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病院の広大な敷地を出るぐらいには、空もすっかり夕焼けに染まる頃合いになっていた。
郊外にあるその病院には基本車か路線バスで行くしかないのだが、仕事も休みで特に急ぐ用事もないため、駈は散歩がてら、だいぶ先にある地下鉄の駅へと歩くことにした。
そして、歩きながら……時田とのやり取りを思い返していた。
電話口から聞こえた、少し気の強そうな奥さんの声。
彼は、その彼女からまだ稼いでもらわないと困る、とプレッシャーを掛けられているんだと苦笑いしていたが……その言葉の奥にある切実な願いを、彼はきっと励みにもしたのだと思う。そして彼女もまた、自らの言葉を縁に、また家族の揃う日を夢見ながら、彼を失うかもしれないという恐怖を乗り越えたのだろう。
そんな二人の固い絆に触れ、駈の脳裏に過るのはやはり英のことだった。
最近、楽曲提供はしつつもすっかり歌手として認知されるようになった英は、もともとの素材の良さに加えて色々な人に手を掛けられているせいか、いっそう目を引く外見――つまり、すごくカッコよくなってしまった気がしていた。
そして、それは見た目に限ったことだけではなかった。
彼のハスキーな低く甘い声と、そのクールな見た目に反した気取らない人柄が世に出るごとに、着実に新たなファンが増えていっているのは欲目抜きでも確かなことだった。
とはいえ、そんなことを素直に言う駈でもないのだが……テレビで、雑誌で、街頭で……と、華やかに活躍する彼の姿や声に触れるたび、駈の胸に去来するのは、以前のように自分のプライドを削られるようなそんな嫉妬心では最早なく――「本当に俺でいいのかな」という不安だった。
もちろん、みだりに自分を卑下するつもりはないし、彼の愛情を疑うことなんてない。当然、自分が彼へと向けるそれだって同じだ。お互い色々と寄り道はしながらも、ずっと思い続けていた相手なのだ。それが覆ることなんて考えられなかった。
それでも……一人で自分の部屋にいるとき、いや、彼の腕の中で目覚めるときでさえ、彼の未来に広がる選択肢を勝手に想像しては、ふとそんな思いに駆られることがあった。
だからこそ、駈はあのとき――時田に『彼とのこれから』についてああ言い切ったとき、自分自身でも少し、驚いてしまったのだった。
ポケットに突っ込んでいた両手を出す。
冷たい冬の空気が、その乾燥気味の手に突き刺さるようだった。
「……」
ここが都会であることを忘れてしまいそうなほど人気のない静かな歩道で、駈はその左手を目の前に翳す。
薬指の指輪は、澄んだ空に輝く夕日を受け、温かい色に煌めいていた。
と、バッグの中でスマホが振動する。
取り出して画面を見ると、英からの着信だった。
「……もしもし」
「駈、今大丈夫?」
「うん」
「……というか、もしかして外?」
おそらく、今吹き付けてきた北風のせいだろう。
「ああ。ええと……○○病院を出て、今地下鉄に向かってるところなんだ」
昨日電話をしたときに見舞いの件は伝えていたので、特に変な心配をすることはないはずだ。
だが、英は「えっそうなの?」と声を上げる。
「どうかしたか?」
「いや、今、その病院に来てたから」
「お前、今日収録じゃなかったっけ?」
「いや、そうだったんだけど……意外と早く終わってさ。だから、駈に会いたいな、って思って」
「……」
素直にそう言われてしまうと、駈はいつも言葉に詰まってしまう。
それでも、英はその無言の意味をしっかり汲んでくれたらしい。
「今、どのへん?」
「えっと、あともう少しで大きな道路に出るあたりで、近くにガソスタがあって……」
「オッケー、今行くから少し待ってて」
それから五分するかしないかぐらいで、道路の向こうから、あの黒いSUVが姿を現す。
「駈!」
窓から顔を出した英に、駈は慌ててきょろきょろと辺りを見回したが、そこにはやはり人ひとりおらず、ホッと胸を撫で下ろす。
駈は急いで車へと駆け寄り乗り込むと、ふう、と息を吐いた。
「ごめん、駈。寒かったよね」
「いや、そんなには……」
「嘘だ。だって、こんなに赤くなってる」
英はそう言って、駈の頬へと手を伸ばす。
駈は咄嗟にその手を振り払った。
「おまっ、やめろよそういうの!」
「えっ、何で?」
「誰が見てるか、分からないだろ!」
駈はそう言って、バッと顔を背けた。
「……おい、何か言えよ」
なぜか黙ったままでいる英を、駈がそろそろと伺う。
すると、英は堪えきれず、ふふっと声を上げて笑った。
「英っ!」
駈が眉を吊り上げる。
「俺はな! お前が、その……っ」
張り上げた声は徐々に尻すぼみになっていく。
すっかり俯いてしまった駈へ、英は静かに微笑んだ。
「ありがとう、駈。俺のこと心配してくれて」
「いや、別に……」
「でも、俺は別に恋愛禁止のアイドルでもないし、そんなに気にしなくたっていいよ」
「……!」
その台詞に、駈はぎょっとして英へと振り返った。
「いやいや、お前、何言ってんだよ」
「……ん?」
「今、どれだけお前にそういうファンが付いてるか、分かってるよな?」
「ああ……そりゃ、まぁね」
英はそうとだけ言うと、「じゃあ、俺の家でいい?」と車のエンジンを掛けようとする。
そんな危機感のない英に、駈はハァ、と大きくため息を吐いた。
「英、お前、本当に分かってんのかよ……」
「……」
その言葉に、英はさっきのような返事をすることはなかった。
その代わり、駈のように深く息を吐くと。
「……駈まで、マネージャーみたいなこと言わないでよ」
英はうんざりとそう呟いて、「……ごめん」と小さく付け足した。
郊外にあるその病院には基本車か路線バスで行くしかないのだが、仕事も休みで特に急ぐ用事もないため、駈は散歩がてら、だいぶ先にある地下鉄の駅へと歩くことにした。
そして、歩きながら……時田とのやり取りを思い返していた。
電話口から聞こえた、少し気の強そうな奥さんの声。
彼は、その彼女からまだ稼いでもらわないと困る、とプレッシャーを掛けられているんだと苦笑いしていたが……その言葉の奥にある切実な願いを、彼はきっと励みにもしたのだと思う。そして彼女もまた、自らの言葉を縁に、また家族の揃う日を夢見ながら、彼を失うかもしれないという恐怖を乗り越えたのだろう。
そんな二人の固い絆に触れ、駈の脳裏に過るのはやはり英のことだった。
最近、楽曲提供はしつつもすっかり歌手として認知されるようになった英は、もともとの素材の良さに加えて色々な人に手を掛けられているせいか、いっそう目を引く外見――つまり、すごくカッコよくなってしまった気がしていた。
そして、それは見た目に限ったことだけではなかった。
彼のハスキーな低く甘い声と、そのクールな見た目に反した気取らない人柄が世に出るごとに、着実に新たなファンが増えていっているのは欲目抜きでも確かなことだった。
とはいえ、そんなことを素直に言う駈でもないのだが……テレビで、雑誌で、街頭で……と、華やかに活躍する彼の姿や声に触れるたび、駈の胸に去来するのは、以前のように自分のプライドを削られるようなそんな嫉妬心では最早なく――「本当に俺でいいのかな」という不安だった。
もちろん、みだりに自分を卑下するつもりはないし、彼の愛情を疑うことなんてない。当然、自分が彼へと向けるそれだって同じだ。お互い色々と寄り道はしながらも、ずっと思い続けていた相手なのだ。それが覆ることなんて考えられなかった。
それでも……一人で自分の部屋にいるとき、いや、彼の腕の中で目覚めるときでさえ、彼の未来に広がる選択肢を勝手に想像しては、ふとそんな思いに駆られることがあった。
だからこそ、駈はあのとき――時田に『彼とのこれから』についてああ言い切ったとき、自分自身でも少し、驚いてしまったのだった。
ポケットに突っ込んでいた両手を出す。
冷たい冬の空気が、その乾燥気味の手に突き刺さるようだった。
「……」
ここが都会であることを忘れてしまいそうなほど人気のない静かな歩道で、駈はその左手を目の前に翳す。
薬指の指輪は、澄んだ空に輝く夕日を受け、温かい色に煌めいていた。
と、バッグの中でスマホが振動する。
取り出して画面を見ると、英からの着信だった。
「……もしもし」
「駈、今大丈夫?」
「うん」
「……というか、もしかして外?」
おそらく、今吹き付けてきた北風のせいだろう。
「ああ。ええと……○○病院を出て、今地下鉄に向かってるところなんだ」
昨日電話をしたときに見舞いの件は伝えていたので、特に変な心配をすることはないはずだ。
だが、英は「えっそうなの?」と声を上げる。
「どうかしたか?」
「いや、今、その病院に来てたから」
「お前、今日収録じゃなかったっけ?」
「いや、そうだったんだけど……意外と早く終わってさ。だから、駈に会いたいな、って思って」
「……」
素直にそう言われてしまうと、駈はいつも言葉に詰まってしまう。
それでも、英はその無言の意味をしっかり汲んでくれたらしい。
「今、どのへん?」
「えっと、あともう少しで大きな道路に出るあたりで、近くにガソスタがあって……」
「オッケー、今行くから少し待ってて」
それから五分するかしないかぐらいで、道路の向こうから、あの黒いSUVが姿を現す。
「駈!」
窓から顔を出した英に、駈は慌ててきょろきょろと辺りを見回したが、そこにはやはり人ひとりおらず、ホッと胸を撫で下ろす。
駈は急いで車へと駆け寄り乗り込むと、ふう、と息を吐いた。
「ごめん、駈。寒かったよね」
「いや、そんなには……」
「嘘だ。だって、こんなに赤くなってる」
英はそう言って、駈の頬へと手を伸ばす。
駈は咄嗟にその手を振り払った。
「おまっ、やめろよそういうの!」
「えっ、何で?」
「誰が見てるか、分からないだろ!」
駈はそう言って、バッと顔を背けた。
「……おい、何か言えよ」
なぜか黙ったままでいる英を、駈がそろそろと伺う。
すると、英は堪えきれず、ふふっと声を上げて笑った。
「英っ!」
駈が眉を吊り上げる。
「俺はな! お前が、その……っ」
張り上げた声は徐々に尻すぼみになっていく。
すっかり俯いてしまった駈へ、英は静かに微笑んだ。
「ありがとう、駈。俺のこと心配してくれて」
「いや、別に……」
「でも、俺は別に恋愛禁止のアイドルでもないし、そんなに気にしなくたっていいよ」
「……!」
その台詞に、駈はぎょっとして英へと振り返った。
「いやいや、お前、何言ってんだよ」
「……ん?」
「今、どれだけお前にそういうファンが付いてるか、分かってるよな?」
「ああ……そりゃ、まぁね」
英はそうとだけ言うと、「じゃあ、俺の家でいい?」と車のエンジンを掛けようとする。
そんな危機感のない英に、駈はハァ、と大きくため息を吐いた。
「英、お前、本当に分かってんのかよ……」
「……」
その言葉に、英はさっきのような返事をすることはなかった。
その代わり、駈のように深く息を吐くと。
「……駈まで、マネージャーみたいなこと言わないでよ」
英はうんざりとそう呟いて、「……ごめん」と小さく付け足した。
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