レグノリア戦記

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プロローグ

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 夜空は、雲に覆われていた。
 白く見える筈の雲は灰色に染まり、明日を占ってくれる星々を覆い隠している。

 無言で歩く兵士達の足取りは重い。
 波打ち際を項垂うなだれて歩く軍馬の足元を、夜の静かな波が洗う。

 背中にしがみ付いている姉のライラは、ずっと歯を食いしばってすすり泣いている。
 兄の名を呼び、兄と一緒に死ねなかった事が悔しいと、小さな声で何度も繰り返している。
 生き残れた事に安堵しているテオは、生を悔やむ姉に慰める言葉を持たなかった。

 ここは通称北大陸と呼ばれるレグノリア大陸の最東端。
 巨大な壁の様に聳え立つ、トッソ台地の麓に広がったククリ浜である。
 ククリ沖に突如軍船が現れたとの報を受けて、カイソ地方の領主であるテオの父親へカルーサ国王から撃退命令が出されたのである。

 昨夜、テオの父親は篝火を焚いて必勝を祈願した。
 大地神殿の前で幻想的な炎の明かりに浮かび上がった鬨の声を挙げる一万の兵は、神兵の様に神々しく勇壮に映り、壇上に並んだ父親や兄や姉は軍神の様に思えた。
 半人前のテオは、荷駄の上からそれを眺めていた。
 そして深夜に領都を出発し、高揚する気持ちに後押しされて、未明のククリ浜へ到着した。

 敵兵は既にククリ浜の東端に展開していた。
 無数の敵を見た時には、テオは現実味が持てなかった。
 銀色に輝く鎧と甲を纏い、整然と並ぶ敵兵の姿が余りにも美しかったのだ。

 テオの父親は、背後を取られない様にとトッソ台地を背に陣を敷いた。
 そして戦場の作法にのっとり、総大将として敵前へ単騎で歩み出て、大音声で名乗りを上げた。
 敵の総大将もそれに応じて名乗りを上げ、それぞれの総大将が帰陣後、鳴矢が放たれてから戦いが始まるのが戦場の作法だった。

 だが、作法を無視した敵兵が突然矢をテオの父親に射かけた。
 無数の弓による無数の矢の一斉射撃。
 単発的に狙いを定めて弓を用いる習慣しか無いレグノリアの民が、初めて目にする弓兵として組織された部隊の攻撃だった。
 そしてテオは、美しい美術品の様に見えた敵の姿は、それが殺戮を目的とした恐怖を体現した姿だと悟った。

 テオの父親も馬も、無数の矢に貫かれて倒れた。
 激怒したテオの兄達は、怒号を上げて騎馬で敵兵に向かって突進したが、敵兵へ辿り着く前に、雨の様に降り注いだ敵の矢に射殺されてしまった。

 鉄の鎧と鉄の盾で身を固めた敵兵が、鉄の穂先の長槍を突き出して前進を開始すると、総大将を失ったテオの味方の雑兵達は、次々に逃げ出した。
 だがその逃げ惑う無防備な雑兵達を、敵の無慈悲な槍が容赦無く次々に貫いて行く。
 その飛び散る血と倒れる仲間を見て、テオの味方は恐慌状態となった。

 小柄で華奢なテオは、半人前の男として、戦いの様子を詩として残す戦語部として従軍し、部隊の後方の小さな櫓からこの惨劇を眺めていた。

 戦力差は圧倒的だった。
 テオの見る限り、恐らく敵は、味方の十倍以上の兵力を展開している。
 さらに沖に展開する軍船の数から想像すると、その数倍の戦力を敵が温存していることが見て取れた。

 敵は展開している兵の二割も動かさなかった。
 それでも一つの生き物の様に動き、逃げ惑う味方の兵を一方向に追い詰めている。
 方向は、トッソ台地に亀裂の様に刻まれたグレン谷。
 両岸を切り立った崖に囲まれた谷で、十ギリ(Km)程先の魚止め滝で行き止まりになっている。
 羊の群れを屠殺場へ追い込む様な、訓練された牧羊犬の様な敵の動きだった。

 前方に、味方の兵の波に逆らうように、もがきながら押し流されて来る見知った顔がテオの目に入った。
 二つ年上の姉、ライラだった。
 武の才能に恵まれており、女騎士として従軍していた。
 苦手な姉だったが、兄達と一緒に射殺されたと思っていたので、無事な姿を見てテオは心底嬉しかった。
 その姉がそのまま櫓まで流されて来て、櫓の足に後頭部を打ち付けて倒れた。
 テオは慌てて櫓を降りてライラを担ぎ上げ、逃げる味方の流れに合流した。

 テオは懸命に頭を働かせた、このままでは惨殺されてしまうことが判り切っている。
 敵の意図は理解していた、単なる勝では無く、圧倒的な勝ち方、北大陸全体に恐怖を抱かせる勝ち方を演出したいのだ。
 そこに付け込めば微かな隙を穿ち、僅かながら活路が開けるとテオは思った。
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