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1章

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カタリーナは唇に柔らかいものが触れるのを感じ体をびくりとさせ、思わず目を開くとそこにはエヴァトリスの淡麗な姿があった。近すぎて表情は分からないが肌のキメが細かいことと、まつげが長いことはよく分かり、目が離せなくなる。触れるだけの唇が離れていくと漆黒の瞳が開きそれが宝石の様に美しい。両手でカタリーナの頬を触り顔の距離が20センチ程の距離まで離れる。視線を絡ませながらのエヴァトリスの微笑みはもはや凶器であり体が熱くなるのを止められない。そのまま額同士を合わせた状態で
「男の前でそんな無防備な姿をさらしてはいけないよ。このまま私の部屋に連れて行って帰したくなくなったしまう。」
カタリーナとしては、そんな色気だだ漏れの状態で甘い言葉を吐かないでもらいたいが、それを言える雰囲気ではない。話の流れを変えなくてはいけないと思ったカタリーナは、同席していた侍女に助けを求めて視線を向けるが、いつの間にか向かいの席に移動していた侍女は窓の方を向いておりこちらに視線を向ける気配はない。先程までの出来事を見られていなかったことを嬉しく思えば良いのか、助けてくれる人がいなくて悲しめばよいのかカタリーナは分からなくなったが、こうなると、自分で解決するしかない。まずは、先ほどのエヴァトリスの質問に答えなくてはいけないはずだ。羞恥心からカタリーナはたどたどしい言葉使いになってしまう。
「ル、ルルーシュからは、未婚の男性と2人きりで会うと・・・、その、殿下が、ヤ、ヤキモチを妬かれると・・・」
話しているうちに、カタリーナの恥ずかしさは増していく。エヴァトリスとの距離があるため先程よりはマシであるが、誰に文句を言えば良いか分からないが、とにかくこの状況に異議を唱えたい。先程までの不機嫌が嘘のようにご機嫌なエヴァトリスの笑みは深くなるばかりだ。
「何度でも伝えるよ。私はカタリーナだけを愛しているし、今後他の人を愛することはないよ。貴女の理想の男性になれるように座学をうけ、まだまだ一部だけれど今は公務も行なっている。武術だって怠ったことはないよ。私が頑張るのは国を思うカタリーナの為だよ。ただ、どんなに努力しても、カタリーナの年上にはなれない、だから私よりも年上の人と話していると・・・、カタリーナが頼っている姿を見ると悔しくてたまらない。リシャールと、比べるとまだまだ私は子どもだけれどそれでも貴女が頼りたく思うよな人になって見せるからもう少し待ってくれる?」
先程までは羞恥心でいっぱいだったカタリーナだが、エヴァトリスの真っ直ぐな想いを前に胸の奥が痛くなるのがわかる。
過去の心に誓ったエヴァトリスにとっての幸せが何かを考えずにはいられなかった。この胸の奥の苦しみが何から来るのかは分からないが、ここまで想いを伝えられて胸がときめかないはずもない。馬車の中では無言の時間が過ぎていく。いつのまにかカタリーナの左手とエヴァトリスの右手が指を絡めるように握られている。
「あまりにも姉弟のように過ごした時間が長く、まだ私自身の気持ちがどういうものかはわかりませんが、殿下が望むのであれば・・・1人の男性として接して行きたく思います。私は、殿下には幸せになってもらいたいんです。私が聖魔法を使えるばっかりに殿下が恋をする機会をうばう事になりました。王家に忠誠を誓った者として、どうすれば殿下を幸せにできるのか考えさせて下さい」
その言葉にエヴァトリスは少し悲しそうな表情を浮かべた。
「私の幸せは私が決める。それを誰かに譲るつもりはないよ。だから・・・カタリーナ、早く私のことを好きになって。」
そのまま握っていた手の甲に唇を落とす。それからの2人は無言だったが、決して苦痛というわけではない。静かに馬車は進み公爵家に到着する。政務の途中であったエヴァトリスは、公爵家に足を踏み入れることなく、門の前でカタリーナが玄関を潜るの見送った。その後、馬に跨り王宮に戻って行った。

エヴァトリスは王宮に着くなり執務室に急ぐ。予定外の外出を行なったため、今日分の予定を消化できるよう調整し直さなくてはいけないからだ。
その後を急ぎ足でルルーシュが追いかける。馬車の中でのやり取りを知らないルルーシュはエヴァトリスの精神状態が心配だった。話を聞き、少しでもエヴァトリスの憂いをなくしたいと思ったのだ。ルルーシュからするとあのカタリーナとリシャールが恋愛沙汰になっているとは到底思えないため、フォローならいくらでもできると考えたのだ。だが、執務室にはいってからのエヴァトリスの機嫌は良いものであり、どうやら杞憂に終わったようだ。
「落ち着いているみたいでよかったよ。馬車の中で何か良いことでもあったの?」
こんなことを聞かなくても良いことがあったのは一目瞭然だが一応声をかける。
「とりあえずはね。嫌ではあるけどこればっかりは仕方がないし、カタリーナがリシャールの事を恋愛対象として見ているようには見えないからね。」
エヴァトリスは馬車でエステルと会話することで、一呼吸置くことができたようだ。
「そうだね。そっち方面の姉上は本当に残念な令嬢だからね。それはもう、殿下に申し訳なくなるくらいには」
思わず苦笑いを浮かべてしまうが仕方のないことだろう。
「ただ、リシャール殿がどう思っているかは別だね。ルルーシュはどう思う?」
その言葉にルルーシュは顔を引きつらせる。
「正直分からない。あの様子だと姉上にかなり心を許しているのはわかる。あの、あからさまな嫌味も含めると万が一を考えた方が良いかもしれない。ただ、リシャールが殿が、殿下の婚約者に手をだすようなバカな真似は絶対にしないとも言い切れるよ」
おそらく、同じ事を考えているだろうエヴァトリスに視線を向ける。
「そうだよね。だから、ルルにお願いしたいんだ。私が神殿に一緒に行けない時は様子を見に行ってくれる?君は僕に嘘をつかないから」
「嘘は言わないけど、不要だと思った情報は伝えないかな?面倒ごとはごめんだからね。姉上関係については特にだよ。」
おどけた表情で話すルルーシュを前にエヴァトリスの表情は変わらない。
「本当なら全部報告して欲しいけど。ルルはカタリーナを傷つける事はしないから、それで良いよ。この国の、この現状でカタリーナを幸せに出来るのは私だけだからね。ルルは絶対に私を裏切らない」
内心どきりとするがそれは表情に出さない。
「そこまで信用されるってのも怖いなー。まぁ、話はこれぐらいにし私も帰るよ。じゃぁね」
軽い調子で手を振って部屋を出る。部屋を出る前に
「本当にどこまで気づいてるのか」
ルルーシュは小さな声でつぶやく。その声色に先程までのおどけた調子はない。返事を求めるものではなく、そのままドアを閉めてエヴァトリスの執務室を後にした。
部屋に残されたエヴァトリスにルルーシュの小さな声は届いていた。だが、あえて本人の前では答えない。ルルーシュが答えを求めて居ないのを知っているからだ。ドアがしっかりしまったのを確認して小さなため息をついた。
「全部知ってるよ。ルルは本当に優しすぎる。だから、気づかないふりを続けるのは私からの優しさだよ」
エヴァトリスの独り言は部屋の中で誰に聞かれるでもなく消えて行った。
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