契約書は婚姻届

霧内杳/眼鏡のさきっぽ

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第13話 花嫁修業

8.久しぶりに聞く声

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幾分、気持ちに折り合いをつけて風呂をあがると、準備してあったパジャマで身を包んだ。
さらに置いてあるガウンを着て、部屋を出ると、執事の男が立っていた。

「あの……」

「こちらへ」

「……はい」

男の連れられてきたリビングでは、尚恭がタブレットを睨んでいた。
朋香に気付くと顔を上げ、柔らかく目を細めて笑う。

「少しは落ち着きましたか」

「……おかげさまで」

進められて向かい合うソファーに座ると、尚恭が合図を出すかのように、男の向かって僅かに頷いた。
男の方は軽くあたまを下げると、足音も立てずにその場を去っていく。

「申し訳ありません。
駆けつけるのが遅くなってしまって」

「いえ、私の方こそ、ありがとうございました」

「あたまを上げてください!
朋香さんが礼を云う必要など、なにもないんですから」

あたまを下げると、慌てて尚恭から止められた。
姿勢を戻すと、レンズ越しに目のあった尚恭が、困ったように笑った。

「本当に申し訳ありません。
連絡を受けてすぐに駆けつけたのですが、あそこに入るには私でも、いろいろ面倒なのです」

「はあ……。
その、……連絡、って」

少し、引っかかっていた。
どうして尚恭に自分の状況がわかったのだろう、と。

「本邸には数人、スパイを潜り込ませています。
ああ、私だけではないですよ。
尚一郎も潜り込ませているはずです」

「そうなんですか……」

家族間でスパイが必要などと、押部の家はいったい、どうなっているのだろう。

単純に尚一郎が嫌いだからだと思っていた。
けれど問題はもっと、複雑なようだ。

「失礼します」

急に視界に入ってきた男に驚いた。
先ほどの男が、やはり音もなく戻ってきていたから。
手にした銀の盆の上に載る、大きめのフリーカップを朋香の目の前に置くと、また一礼して去っていった。

「どうぞ。
飲めばきっと、よく眠れます」

「ありがとうございます」

カップの中身はホットミルクだった。

微かに、いい香りがする。

カップを包み込むように手で持つと、じんわりと温もりが指先からしみこんでいく。

ふーふーと冷ましてカップをゆっくりと傾けると、中身は人肌程度で適温だった。

こくん、一口飲むと、口の中に僅かな甘みと、いい匂いが広がる。
どうも、蜂蜜とブランデー入りらしい。

「これ。
お返ししておきます」

「あっ……。
ありがとう、ございます」

尚恭がテーブルの上に滑らせたのは、本邸で没収された携帯電話と指環だった。
指環を左手薬指に嵌めると、やっと尚一郎の元に戻ってこれた気がして泣きそうになったが、我慢した。

「尚一郎に連絡してやってください。
きっといまごろ、生きた心地がしてないはずですから」

「でも、時差とか」

「心配しなくても、いま、向こうは昼間です。
それに、尚一郎もスパイを潜り込ませていると云ったでしょう?
この件はすでに、尚一郎の耳に届いているはずです。
連絡を入れて、安心させてやってください」

「わかりました」

尚一郎の声が聞ける、そう思うといてもたってもいられない。
そわそわし始めた朋香に、尚恭がおかしそうにくすりと笑った。

「あの部屋は好きに使ってもらってかまいません。
では、おやすみなさい」

「おやすみなさい」

尚恭にあたまを下げると携帯を手に、ぎりぎり歩く速度で与えられた部屋に向かう。
待ちきれなくてドアを勢いよくばたんと閉めると、ベッドにダイブした。
切られていた携帯の電源を入れたとたん。

ピコピコピコ!

鳴り出した着信音に、慌てて携帯を耳に当てる。

「も……」

『朋香、無事かい!?』

「尚一郎さん……」

久しぶりに聞く尚一郎の声に、じわじわと涙が上がってくる。
それはぽろりと落ちると、そのままぽろぽろと落ち続ける。

「尚一郎さん、尚一郎さん、尚一郎さん……うっ、ひっく」

『朋香?
泣いているのかい?』

「泣いてなんか、ない、です、ひっく、よ」

落ちる涙を拭い、必死で誤魔化してみたものの、完全に鼻声でしゃくりあげていれば誤魔化せない。

『いま、朋香の涙を拭えない自分が恨めしい』
「だから、泣いてなんて、ひっく、ないです、って」

『朋香……。
Scheisse!(くそ!)
なんで僕はいま、朋香の傍にいないんだ!』

初めて、尚一郎の汚い言葉遣いを聞いた。
それほど自分を心配してくれているのが嬉しいのと同時に、情けない気持ちになる。

「ごめん、な、さい。
大丈夫、ひっく、とか、云っておいて、こんな」

『朋香が謝ることなんてなにもないよ。
むしろ、朋香はよく頑張ってた。
あんなこと、耐える必要なはい』

「で、でも。
尚一郎、さん、が」

『CEOになにか云われたのかい?
気にしなくていい、朋香になにもないのが一番大事だから』

「でも、でも……」

達之助は恐ろしい人間だ。
本当に、尚一郎に手を出しかねない。
それがわかっているからこそ、不安と後悔しかない。
『朋香!』

「は、はい!」

携帯の向こうから怒鳴られて、びくっと身体が震え、一瞬、涙が止まった。

『落ち着いて。
CEOになにを云われたのか知らないけど、僕はちゃんと、元気で朋香の元に帰るから。
約束する。
だから僕を、信じて待ってて』

「……はい」

そっとなだめるように、尚一郎の手にあたまを撫でられた気がした。
そのせいか、少しずつ気持ちが落ち着いていく。

『今日はもう、なにも考えずにゆっくり寝て。
いいね』

「あの、尚一郎さん」

『なんだい?』

僅かに、尚一郎の声が不安げになった気がした。
きっとまだ、自分を心配しているのだろう。
「眠るまで、なにか話していてくれますか?」

『いいよ。
そうだな、フランスの街はとてもきれいでね……』

今回は仕事でどこにも行けないが、以前、観光で回ったフランスの様子を尚一郎は話してくれた。
いつか、朋香と一緒に回りたい、と。

『朋香?
もう眠ったのかい?
Gute Nacht,traum was schoenes(おやすみ、よいゆめを)』
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