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第壱帖・白藤の情念
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黒漆を塗り込めた笠を被り藤づくしの衣装を着、大きな藤の花枝を肩に担いで踊る。背後には藤に絡まれた松の大木。
松は男を、藤は女を象徴している。
なかなか意のままにならぬ男心を恨めしく思いながら、切々と舞い踊る。やがて酒に酔い興に乗っていると夕暮れになり、藤娘も仕方なく姿を消す。これが、日本舞踊の演目『藤娘』の大まかな内容だ。
肩に担いだ藤の花枝。被っていた黒塗りの笠を巧みに操り、裾を微塵たりとも乱さない。艶やかに舞う茉莉の指先にまで色香が漂い、観客は息を詰めて舞台上の藤娘を見つめている。妖艶でありながら可憐さも残している。初夏に華やかに花房を垂らす藤の精が乗り移ったかのようだ。藤づくしの振り袖を、松の大木を模した衝立へと下がるたびに、素早く着替えて舞う。目も心も奪われる観衆は、新たに誕生した若い師範の――将来の家元の舞踊に魅せられていた。演目が終わると惜しみない拍手が響き、それは舞台が次の演目のために暗転しても尚、鳴り止まなかった。
全ての演目が無事に終わり、茉莉は大役を果たせた安堵感から疲労を覚えた。だが明後日には婚約者の手掛かりを求めて、福井県へ向かわねばならない。幸いにも宗家や家元は茉莉の踊りを褒めてくれ、お披露目は大成功に終わったといえるだろう。
祖母の跡目は母が継ぎ自分は更にその次だが、いずれは茉莉も池園流の家元となる身。まだ25歳だが、その双肩には流派の未来が重くのしかかっていた。何はともあれ今夜は身体を休め、遠出のために鋭気を養わねばならない。早々に休むことにした。
久遠家は福井県といっても京都に近い処にあり、亘が失踪した九頭竜ダムがある大野市は、岐阜県に隣接する。運転免許を持っていない茉莉が名古屋から出発するならば、東海道新幹線で米原駅まで行き、そこからローカル線を乗り継いで行くのが近道のようだ。現段階では北陸新幹線はまだ、久遠家のある嶺南地方の端まで延伸されていないどころか、ルート決定すら不明だ。
白を基調としたワンピースに身を包んだ茉莉は、和服の時とは印象が違い溌剌として見える。それでも幼少の頃から稽古をしてきただけあって、その身のこなしは優雅である。鞄の中には亘の写真を入れてある。久遠家から持ってきて欲しいと要請があり、茉莉は笑顔で写る2人の写真と彼単独の写真を見繕ってきた。
丹波山地にある旧名田庄村は平成18年に大飯町と合併し、現在おおい町と呼ばれている。陰陽師の安倍晴明の子孫である土御門家が応仁の乱で荘園を所有していたこの地に逃れ、陰陽道を伝えた。久遠家は応仁の乱以前に分家した家の更に分家の家系で、正直言って無関係といっても差し支えないほど本家との繋がりは遠い。というよりも、本家からは存在を抹消されているといっても過言ではないほど、付き合いはとうの昔に絶えていた。
山に囲まれたそこは、言葉の訛りやアクセントも京都に近い。どことなく漂う空気が今は喪われた公家文化を残しているようで、茉莉は何となく懐かしい思いを抱いた。日本人のDNAに刻み込まれた、京は天子の坐す都という認識が、無意識に働いたのかもしれない。
タクシーで行こうかしらと茉莉が考えていたところ、もし、と声を掛けられた。見れば70前半の老女が茉莉の顔を見つめていた。
「失礼ですが、池園茉莉さまでいらっしゃいますか? わたくし久遠家の使用人の、百原千佐子と申します」
丁寧に頭を下げる彼女は和服姿であったが、下は袴と靴を履いていた。一瞬だが、大正時代の女学生さんみたいな格好だと思ってしまった。
「お迎えに参りました。久遠家にご案内いたしますので」
小回りの利く軽自動車が女たちを出迎え、千佐子の袴と靴は運転のためかと得心がいく。20分ほど南に向かって揺られ、やがて右手に折れると坂を上っていく。更に15分ほど進めば立派な屋敷が見えてきた。洋館ではなく数寄屋造りのその日本家屋は、100坪は軽くある広さだ。駐車場を兼ねた玉砂利を敷いた前庭を含めると、150坪はあるだろう。その前庭の隅に車を停め、千佐子は茉莉を玄関へと導いた。
奥座敷に通し茶と茶菓子を出すと、
「当主を呼んで参りますので」
と去っていってしまった。
ひとり残された茉莉は、開け放たれた障子から見える奥庭に咲く、色とりどりの躑躅をぼんやりと眺めていた。
しんと静まり返っている家屋内。自分と千佐子以外は誰もいないのではないのかと錯覚するほど、静寂に包まれている。取り敢えず当主が来なければ話にならないので、茉莉は茶と躑躅を堪能することにした。
ぼんやりと躑躅を眺めながら、そういえば亘と初めて出会ったときも躑躅が咲く今の時期だったと、思い起こしていた。
松は男を、藤は女を象徴している。
なかなか意のままにならぬ男心を恨めしく思いながら、切々と舞い踊る。やがて酒に酔い興に乗っていると夕暮れになり、藤娘も仕方なく姿を消す。これが、日本舞踊の演目『藤娘』の大まかな内容だ。
肩に担いだ藤の花枝。被っていた黒塗りの笠を巧みに操り、裾を微塵たりとも乱さない。艶やかに舞う茉莉の指先にまで色香が漂い、観客は息を詰めて舞台上の藤娘を見つめている。妖艶でありながら可憐さも残している。初夏に華やかに花房を垂らす藤の精が乗り移ったかのようだ。藤づくしの振り袖を、松の大木を模した衝立へと下がるたびに、素早く着替えて舞う。目も心も奪われる観衆は、新たに誕生した若い師範の――将来の家元の舞踊に魅せられていた。演目が終わると惜しみない拍手が響き、それは舞台が次の演目のために暗転しても尚、鳴り止まなかった。
全ての演目が無事に終わり、茉莉は大役を果たせた安堵感から疲労を覚えた。だが明後日には婚約者の手掛かりを求めて、福井県へ向かわねばならない。幸いにも宗家や家元は茉莉の踊りを褒めてくれ、お披露目は大成功に終わったといえるだろう。
祖母の跡目は母が継ぎ自分は更にその次だが、いずれは茉莉も池園流の家元となる身。まだ25歳だが、その双肩には流派の未来が重くのしかかっていた。何はともあれ今夜は身体を休め、遠出のために鋭気を養わねばならない。早々に休むことにした。
久遠家は福井県といっても京都に近い処にあり、亘が失踪した九頭竜ダムがある大野市は、岐阜県に隣接する。運転免許を持っていない茉莉が名古屋から出発するならば、東海道新幹線で米原駅まで行き、そこからローカル線を乗り継いで行くのが近道のようだ。現段階では北陸新幹線はまだ、久遠家のある嶺南地方の端まで延伸されていないどころか、ルート決定すら不明だ。
白を基調としたワンピースに身を包んだ茉莉は、和服の時とは印象が違い溌剌として見える。それでも幼少の頃から稽古をしてきただけあって、その身のこなしは優雅である。鞄の中には亘の写真を入れてある。久遠家から持ってきて欲しいと要請があり、茉莉は笑顔で写る2人の写真と彼単独の写真を見繕ってきた。
丹波山地にある旧名田庄村は平成18年に大飯町と合併し、現在おおい町と呼ばれている。陰陽師の安倍晴明の子孫である土御門家が応仁の乱で荘園を所有していたこの地に逃れ、陰陽道を伝えた。久遠家は応仁の乱以前に分家した家の更に分家の家系で、正直言って無関係といっても差し支えないほど本家との繋がりは遠い。というよりも、本家からは存在を抹消されているといっても過言ではないほど、付き合いはとうの昔に絶えていた。
山に囲まれたそこは、言葉の訛りやアクセントも京都に近い。どことなく漂う空気が今は喪われた公家文化を残しているようで、茉莉は何となく懐かしい思いを抱いた。日本人のDNAに刻み込まれた、京は天子の坐す都という認識が、無意識に働いたのかもしれない。
タクシーで行こうかしらと茉莉が考えていたところ、もし、と声を掛けられた。見れば70前半の老女が茉莉の顔を見つめていた。
「失礼ですが、池園茉莉さまでいらっしゃいますか? わたくし久遠家の使用人の、百原千佐子と申します」
丁寧に頭を下げる彼女は和服姿であったが、下は袴と靴を履いていた。一瞬だが、大正時代の女学生さんみたいな格好だと思ってしまった。
「お迎えに参りました。久遠家にご案内いたしますので」
小回りの利く軽自動車が女たちを出迎え、千佐子の袴と靴は運転のためかと得心がいく。20分ほど南に向かって揺られ、やがて右手に折れると坂を上っていく。更に15分ほど進めば立派な屋敷が見えてきた。洋館ではなく数寄屋造りのその日本家屋は、100坪は軽くある広さだ。駐車場を兼ねた玉砂利を敷いた前庭を含めると、150坪はあるだろう。その前庭の隅に車を停め、千佐子は茉莉を玄関へと導いた。
奥座敷に通し茶と茶菓子を出すと、
「当主を呼んで参りますので」
と去っていってしまった。
ひとり残された茉莉は、開け放たれた障子から見える奥庭に咲く、色とりどりの躑躅をぼんやりと眺めていた。
しんと静まり返っている家屋内。自分と千佐子以外は誰もいないのではないのかと錯覚するほど、静寂に包まれている。取り敢えず当主が来なければ話にならないので、茉莉は茶と躑躅を堪能することにした。
ぼんやりと躑躅を眺めながら、そういえば亘と初めて出会ったときも躑躅が咲く今の時期だったと、思い起こしていた。
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