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司祭の思惑
ラッセル、あるいはクリス
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モルズ教団の教祖ブレイドが姿を消してから次の日。
一連の事件に文字通り巻き込まれた俺は事後処理として報告書の作成に追われていた。
目の前にうず高く積まれた書類の影からひょこりと青髪が覗く。
「カイン先輩、災難でしたねえ! 何か手伝いましょうか?」
数日前に勘違いからとはいえ、裏切り者のレッテルを貼り付けた俺に変わらず話しかけてきたのはラッセルもといクリスだ。
なんでも孤児の頃の名前はラッセルであり、男爵家に養子として引き取られた時につけられた名前がクリスという。
教会や市役所に登録した名前は正式な名前であるクリスではなくラッセルだった為に変に勘ぐってしまったのだ。
その件で大目玉を食らった彼は思い切ってクリスという名前を捨てたらしい。
どういう経緯で名前を捨てるに至ったのかは知らないが、過去のことを熱心に話したがらないので無理に聞くのも野暮というもの。
一定の距離を置こうとしたのだがーー
「先輩、先輩! 飲みにいきましょうよ!」
ーーどうやらそれがいけなかったらしい。
以前にも増して馴れ馴れしく距離を詰めてくるようになった。
杜撰な仕事は流石に改めるようになったため、段々と断るのも面倒になって食事だけは付き合うようになったことも拍車をかけているようだ。
「この書類の束が片付いたらな」
控えめなノックと共にドアが開き、書類の束を持ってきた教会騎士が机の上に置くと労いの言葉と共に退出する。
その光景をひくひくとドン引きした様子のラッセルは見守り、恐る恐るという顔で振り向く。
「先輩……それ昨日から言ってますよ?」
「片付ける側から書類は増える。まるで錬金術師になったようだ」
「あああ、すっかり隈がこびりついちゃってますねえ。最近は薄くなってたのに」
「ほっとけ」
かれこれ丸一日書類を作成し、上に提出しているのだが、まるで嫌がらせのように突き返されている。
いや実際嫌がらせ目的だろう。
ここの司祭長はかつて俺の兄と一悶着あったらしい。
いい加減割り切ってほしいのだが、どうもそうはいかないようだ。
神殿の調査の件といい、あの手この手で俺を失脚させようとするのは本当に勘弁してほしい。
「これ、今日中に終わりませんよね。期日はいつまでです?」
「明日の朝」
「……うわあ」
書類の束を見つめ、辟易とした表情を隠すことなく浮かべるラッセル。
「これは外食する暇すらなさそうですね。あ、じゃあ近くの店で何か買ってきます!」
「おい待て、ほら金だ」
「いつものバーガー十個でいっすか?」
バーガーを買うに足りるだけの紙幣を渡す。
露骨に安堵したラッセル、つくづく感情が顔に出る男だ。
上機嫌に買い出しに向かった背中を見送り、記入が済んだ資料を纏めて一旦長めの休憩を取ることにした。
軽く頭痛を感じ始め、眉間を指先でぐりぐりと揉み解しながら体を伸ばす。
長時間のデスクワークで硬くなっていた体を伸ばすと関節がゴキゴキと鳴る。
どうも他人より魔力の多いこの体は燃費が悪いようで、人並みの食事では半日と持たない。
そういえば前に俺が注文した料理を見て彼女は目を丸くしていたな、と想いを馳せる。
昨日、教会の病院に引き渡した時点で命に別条はないらしい。
治療を担当した医者によれば、今の彼女は体力を使い果たしたらしく、今もこんこんと眠り続けているようだ。
そろそろ目を覚ましてもおかしくはないという話だった。
目が覚めたら何と声をかけるべきか。
気の利いた台詞なんて一つも思い浮かばず、参考までにラッセルや知り合いの男の言動を反芻するがどれもいまいちピンと来ない上に歯が浮くような言葉は逆立ちしても言えるわけがない。
『死ななくて良かった』『助けてくれてありがとう』
ここまでなら言葉にできるが、それ以上となるとどう考えても違和感を覚えるような言葉しか出てこない。
例え変な事を言ったとしてもサナは受け流すだろうが、それではダメなのだ。
嫌われているなら、いっそ正面切って罵倒された方が遥かに心が楽になるのだが、きっと彼女はそんな事をしないだろう。
そんな確信に近い信頼がまた俺の心をきりきりと蝕む。
こんな時に限って思い出すのは彼女との関係が一気に変化した過去の出来事。
廃墟と化した神殿の調査に赴いた時のことだ。
「クソッ、徹夜続きで疲れていたからって低級な魔法罠に引っ掛かる俺も俺だ!」
頭を抱えて悩んでも何の意味も為さない。
後の祭り、後悔先に立たず……何度悔やんでも過去は過去。
やり直すことなどできやしないのだ。
よりによって、強姦すれすれの状況で童貞を喪い、挙句処女を奪うとは教会勤めの人間が行なっていい行動ではない。
「その後も……ああ、クソッ、俺一回死んだ方がいいんじゃねえか!?」
正気に戻った時に俺がまず一番最初に気にかけたことは自分の将来だった。
金で黙らせるか実家の権力を使ってもみ消し、彼女に泣き寝入りさせるしかないと覚悟を決めた矢先。
あっさりするほど彼女はその件を水に流すと言い放ち、更にはもう一度と誘ってきたのだ。
そこであろうことか、俺はその誘いに乗った。
仕事続きで正直溜まっていたし、酒を飲んでいたこともある。
だからといってホイホイと誘いに乗った俺は本当に馬鹿だ。
せめてあの時、責任を取ると言えば多少は好感度を回復できたのかもしれないというのに。
目を閉じなくとも脳裏に過るのは、鴉の濡羽の如く黒い髪と同じ黒曜石の瞳。
香水を好まないらしく、彼女と密着しても一向に気持ち悪くならない。
女性らしく細い指にくびれたウエスト、なだらかな曲面を描きつつも健康的な柔らかさを持つ太腿。
可憐な見た目とは裏腹にいざとなれば男の一人二人は平然と叩きのめすしなやかな肢体。
それでありながら困った人に手を差し伸べる優しさを持ち、ふとした拍子に見せる表情に胸が高鳴る。
早い話が、『一度抱いたら気になってしょうがない』という典型的なダメ男の惚れ方をしてしまったのだ。
自覚したのは彼女から嗅ぎ慣れた香水に気づいた時だった。
それは【祝福】という貴族の男が女性に対して贈り物をする時によく選ばれる香水だった。
娼婦や踊り子といった平民への贈り物として有名なそれは、貴族社会では『正妻として迎える気はない』というかなり遠回しな嫌味として使われる。
『目をかけてやったんだから身の程を知れ』とサナが意中の男に言われていると知った時、我を忘れるほどに思考が怒りに支配された。
自覚した恋心と横から掠め取られた上に好いた人を乱雑に扱われている事実が許せなかった。
彼女に対して半ば八つ当たりに振る舞ったにも関わらず、結局彼女は俺を許したのだ。
「誰なんだよそのクソッタレは……ッ!」
思い出すと怒りがこみ上げてくる。
嫉妬に駆られて件の香水の瓶を叩き割り、みっともないと自覚しながらもサナの周りに近づく男を徹底的に調査したがそれらしい人物は見当たらず。
余程関係がバレたくないのか、それともとっくに彼女を捨てたのか。
いずれにせよ尻尾すら掴めない状況だった。
それとなく聞き出そうかとも考えたが、上手いこと聞き出す方法が俺に分かるはずもない。
どうしたものかと悩んでいるうちに、気がつけばズルズルと体を重ねる関係を続けている。
かつて付き合いで読まされた、三角関係を題材とした恋愛小説では、『そんな男より俺を選べ』だの『俺なら後悔させない』だの気色悪くて鳥肌が止まらないようなウザったい台詞があったが、全く参考にならない。
「戻りましたよ~先輩! って、今にも死にそうな顔してますけど大丈夫ですか!?」
人生最大級の悩みに対してなんの解決策も出せずにいると、買い出しを終えたラッセルが両手に荷物を抱えながら戻ってきた。
俺の顔を見るなりギャンギャンと騒ぎ立てるお陰で後ろ向きになりかけていた思考が中断される。
「騒がしいぞ、ラッセル。少しは落ち着け」
「うっす! あ、バーガー九個買えたんですけど一個足りなかったんで別の種類にしました。好き嫌いとかありましたっけ?」
「特にない。……助かった」
「いえいえ! それで先輩、何に悩んでるんです?」
ラッセルと共に休憩室に移動し、バーガーを無心に口に運んでいると彼が興味津々といった様子で尋ねてきた。
弱みを見せるのも自尊心が許さず、盛大に顔を顰める。
「悩んでない。お前の気のせいだろ」
「そっすか? 窓の外を見つめながらため息ついてたんで、てっきり恋の悩みかと」
「断じて違う! 俺は窓の外を見つめながらため息などついたことはない!」
ずばり言い当てられて思わず感情的に返してしまった。
怒鳴ってしまったというのにラッセルはニヤニヤと悪どい笑みを浮かべて紅茶を啜る。
「恋の悩みは否定しないんですね」
「なっ! 恋なんてしてるわけがないだろ! ハッ、子供じゃあるまいしそんな一時の感情に振り回されるなんて馬鹿馬鹿しい!」
「先輩……」
話は終わりだと呆然とした表情を浮かべるラッセルを睨みつけ、食べかけのバーガーに噛み付いて食事を再開する。
バレてないはずだ。多分。
「そういやあの女冒険者の子……サナって言いましたよね。この前受付のモニカちゃんとベラドンナちゃんの三人で出歩いているのを見かけたんですよ」
「なんだいきなり。それがどうした?」
「サナさんってモテる人にはモテるんですねえ。居合わせた何人かの男が彼女について話してましたよ」
「それで?」
バーガーのなかに入っていたピクルスをガリガリと噛み砕きながらラッセルの話に相槌を打つ。
俺以外の人間とも個人的な交流があったことに驚いたが、それよりも後半の話の方が気になる。
しかし、自分から聞きに行くというのも自白してしまうようなものだ。
「昔、彼女にしつこく言い寄った男が居たそうなんですが最近姿を見かけないらしいです。噂によれば消されたんじゃないかって」
「ハン、いいザマだな。引き際を見誤るからそうなるんだろ」
九個目のバーガーを食べ終わり、十個目のバーガーの包みを開ける。
包装紙には『サーモンバーガー』と印字された商品名のそれはバンズがパンではなく穀物を固めて焼いたものらしい。
塩気のあるサーモンと相性が良く、自分好みの味だった。
「あ、それ最近店に来たっていう怪しげな青年が家賃がわりに店主に渡したレシピを元に作ったそうです。大人気商品だそうですよ」
「確かにサーモンといえばアクアパッツァにするぐらいしかなかったからな。なかなか斬新なアイデアだ、そいつはどこから来たんだ?」
「それがいきなり現れたらしいです。どこから来たのかだけは口を閉ざしているそうで……不思議な話ですよね」
最後の一口を放り込み、包装紙をぐしゃぐしゃに丸めてゴミ箱に捨てる。
腹が膨れたおかげで陰気な気持ちをどうにか持ち直すことに成功したので、サナが目を覚ます前に残りの仕事を片付ける為に俺は仕事場へ戻った。
◇◆◇◆
「もしかしてカイン先輩、本当に気付いてないと思ってるのかな……」
確信に近い疑惑がラッセルの胸中を占める。
人との深い関わり合いを避けるはずの自分の上司が最近、女冒険者と共にいるところを何度か見かけたことがある。
最初こそは仕事の関係なのかと深く考えていなかったが、どうもカインがサナへ向ける視線が他の人へ向けるものに比べて違うのだ。
見かける度にその視線は熱が篭り、彼女がいなければ沈んだように思案に耽る。
何かトラブルでもあったのかと思ったが、サナが倒れた時の彼の慌てっぷりを見れば嫌でも勘付く。
普段の彼ならば、「物騒な話だな」で済む話をわざわざサナを庇ったのだ。
明らかに二人の関係になんらかの変化があったに違いない、とラッセルの無駄に冴え渡った直感は結論づける。
「しかし、あのカイン先輩が冒険者を好きになるとは……」
普段仲良くしている身としては応援したいのだが、手放しで喜べない事情がラッセルにはあった。
冒険者といえば流れ者、無法者、根無草で放浪者と碌な人間が少ない職業であり、社会的地位は高いとはいえない。
カインが平民出身であればなんとかなったのかも知れないが、彼の実家はよりにもよって公爵。
三男とはいえ、貴族の血に連なる人物であり、加えて【神の器】と呼ばれる他の宗教の神輿になれるだけでなく尋常ではない魔力量を持つ。
「まあ、下手に貴族の娘を充てがわれて権力争いに巻き込まれないだけマシなんですかねえ……?」
実家の駒にされていないのは偏に彼の扱いにくさが起因しているのだろう。
あまり熱心に権力を振りかざすこともなく、人嫌いともいえる偏屈な性格も合わさって、駒にするには大変面倒極まりない人物である。
ラッセルの見立てによれば、彼の実家はどうやらカインを飼い殺しにするつもりのようだ。
「それにしても先輩は何に悩んでたんでしょう? アプローチが上手くいってない、とか……?」
ラッセルが見かけた限り、サナもカインに心許しているのか温厚な表情を見せている。
なにより、ラッセルが話しかけた時との対応の違いを見れば火を見るよりも明らかである。
あの時向けられた視線は単純な警戒心だけでなく、何か別のものがあるような気がしてならない。
ーーまるで、お菓子を目の前で奪い取られることに怯えるような。
そう。
不安に駆られて思わず歯を剥き出して威嚇する犬さながら。
そこまで考えてラッセルは頭をブンブンと振る。
こればかりは当事者にしか解決できない問題であり、ラッセルの見立てが正しければいずれ二人は結ばれるだろう。
なにか問題が起きればその時に力を貸せばいい。
「あの人、不器用な上に感情表現下手だからなあ……ああ、我らが神よ! 迷える二人に神の祝福があらんことを!」
今のラッセルに出来ることは二人が上手くいくように神に祈りを捧げるだけだった。
……もっとも、二人が結ばれた暁にどうカインを揶揄ったものかと考えを巡らせているのだが、彼の内心は神のみぞ知る事実である。
一連の事件に文字通り巻き込まれた俺は事後処理として報告書の作成に追われていた。
目の前にうず高く積まれた書類の影からひょこりと青髪が覗く。
「カイン先輩、災難でしたねえ! 何か手伝いましょうか?」
数日前に勘違いからとはいえ、裏切り者のレッテルを貼り付けた俺に変わらず話しかけてきたのはラッセルもといクリスだ。
なんでも孤児の頃の名前はラッセルであり、男爵家に養子として引き取られた時につけられた名前がクリスという。
教会や市役所に登録した名前は正式な名前であるクリスではなくラッセルだった為に変に勘ぐってしまったのだ。
その件で大目玉を食らった彼は思い切ってクリスという名前を捨てたらしい。
どういう経緯で名前を捨てるに至ったのかは知らないが、過去のことを熱心に話したがらないので無理に聞くのも野暮というもの。
一定の距離を置こうとしたのだがーー
「先輩、先輩! 飲みにいきましょうよ!」
ーーどうやらそれがいけなかったらしい。
以前にも増して馴れ馴れしく距離を詰めてくるようになった。
杜撰な仕事は流石に改めるようになったため、段々と断るのも面倒になって食事だけは付き合うようになったことも拍車をかけているようだ。
「この書類の束が片付いたらな」
控えめなノックと共にドアが開き、書類の束を持ってきた教会騎士が机の上に置くと労いの言葉と共に退出する。
その光景をひくひくとドン引きした様子のラッセルは見守り、恐る恐るという顔で振り向く。
「先輩……それ昨日から言ってますよ?」
「片付ける側から書類は増える。まるで錬金術師になったようだ」
「あああ、すっかり隈がこびりついちゃってますねえ。最近は薄くなってたのに」
「ほっとけ」
かれこれ丸一日書類を作成し、上に提出しているのだが、まるで嫌がらせのように突き返されている。
いや実際嫌がらせ目的だろう。
ここの司祭長はかつて俺の兄と一悶着あったらしい。
いい加減割り切ってほしいのだが、どうもそうはいかないようだ。
神殿の調査の件といい、あの手この手で俺を失脚させようとするのは本当に勘弁してほしい。
「これ、今日中に終わりませんよね。期日はいつまでです?」
「明日の朝」
「……うわあ」
書類の束を見つめ、辟易とした表情を隠すことなく浮かべるラッセル。
「これは外食する暇すらなさそうですね。あ、じゃあ近くの店で何か買ってきます!」
「おい待て、ほら金だ」
「いつものバーガー十個でいっすか?」
バーガーを買うに足りるだけの紙幣を渡す。
露骨に安堵したラッセル、つくづく感情が顔に出る男だ。
上機嫌に買い出しに向かった背中を見送り、記入が済んだ資料を纏めて一旦長めの休憩を取ることにした。
軽く頭痛を感じ始め、眉間を指先でぐりぐりと揉み解しながら体を伸ばす。
長時間のデスクワークで硬くなっていた体を伸ばすと関節がゴキゴキと鳴る。
どうも他人より魔力の多いこの体は燃費が悪いようで、人並みの食事では半日と持たない。
そういえば前に俺が注文した料理を見て彼女は目を丸くしていたな、と想いを馳せる。
昨日、教会の病院に引き渡した時点で命に別条はないらしい。
治療を担当した医者によれば、今の彼女は体力を使い果たしたらしく、今もこんこんと眠り続けているようだ。
そろそろ目を覚ましてもおかしくはないという話だった。
目が覚めたら何と声をかけるべきか。
気の利いた台詞なんて一つも思い浮かばず、参考までにラッセルや知り合いの男の言動を反芻するがどれもいまいちピンと来ない上に歯が浮くような言葉は逆立ちしても言えるわけがない。
『死ななくて良かった』『助けてくれてありがとう』
ここまでなら言葉にできるが、それ以上となるとどう考えても違和感を覚えるような言葉しか出てこない。
例え変な事を言ったとしてもサナは受け流すだろうが、それではダメなのだ。
嫌われているなら、いっそ正面切って罵倒された方が遥かに心が楽になるのだが、きっと彼女はそんな事をしないだろう。
そんな確信に近い信頼がまた俺の心をきりきりと蝕む。
こんな時に限って思い出すのは彼女との関係が一気に変化した過去の出来事。
廃墟と化した神殿の調査に赴いた時のことだ。
「クソッ、徹夜続きで疲れていたからって低級な魔法罠に引っ掛かる俺も俺だ!」
頭を抱えて悩んでも何の意味も為さない。
後の祭り、後悔先に立たず……何度悔やんでも過去は過去。
やり直すことなどできやしないのだ。
よりによって、強姦すれすれの状況で童貞を喪い、挙句処女を奪うとは教会勤めの人間が行なっていい行動ではない。
「その後も……ああ、クソッ、俺一回死んだ方がいいんじゃねえか!?」
正気に戻った時に俺がまず一番最初に気にかけたことは自分の将来だった。
金で黙らせるか実家の権力を使ってもみ消し、彼女に泣き寝入りさせるしかないと覚悟を決めた矢先。
あっさりするほど彼女はその件を水に流すと言い放ち、更にはもう一度と誘ってきたのだ。
そこであろうことか、俺はその誘いに乗った。
仕事続きで正直溜まっていたし、酒を飲んでいたこともある。
だからといってホイホイと誘いに乗った俺は本当に馬鹿だ。
せめてあの時、責任を取ると言えば多少は好感度を回復できたのかもしれないというのに。
目を閉じなくとも脳裏に過るのは、鴉の濡羽の如く黒い髪と同じ黒曜石の瞳。
香水を好まないらしく、彼女と密着しても一向に気持ち悪くならない。
女性らしく細い指にくびれたウエスト、なだらかな曲面を描きつつも健康的な柔らかさを持つ太腿。
可憐な見た目とは裏腹にいざとなれば男の一人二人は平然と叩きのめすしなやかな肢体。
それでありながら困った人に手を差し伸べる優しさを持ち、ふとした拍子に見せる表情に胸が高鳴る。
早い話が、『一度抱いたら気になってしょうがない』という典型的なダメ男の惚れ方をしてしまったのだ。
自覚したのは彼女から嗅ぎ慣れた香水に気づいた時だった。
それは【祝福】という貴族の男が女性に対して贈り物をする時によく選ばれる香水だった。
娼婦や踊り子といった平民への贈り物として有名なそれは、貴族社会では『正妻として迎える気はない』というかなり遠回しな嫌味として使われる。
『目をかけてやったんだから身の程を知れ』とサナが意中の男に言われていると知った時、我を忘れるほどに思考が怒りに支配された。
自覚した恋心と横から掠め取られた上に好いた人を乱雑に扱われている事実が許せなかった。
彼女に対して半ば八つ当たりに振る舞ったにも関わらず、結局彼女は俺を許したのだ。
「誰なんだよそのクソッタレは……ッ!」
思い出すと怒りがこみ上げてくる。
嫉妬に駆られて件の香水の瓶を叩き割り、みっともないと自覚しながらもサナの周りに近づく男を徹底的に調査したがそれらしい人物は見当たらず。
余程関係がバレたくないのか、それともとっくに彼女を捨てたのか。
いずれにせよ尻尾すら掴めない状況だった。
それとなく聞き出そうかとも考えたが、上手いこと聞き出す方法が俺に分かるはずもない。
どうしたものかと悩んでいるうちに、気がつけばズルズルと体を重ねる関係を続けている。
かつて付き合いで読まされた、三角関係を題材とした恋愛小説では、『そんな男より俺を選べ』だの『俺なら後悔させない』だの気色悪くて鳥肌が止まらないようなウザったい台詞があったが、全く参考にならない。
「戻りましたよ~先輩! って、今にも死にそうな顔してますけど大丈夫ですか!?」
人生最大級の悩みに対してなんの解決策も出せずにいると、買い出しを終えたラッセルが両手に荷物を抱えながら戻ってきた。
俺の顔を見るなりギャンギャンと騒ぎ立てるお陰で後ろ向きになりかけていた思考が中断される。
「騒がしいぞ、ラッセル。少しは落ち着け」
「うっす! あ、バーガー九個買えたんですけど一個足りなかったんで別の種類にしました。好き嫌いとかありましたっけ?」
「特にない。……助かった」
「いえいえ! それで先輩、何に悩んでるんです?」
ラッセルと共に休憩室に移動し、バーガーを無心に口に運んでいると彼が興味津々といった様子で尋ねてきた。
弱みを見せるのも自尊心が許さず、盛大に顔を顰める。
「悩んでない。お前の気のせいだろ」
「そっすか? 窓の外を見つめながらため息ついてたんで、てっきり恋の悩みかと」
「断じて違う! 俺は窓の外を見つめながらため息などついたことはない!」
ずばり言い当てられて思わず感情的に返してしまった。
怒鳴ってしまったというのにラッセルはニヤニヤと悪どい笑みを浮かべて紅茶を啜る。
「恋の悩みは否定しないんですね」
「なっ! 恋なんてしてるわけがないだろ! ハッ、子供じゃあるまいしそんな一時の感情に振り回されるなんて馬鹿馬鹿しい!」
「先輩……」
話は終わりだと呆然とした表情を浮かべるラッセルを睨みつけ、食べかけのバーガーに噛み付いて食事を再開する。
バレてないはずだ。多分。
「そういやあの女冒険者の子……サナって言いましたよね。この前受付のモニカちゃんとベラドンナちゃんの三人で出歩いているのを見かけたんですよ」
「なんだいきなり。それがどうした?」
「サナさんってモテる人にはモテるんですねえ。居合わせた何人かの男が彼女について話してましたよ」
「それで?」
バーガーのなかに入っていたピクルスをガリガリと噛み砕きながらラッセルの話に相槌を打つ。
俺以外の人間とも個人的な交流があったことに驚いたが、それよりも後半の話の方が気になる。
しかし、自分から聞きに行くというのも自白してしまうようなものだ。
「昔、彼女にしつこく言い寄った男が居たそうなんですが最近姿を見かけないらしいです。噂によれば消されたんじゃないかって」
「ハン、いいザマだな。引き際を見誤るからそうなるんだろ」
九個目のバーガーを食べ終わり、十個目のバーガーの包みを開ける。
包装紙には『サーモンバーガー』と印字された商品名のそれはバンズがパンではなく穀物を固めて焼いたものらしい。
塩気のあるサーモンと相性が良く、自分好みの味だった。
「あ、それ最近店に来たっていう怪しげな青年が家賃がわりに店主に渡したレシピを元に作ったそうです。大人気商品だそうですよ」
「確かにサーモンといえばアクアパッツァにするぐらいしかなかったからな。なかなか斬新なアイデアだ、そいつはどこから来たんだ?」
「それがいきなり現れたらしいです。どこから来たのかだけは口を閉ざしているそうで……不思議な話ですよね」
最後の一口を放り込み、包装紙をぐしゃぐしゃに丸めてゴミ箱に捨てる。
腹が膨れたおかげで陰気な気持ちをどうにか持ち直すことに成功したので、サナが目を覚ます前に残りの仕事を片付ける為に俺は仕事場へ戻った。
◇◆◇◆
「もしかしてカイン先輩、本当に気付いてないと思ってるのかな……」
確信に近い疑惑がラッセルの胸中を占める。
人との深い関わり合いを避けるはずの自分の上司が最近、女冒険者と共にいるところを何度か見かけたことがある。
最初こそは仕事の関係なのかと深く考えていなかったが、どうもカインがサナへ向ける視線が他の人へ向けるものに比べて違うのだ。
見かける度にその視線は熱が篭り、彼女がいなければ沈んだように思案に耽る。
何かトラブルでもあったのかと思ったが、サナが倒れた時の彼の慌てっぷりを見れば嫌でも勘付く。
普段の彼ならば、「物騒な話だな」で済む話をわざわざサナを庇ったのだ。
明らかに二人の関係になんらかの変化があったに違いない、とラッセルの無駄に冴え渡った直感は結論づける。
「しかし、あのカイン先輩が冒険者を好きになるとは……」
普段仲良くしている身としては応援したいのだが、手放しで喜べない事情がラッセルにはあった。
冒険者といえば流れ者、無法者、根無草で放浪者と碌な人間が少ない職業であり、社会的地位は高いとはいえない。
カインが平民出身であればなんとかなったのかも知れないが、彼の実家はよりにもよって公爵。
三男とはいえ、貴族の血に連なる人物であり、加えて【神の器】と呼ばれる他の宗教の神輿になれるだけでなく尋常ではない魔力量を持つ。
「まあ、下手に貴族の娘を充てがわれて権力争いに巻き込まれないだけマシなんですかねえ……?」
実家の駒にされていないのは偏に彼の扱いにくさが起因しているのだろう。
あまり熱心に権力を振りかざすこともなく、人嫌いともいえる偏屈な性格も合わさって、駒にするには大変面倒極まりない人物である。
ラッセルの見立てによれば、彼の実家はどうやらカインを飼い殺しにするつもりのようだ。
「それにしても先輩は何に悩んでたんでしょう? アプローチが上手くいってない、とか……?」
ラッセルが見かけた限り、サナもカインに心許しているのか温厚な表情を見せている。
なにより、ラッセルが話しかけた時との対応の違いを見れば火を見るよりも明らかである。
あの時向けられた視線は単純な警戒心だけでなく、何か別のものがあるような気がしてならない。
ーーまるで、お菓子を目の前で奪い取られることに怯えるような。
そう。
不安に駆られて思わず歯を剥き出して威嚇する犬さながら。
そこまで考えてラッセルは頭をブンブンと振る。
こればかりは当事者にしか解決できない問題であり、ラッセルの見立てが正しければいずれ二人は結ばれるだろう。
なにか問題が起きればその時に力を貸せばいい。
「あの人、不器用な上に感情表現下手だからなあ……ああ、我らが神よ! 迷える二人に神の祝福があらんことを!」
今のラッセルに出来ることは二人が上手くいくように神に祈りを捧げるだけだった。
……もっとも、二人が結ばれた暁にどうカインを揶揄ったものかと考えを巡らせているのだが、彼の内心は神のみぞ知る事実である。
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