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第2章 市松改めイッチー
6.
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うんうん唸りながらカフェのデザインをしていた数日後。
私はクライアントからお叱りを受けていた。
「思っていたのと全然違う!」
四十代くらいのクライアントの女性が叫び、キンキンとした声が応接室兼社長室に響く。
私は耳が痛くなったが、隣に座る網代さんは平然としていた。
「なんか薄暗くて陰気な感じがするし。
中途半端なロフトが使いづらいし。
あんなんじゃ、開店できない!」
我慢して黙って聞いていたが、散々な言われようだ。
彼女のアパレルショップのデザインは夏音さんが担当していた。
しかし夏音さんは子育て中の在宅勤務であまり出社してこない。
だから私が勉強を兼ねて補佐に就いていたので、いまクレームを受けている。
別に、夏音さんに文句を言いたいわけじゃない。
むしろこんな理不尽な目に遭っているのが彼女じゃなく私でよかったと思う。
「しかしですね、そちらのご要望どおりにしたわけですが……」
「プロならこういう事態になるのがわかっていたでしょ!」
女性が吠え、耳がキーンとした。
ええ、だから壁紙はもう少し明るい色の方がいいと提案したし、ロフトは返って邪魔になるからやめた方がいいとも提案した。
けれど、暗い色の方がお洒落だからーとか、ロフトは絶対に必要とか押し切ったのは彼女だ。
しかもならば少しでもそれがなんとかなるようにいろいろ出してみたが、それもまったく聞く耳持たず。
そして最終。
『私の言うとおりにしていればいいのよ!』
と彼女がキレ、こちらはなにも言えなくなった。
天倉社長はこうなることを見越してそのときは僕が対応するからと言ってくれたが、あいにくの不在。
代わりに先輩方が相手をしようとしたが、担当じゃないとダメだと噛みつかれ、いまの状態になっている。
こちらが耐え忍んで黙って聞いているからか、女性は言いがかりとも取れるクレームまでつけてきた。
店の立地が悪いとか、もうこちらの責任ではない。
はい、はい、とひたすら相槌を打ちながら隣をちらりと見る。
網代さんは最初から変わらず姿勢を正したまま、真顔で座っている。
あれはもしかして無の境地に入っているんだろうか。
私なんてずっと胃がキリキリと痛んでいるのに羨ましい。
「その、仰りたいことはわかりました。
天倉が帰りましたら伝え、対応いたしますので……」
とにかくなにも約束をするなと彼女と対峙する前に先輩方から言い含められた。
私もそれが正解だとわかっている。
下手に言質を取られたら、さらに面倒な事態になる。
「私はいますぐ、あの店を直してほしいの!」
激昂した彼女がテーブルを叩くと同時に隣からはぁっと呆れるようなため息の音が聞こえ、思わずそちらを見ていた。
「こちらはそちらのご注文に従っただけです」
「……ちょ、網代さん」
淡々と彼が話しはじめ、マズいと止めた。
しかし彼はかまわずに続けていく。
「こうなることを想定して、改善案も出させていただきました。
なのに押し切ったのはそちらです。
終いには弊社のデザイナーを恫喝までして」
やめさせようと膝を叩いていた手は、強い意志で握りしめられた。
それでもうなにも言えなくなって、おとなしく黙る。
「なのに弊社へ、和倉へ責任を押しつけるのはお門違いではないですか」
わなわなと震えながらクライアントの顔が赤くなっていく。
これ以上は絶対にダメだと掴まれた手を振りほどこうとするが、びくともしない。
「弊社に非はありません。
あるとすればクライアントの人間性を見抜けずに、こんな依頼を受けてしまったことですね」
「うるさい!」
網代さんが言い切ると同時に、ばしゃりと勢いよくお茶がかけられる。
「バ、バカにして!
訴えてやるから覚えてらっしゃい!」
はーはーと荒い息で立ち上がった女性はいかにも悪者っぽい台詞を吐き、足音も荒く帰っていった。
「……お茶だからいいか」
いまの状況にふさわしくない、ごく普通の声が聞こえ、主を見る。
主である網代さんは眼鏡を外し、何事もなかったかのようにハンカチで拭いていた。
髪からぽたぽたと滴を垂らしながらのそれは、あまりにも間抜けすぎておかしくなってきた。
「……なに、やってるんですか。
眼鏡もですけど顔も拭かなきゃですよ」
「そうか。
そうだな」
ハンカチを出し、網代さんの顔と濡れた服を拭いてやる。
「その。
……ありがとうございました」
感情を逆なでするようなことは言うべきではないとわかっていた。
それでも、私の言いたいことを網代さんが言ってくれ、すっきりした。
「僕は別に、事実を言っただけだ」
彼が眼鏡をかけた耳は赤い。
「それに、お茶をかけられたのがイッチーじゃなく僕でよかった」
眼鏡の下で目尻を下げ、ふわりと愛しむように網代さんが笑う。
その顔に胸がとくんと甘く鼓動した……気がした。
「あ、えっと、……よくないですよ!」
顔が滅茶苦茶熱くて、早口になってしまう。
「冷えてたからよかったですけど、熱かったら怪我していたかもしれないんですよ!」
「それは考えてなかったな。
わるい」
真剣に網代さんがあやまり、勝った気になって少し気持ちが落ち着いた。
いや、なんに勝ったのかまったくわからないが。
「これからは気をつけてくださいね!」
「そうする」
よし、これで終わりだと立ち上がる。
ドアの方を向いたら天倉社長とその他社員の皆さんが中をのぞいていた。
「話は終わったかい?」
皆、ニヤニヤ笑っていて、一度は落ち着いた顔の熱が一気に戻ってきた。
私はクライアントからお叱りを受けていた。
「思っていたのと全然違う!」
四十代くらいのクライアントの女性が叫び、キンキンとした声が応接室兼社長室に響く。
私は耳が痛くなったが、隣に座る網代さんは平然としていた。
「なんか薄暗くて陰気な感じがするし。
中途半端なロフトが使いづらいし。
あんなんじゃ、開店できない!」
我慢して黙って聞いていたが、散々な言われようだ。
彼女のアパレルショップのデザインは夏音さんが担当していた。
しかし夏音さんは子育て中の在宅勤務であまり出社してこない。
だから私が勉強を兼ねて補佐に就いていたので、いまクレームを受けている。
別に、夏音さんに文句を言いたいわけじゃない。
むしろこんな理不尽な目に遭っているのが彼女じゃなく私でよかったと思う。
「しかしですね、そちらのご要望どおりにしたわけですが……」
「プロならこういう事態になるのがわかっていたでしょ!」
女性が吠え、耳がキーンとした。
ええ、だから壁紙はもう少し明るい色の方がいいと提案したし、ロフトは返って邪魔になるからやめた方がいいとも提案した。
けれど、暗い色の方がお洒落だからーとか、ロフトは絶対に必要とか押し切ったのは彼女だ。
しかもならば少しでもそれがなんとかなるようにいろいろ出してみたが、それもまったく聞く耳持たず。
そして最終。
『私の言うとおりにしていればいいのよ!』
と彼女がキレ、こちらはなにも言えなくなった。
天倉社長はこうなることを見越してそのときは僕が対応するからと言ってくれたが、あいにくの不在。
代わりに先輩方が相手をしようとしたが、担当じゃないとダメだと噛みつかれ、いまの状態になっている。
こちらが耐え忍んで黙って聞いているからか、女性は言いがかりとも取れるクレームまでつけてきた。
店の立地が悪いとか、もうこちらの責任ではない。
はい、はい、とひたすら相槌を打ちながら隣をちらりと見る。
網代さんは最初から変わらず姿勢を正したまま、真顔で座っている。
あれはもしかして無の境地に入っているんだろうか。
私なんてずっと胃がキリキリと痛んでいるのに羨ましい。
「その、仰りたいことはわかりました。
天倉が帰りましたら伝え、対応いたしますので……」
とにかくなにも約束をするなと彼女と対峙する前に先輩方から言い含められた。
私もそれが正解だとわかっている。
下手に言質を取られたら、さらに面倒な事態になる。
「私はいますぐ、あの店を直してほしいの!」
激昂した彼女がテーブルを叩くと同時に隣からはぁっと呆れるようなため息の音が聞こえ、思わずそちらを見ていた。
「こちらはそちらのご注文に従っただけです」
「……ちょ、網代さん」
淡々と彼が話しはじめ、マズいと止めた。
しかし彼はかまわずに続けていく。
「こうなることを想定して、改善案も出させていただきました。
なのに押し切ったのはそちらです。
終いには弊社のデザイナーを恫喝までして」
やめさせようと膝を叩いていた手は、強い意志で握りしめられた。
それでもうなにも言えなくなって、おとなしく黙る。
「なのに弊社へ、和倉へ責任を押しつけるのはお門違いではないですか」
わなわなと震えながらクライアントの顔が赤くなっていく。
これ以上は絶対にダメだと掴まれた手を振りほどこうとするが、びくともしない。
「弊社に非はありません。
あるとすればクライアントの人間性を見抜けずに、こんな依頼を受けてしまったことですね」
「うるさい!」
網代さんが言い切ると同時に、ばしゃりと勢いよくお茶がかけられる。
「バ、バカにして!
訴えてやるから覚えてらっしゃい!」
はーはーと荒い息で立ち上がった女性はいかにも悪者っぽい台詞を吐き、足音も荒く帰っていった。
「……お茶だからいいか」
いまの状況にふさわしくない、ごく普通の声が聞こえ、主を見る。
主である網代さんは眼鏡を外し、何事もなかったかのようにハンカチで拭いていた。
髪からぽたぽたと滴を垂らしながらのそれは、あまりにも間抜けすぎておかしくなってきた。
「……なに、やってるんですか。
眼鏡もですけど顔も拭かなきゃですよ」
「そうか。
そうだな」
ハンカチを出し、網代さんの顔と濡れた服を拭いてやる。
「その。
……ありがとうございました」
感情を逆なでするようなことは言うべきではないとわかっていた。
それでも、私の言いたいことを網代さんが言ってくれ、すっきりした。
「僕は別に、事実を言っただけだ」
彼が眼鏡をかけた耳は赤い。
「それに、お茶をかけられたのがイッチーじゃなく僕でよかった」
眼鏡の下で目尻を下げ、ふわりと愛しむように網代さんが笑う。
その顔に胸がとくんと甘く鼓動した……気がした。
「あ、えっと、……よくないですよ!」
顔が滅茶苦茶熱くて、早口になってしまう。
「冷えてたからよかったですけど、熱かったら怪我していたかもしれないんですよ!」
「それは考えてなかったな。
わるい」
真剣に網代さんがあやまり、勝った気になって少し気持ちが落ち着いた。
いや、なんに勝ったのかまったくわからないが。
「これからは気をつけてくださいね!」
「そうする」
よし、これで終わりだと立ち上がる。
ドアの方を向いたら天倉社長とその他社員の皆さんが中をのぞいていた。
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皆、ニヤニヤ笑っていて、一度は落ち着いた顔の熱が一気に戻ってきた。
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