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第八章 夏初さんとは結婚を前提にお付き合いさせていただけたら
8-1
「ねえ夜桜。
これ、どうしたらいいの?」
声をかけられて、緊張で喉がひゅっと息を吸い込んだのがわかった。
自分に言い聞かせ、ゆっくり息をしようと心がける。
しかし相手は私のそんな様子に気づかず、話し続けた。
「てか、私忙しいんだから夜桜、やっておいて」
キーボードの上に投げ出された書類を無言で見つめる。
だんだんと指先が冷え、周囲の声が遠くなっていく。
自分がちゃんと、呼吸ができているのか自信がない。
「なにやってるの」
軽く背中を叩かれ、意識が目の前に戻ってきた。
「篠木さん。
それはあなたの仕事でしょ?
わからないなら憲吾先生に聞いて。
あなたはここの事務員じゃないんだから」
斉藤さんに目配せされ、近くにいた女性事務員が私を立たせる。
そのまま支えて、奥の若手先生たちのスペースへ連れていった。
大内先生が立ち上がって椅子を空け、私を座らせてくれる。
「大丈夫?」
私の前にしゃがみ、両手を握ってくれた大内先生に黙ってうんと頷く。
「オレ、なんか飲み物取ってくる」
すぐに栗下先生がスペースを出ていった。
彼女――篠木さんから話しかけられただけで発作を起こしかけている自分が情けない。
パーティションの向こうからは斉藤さんと篠木さんのやりとりが聞こえていた。
「だからー。
憲吾がいないから聞いてるんじゃない」
「憲吾じゃなくて憲吾先生」
不満げに篠木さんから抗議され、斉藤さんが不快そうに注意する。
「はいはい。
憲吾センセイいないからわかんないんですぅ。
帰ってくるまでにやっとけって言われたのにぃ」
わざとらしく語尾を伸ばして篠木さんに絡まれ、斉藤さんはとうとう大きなため息をついた。
「それは私が教えます。
憲吾先生の部屋へ行って」
「ええーっ。
夜桜がしてくれるって言ったのにー」
斉藤さんが文句たらたらの篠木さんを連れていってくれてほっと息をつく。
いつのまにか私が彼女の仕事を承知したことになっていて、驚いた。
「陽川先生、呼んできた」
「夏初!」
少しして戻ってきた栗下先生を押しのけるようにして、晴貴さんが私の前に立つ。
「もう大丈夫だ」
安心させるようにゆっくりと頬を撫でられ、ようやく身体の力が抜けた。
「僕の部屋に行こう」
晴貴さんの腕が背中に回り、立とうとした――が。
「あ、歩けます……」
彼に抱きかかえられ、あまりの恥ずかしさに声はか細くなった。
「ダメだ」
しかし晴貴さんの心配は最高潮らしくそのまま事務室を連れ出され、彼の部屋の、ソファーの上にようやく下ろしてもらえた。
「安心していい、あの女はここまで入ってこられない。
そうだ、なにか飲み物持ってこようか」
膝を折って目をあわせ私を心配していた彼だが、飲み物を取りに行こうと勢いよく立ち上がる。
そのタイミングでドアがノックされた。
「はい」
半ば苛立ちながら晴貴さんがドアを開ける。
「これ。
よかったら」
「あ、ありがとう」
栗下先生に水のペットボトルを差し出され、戸惑い気味に晴貴さんは受け取った。
「夏初。
飲めるか?」
「ありがとう、ございます」
ペットボトルを受け取った、手はまだ震えていた。
蓋は緩めてくれていて、そういう気遣いがありがたい。
ゆっくりと数口、水を飲んで長く息を吐きだした。
「事務室には入るなと言ってあるのに」
「そう、ですね」
怒っている晴貴さんになんと答えていいのかわからず、曖昧に笑うしかできない。
晴貴さんにも、所長からも採用を大反対されたというのに、憲吾先生は強引に篠木さんを雇った。
『事務所じゃなくオレ個人が雇うんなら問題ないだろ!
だいたい、オヤジが秘書をつけてくれないから困ってるんだ!』
……と押し切った。
所長は篠木さんの依頼を受けようとしただけでなく彼女を雇うまでした憲吾先生を、独立という形で縁を切ろうと本気で考えているようだ。
彼女がこれから同じ職場で働くのだと知ったとき、おろおろとパニックになった。
彼女は私をよく思っていないし、名指しではなかったが酷い誹謗中傷をSNSに投稿していた。
また、なにかされるのではと不安が拭いきれない。
所長は事務室に出入り禁止、私との接触も禁止すると約束してくれたが、コピー機等は共用なので事務室には入れる。
そしてとうとう、恐れていた事態が起きてしまった。
「夏初。
夏初の机、僕の部屋に移さないか」
それは篠木さんの採用が決まった直後にも晴貴さんに提案されたことだった。
私が晴貴さんの部屋にいれば篠木さんはここまで入ってこないし、接触も減る。
わかっていたが事務室に残ったのは、まだ自分の仕事に自信がないからだ。
いまだ、斉藤さんや他の事務員によく質問をする。
こんな状態でひとり離れて仕事ができるのか、不安だった。
「そう、ですね。
考えてみます」
けれど篠木さんから声をかけられるたびに今日のように発作を起こしていれば、周りに迷惑をかける。
少し、考えたほうがいいのかもしれない。
これ、どうしたらいいの?」
声をかけられて、緊張で喉がひゅっと息を吸い込んだのがわかった。
自分に言い聞かせ、ゆっくり息をしようと心がける。
しかし相手は私のそんな様子に気づかず、話し続けた。
「てか、私忙しいんだから夜桜、やっておいて」
キーボードの上に投げ出された書類を無言で見つめる。
だんだんと指先が冷え、周囲の声が遠くなっていく。
自分がちゃんと、呼吸ができているのか自信がない。
「なにやってるの」
軽く背中を叩かれ、意識が目の前に戻ってきた。
「篠木さん。
それはあなたの仕事でしょ?
わからないなら憲吾先生に聞いて。
あなたはここの事務員じゃないんだから」
斉藤さんに目配せされ、近くにいた女性事務員が私を立たせる。
そのまま支えて、奥の若手先生たちのスペースへ連れていった。
大内先生が立ち上がって椅子を空け、私を座らせてくれる。
「大丈夫?」
私の前にしゃがみ、両手を握ってくれた大内先生に黙ってうんと頷く。
「オレ、なんか飲み物取ってくる」
すぐに栗下先生がスペースを出ていった。
彼女――篠木さんから話しかけられただけで発作を起こしかけている自分が情けない。
パーティションの向こうからは斉藤さんと篠木さんのやりとりが聞こえていた。
「だからー。
憲吾がいないから聞いてるんじゃない」
「憲吾じゃなくて憲吾先生」
不満げに篠木さんから抗議され、斉藤さんが不快そうに注意する。
「はいはい。
憲吾センセイいないからわかんないんですぅ。
帰ってくるまでにやっとけって言われたのにぃ」
わざとらしく語尾を伸ばして篠木さんに絡まれ、斉藤さんはとうとう大きなため息をついた。
「それは私が教えます。
憲吾先生の部屋へ行って」
「ええーっ。
夜桜がしてくれるって言ったのにー」
斉藤さんが文句たらたらの篠木さんを連れていってくれてほっと息をつく。
いつのまにか私が彼女の仕事を承知したことになっていて、驚いた。
「陽川先生、呼んできた」
「夏初!」
少しして戻ってきた栗下先生を押しのけるようにして、晴貴さんが私の前に立つ。
「もう大丈夫だ」
安心させるようにゆっくりと頬を撫でられ、ようやく身体の力が抜けた。
「僕の部屋に行こう」
晴貴さんの腕が背中に回り、立とうとした――が。
「あ、歩けます……」
彼に抱きかかえられ、あまりの恥ずかしさに声はか細くなった。
「ダメだ」
しかし晴貴さんの心配は最高潮らしくそのまま事務室を連れ出され、彼の部屋の、ソファーの上にようやく下ろしてもらえた。
「安心していい、あの女はここまで入ってこられない。
そうだ、なにか飲み物持ってこようか」
膝を折って目をあわせ私を心配していた彼だが、飲み物を取りに行こうと勢いよく立ち上がる。
そのタイミングでドアがノックされた。
「はい」
半ば苛立ちながら晴貴さんがドアを開ける。
「これ。
よかったら」
「あ、ありがとう」
栗下先生に水のペットボトルを差し出され、戸惑い気味に晴貴さんは受け取った。
「夏初。
飲めるか?」
「ありがとう、ございます」
ペットボトルを受け取った、手はまだ震えていた。
蓋は緩めてくれていて、そういう気遣いがありがたい。
ゆっくりと数口、水を飲んで長く息を吐きだした。
「事務室には入るなと言ってあるのに」
「そう、ですね」
怒っている晴貴さんになんと答えていいのかわからず、曖昧に笑うしかできない。
晴貴さんにも、所長からも採用を大反対されたというのに、憲吾先生は強引に篠木さんを雇った。
『事務所じゃなくオレ個人が雇うんなら問題ないだろ!
だいたい、オヤジが秘書をつけてくれないから困ってるんだ!』
……と押し切った。
所長は篠木さんの依頼を受けようとしただけでなく彼女を雇うまでした憲吾先生を、独立という形で縁を切ろうと本気で考えているようだ。
彼女がこれから同じ職場で働くのだと知ったとき、おろおろとパニックになった。
彼女は私をよく思っていないし、名指しではなかったが酷い誹謗中傷をSNSに投稿していた。
また、なにかされるのではと不安が拭いきれない。
所長は事務室に出入り禁止、私との接触も禁止すると約束してくれたが、コピー機等は共用なので事務室には入れる。
そしてとうとう、恐れていた事態が起きてしまった。
「夏初。
夏初の机、僕の部屋に移さないか」
それは篠木さんの採用が決まった直後にも晴貴さんに提案されたことだった。
私が晴貴さんの部屋にいれば篠木さんはここまで入ってこないし、接触も減る。
わかっていたが事務室に残ったのは、まだ自分の仕事に自信がないからだ。
いまだ、斉藤さんや他の事務員によく質問をする。
こんな状態でひとり離れて仕事ができるのか、不安だった。
「そう、ですね。
考えてみます」
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少し、考えたほうがいいのかもしれない。
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登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。