危うい。
 そんな珮理を羽交い絞めにしたままの男は、真っ暗な廊下を一直線に進んでゆく。この男、自分を一体どこへ連れて行くつもりなのだろうか? 心の中で珮理が首を傾げた、ちょうどその時。
「連れてきましたぜ、新しい、生贄」
 不意に男は珮理を片手で掴んだままあるドアを開け、珮理をその部屋へと放り投げた。
「うわっ、……痛ったぁい!」
 固い床にお尻を強かに打ちつけ、思わず呻く。薬草を焦がしたような異様な匂いがその鼻を突いた。
〈な、何、ここ……?〉
 高窓からの光が、部屋を微かに照らしている。その光で見えたものは、石造りの床に描かれた円形の模様と、その横に佇む小柄なローブ姿の男。
「……ほう、やっと来たか」
 ローブの男は珮理をじろりと一瞥すると、次の瞬間、その右腕で珮理の服の裾を掴む。
「えっ!」
 そしてそのまま、珮理の抵抗には全く構わず、男はその姿からは想像もつかないほどの強力で珮理の身体を床に描かれた円の所にまで引っ張っていった。
「これでよし。……動くなよ」
 男の一瞥に、何故か身が竦んで動けなくなる。珮理が固まってしまったのを確かめると、男は満足そうに頷き、おもむろに口を開くと何やら呪文を唱え始めた。
 禍々しい響きが、薄暗い部屋中を覆う。すると。
「……え?」
 不意に、床に描かれた円が光る。そして次の瞬間、珮理が座っていた辺りの床が、突然、消えた。
「うそっ……!」
 驚く間もなく、珮理の身体は、できたての虚空に飲まれてゆく。必死になって足掻いてはみたものの、珮理のその行動をせせら笑うかのように、闇はどんどんとその深さを増していった。
〈嫌っ……!〉
 涙がぼろぼろと珮理の頬を濡らした。
 だが。再び唐突に、身体の落下が止まる。誰かに、受け止められた、と珮理の頭が理解するまでしばらくかかった。でも、こんなところで、誰が?
 首を傾げながら、ゆっくりと顔を上げる。しかし、暗闇の中、珮理を助けてくれた人の顔は全く見えなかった。触れている腕の確かさから、その人が若い男の人だということだけが何となく、分かるだけ。

 気がつくと、珮理は再び床に円の描かれた部屋にいた。
 ローブ男の頭が遥か下方に見える。
「……こんなやせっぽちを捧げられても、こっちが困る」
 不意に、珮理の頭上から声が降ってくる。
 見上げた珮理の瞳に映るのは、黒髪を瞳の近くまで垂らした鋭い目の男。その口元は威厳に満ちており、そしてその顔は年寄りにも、又かなり若くも見えた。
 男は珮理を左手一本で抱えたまま、右手でローブ男の頭を鷲掴みにすると、蹴り一つでその男を床に描かれた円の中に叩き込む。
「そんなに魔物が呼びたきゃ、自分が行きな」
 そしてその手を軽く振ると、あっという間もなくそのローブ姿は闇の中へと消えてしまった。
「まあ、お前なんか、誰も喜んで喰いはしないだろうがな」
 後に残ったのは、珮理と、珮理を助けてくれた長身の男のみ。
「……さて、と、次は」
 男は軽く溜息をつくと、珮理を意外に優しく床に下ろしてくれた。
「お前はもう行け」
 そして珮理の頭を軽くぽんと叩くと、出口を指し示してこれまた意外に優しい声でそう言った。
「もう捕まるんじゃないぞ」
「あ、ありがとう」
 見上げた珮理の目に映る男の瞳に、先ほどまでの鋭さは全く見当たらない。その眼だけ見ていると、先ほどまでの言動が俄かに信じられなくなる。この人は一体『誰』、なのだろうか? しかし、いくら首を捻ってみても、答えは出ない。だから、珮理はただこくんと頷く他、なかった。
「それでいい。……早くここから去れ」
 男はもう一度珮理の髪をくしゃっと撫でると、後は珮理に背を向けたまま部屋を出て行った。
 後に残された珮理は、しばらく呆然と男が出て行った戸口を見ているだけだった。が。
「……あ」
 不意に思い出す。ここに来た、目的、は……!
「父さん!」
 ぼやぼやしてはいられない。珮理は大急ぎで部屋を出、廊下をくるりと見回してから見当のつけた方向へ一目散に駆け出した。

 その頃、闘技場では、風理がオーガー相手に苦戦を強いられていた。
〈……ここまでは、何とか……〉
 倒したオーガーの巨体の横にうずくまり、荒い息を吐く。
 とりあえず、先に出て来た奴と次に出て来た奴の二体は倒した。だが、自分の身体のほうが既に限界だ。これ以上何か出てきたら、例えそれが非力な魔物でも倒すことは不可能。冷静に、風理は自分の残り体力を判断していた。魔法がほぼ使えない状態でのこの戦績は上等だと自分では思うのだが、この『異種格闘試合』の主催者はそうは思っていないらしい。その証拠に、魔物出場ゲートが再び大きく開くのが風理の目にはっきりと見えた。
〈もう、これまで、か……〉
 諦めが、全身を貫く。しかし、それでも。最後の力を振り絞って立ち上がり、風理は剣を構えた。
 そして入場ゲートを凝視する。
「……おや?」
 ゲートに立った細長い影に、風理は目を疑った。
 観客のほうも拍子抜けしたのだろう。先ほどまでの歓声が一気に小さくなる。その影はどう見ても『魔物』には見えなかった。むしろどう見たって『人間』である。しかしその男がまとっている空気、は。無意識に、全身が震える。しかし風理がその理由を考える間も無く。
「……愚かな人間どもだ」
 その呟きが風理の耳に入ると同時に、男が不意にその右腕を天高く掲げる。
 次の瞬間、闘技場全体が地響きに襲われた。
「……何っ!」
 魔法結界を無視した男の『魔法』が、闘技場を覆う。
 観客の歓声が悲鳴に変わった。
「そんな……!」
 おそらく彼は、観客ごと闘技場を破壊するつもりなのだろう。そう考える間もなく、風理の身体は無意識のうちに動き、剣を地面に突き刺しそこに向かって気持ちを集中させた。
 『魔法結界』の為か効きは悪かったが、それでも地響きは少しずつ静まってゆく。
 しばらく経つと、闘技場は元の平常を取り戻した。
「あ、れ……」
 先ほどまでは確かに『魔法』は使えなかったのに。これは一体どうしたことだろう。自分の力の働きに一番戸惑ったのは、風理自身。
 その風理の目の前に細長い影が立つ。先ほどまでゲートの前にいた『魔物』だ。風理がそう理解するまでしばらくかかった。
「お前、は、一体……!」
 風理の頭上で発せられる男の声には、明らかに戸惑いが含まれている。
 だが。次の瞬間。
「邪魔をするようなら、消すまでだ!」
 裂帛の気合と共に、頭上から手刀が降ってくる。肉体的にはへとへとの風理はそれでも何とか避けたが、その拍子に足がもつれてしまい、硬い砂の上に倒れこんでしまった。
 それを好機と見た男の蹴りが容赦なく襲ってくる。風理は闘技場中を転がることで、何とかその攻撃を避けた。だが、いつまで逃げることができるか? そう思った風理の背中に痛みが走る。男の蹴りが命中したのだ。
「くっ……!」
 あまりの痛さに身を縮めた風理を男はいとも簡単に持ち上げると、今度はその右手で風理の首を鷲掴みにする。
「うっ……!」
 身体に力が入らず、もがくこともできない。
 周りの景色がゆっくりとぼやけていった。
 と、その時。
「父さん!」
 珮理の声が、確かに、聞こえた気が、した。

 地響きに足を取られながらも、珮理が闘技場の広場に辿り着いたのは、ちょうど風理が男に捕まったときだった。
「あ……」
 目の前の光景に言葉を失う。珮理を助けてくれた男が、風理の首を絞めている。
「父さん!」
 とにかく、何とかしないといけない。その想いだけで、珮理は男のほうに大急ぎで近づこうとした。
 だが。
 珮理と男の間にあった小山が、急に動き出す。あっという間に、珮理の目の前を、縦も横も珮理の三倍はあろうかというオーガーが塞いだ。そしてそのまま、オーガーは珮理に覆いかぶさってゆく。
「きゃあっ!」
 珮理は頭を抱えて目を閉じることしかできなかった。
 が、しかし。何も起こらない。
「……え?」
 珮理はそろそろと目を開け、そして瞠目した。
 あの男の背中が、珮理の目の前にあった。男が、風理の首を絞めていたその右腕一本で、オーガーの牙を止めていた、のだった。
「……そんなに怪我をして、大変だっただろう」
 その所業に全く似合わない優しい声が、珮理の耳に届く。男がオーガーの顔を本当に優しげに撫でているのが、珮理の瞳にはっきりと映った。
「もう誰もお前の生活を邪魔しない。魔界に帰るがいい」
 男がその言葉を発するのとほぼ同時に。オーガーの姿は、あっという間に、闘技場から消えてしまって、いた。
「あ……」
 目の前のことが信じられない。この男は、珮理のことを二回も救ってくれた。けれども。風理の首を絞めていたのも、この男だ。
〈どう、しよう……?〉
 珮理は正直途方にくれた。
 と。
 首を傾げた珮理の視線に、風理が倒れているのが映る。
「父さん!」
 次の瞬間、珮理は大急ぎで風理のところにまで駆け出していた。
 風理の傍でそっとしゃがみ、倒れている人に母の朧嵐がやっていたように風理の口元に手を当てる。微かな温かみが、風理がまだ生きていることを珮理に知らせた。
「良かった……」
 珮理は心底ほっとした。
 背後に影を感じ、はっとして振り向く。珮理の目の前に、あの男が、すっくと立って、いた。
「なっ……!」
 珮理は即座に腰の短剣を抜くと、風理を庇うように男の前に立った。先ほど助けてくれたことには本当に感謝している。だが、彼が風理の首を絞めていたことは確かなのだ。これ以上父さんに何かすることは、絶対に許さない。
 しかし。
「……済まなかった」
 男の口から出た意外な言葉に、一瞬拍子抜けする。この、人は、一体……? しかし珮理が首を傾げている間に、男は珮理にくるりと背を向けると、そのまま元いたゲートのほうへと歩み去って行く。
「ちょ、ちょっと、待って!」
 その後姿を、珮理は思わず呼び止めた。
 彼にまだ、オーガーから守ってくれた御礼を言っていない。それに……。珮理は首に巻いていた白いスカーフを外すと、男に駆け寄り、おそらくオーガーの牙で怪我をしたのであろう男の血の付いた右腕をそのスカーフで縛った。珮理の行動に、男は一瞬不審そうな顔をしたが、特に珮理を止め立てるようなことはしなかった。
「これでいいわ」
 男の腕に巻かれた白いスカーフをそっと触ってから、珮理は男に向かってにこっと笑いかけた。その笑い顔が、珮理の精一杯の御礼。
 そんな珮理を、男は表情も変えずに一瞥すると、再び珮理に背を向けた。
 黒服の男の中で、右腕のそこだけが白い。そしてそのまま、男は風の中へと消えて、いった。
「……ん」
 それをぼうっと見送っていた珮理の背後でうめき声がする。
 はっとして振り向くと、風理がゆっくりとその身を起こしているのが、見えた。
「父さん!」
 思わず飛びつく。
「……珮理?」
 風理の戸惑い声が珮理の耳元で、確かに、聞こえた。

「……なんでそんな危ないことをするの、珮理!」
 風理と共に何とか闘技場を抜け出し、『流浪の民』の一族のもとに帰った珮理は、予想通り、母朧嵐からたっぷり説教を喰らった。
「全く、ちゃんと生きていたからいいようなものを」
 朧嵐の怒りの言葉は留まるところを知らない。
 その説教を神妙に聞きながらも、珮理の頭の中は、あの男のことでいっぱいだった。
 魔物に優しく、人間を憎んでいる声。老人にも、若者にも見えるその表情。そして、珮理を抱き止めてくれた時の、あの腕の強さ。
〈結局、あの人は、一体、『誰』だったのだろう?〉
 疑問だけが、珮理の頭の中をぐるぐると巡って、いた。
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