1 / 1
睡蓮
しおりを挟む
ひっそりと息をする。
呼吸は小さな泡になって水面へとゆらゆらと上がっていく。水面にいっぱいに広がった葉たちが水中に入ってくる緩い光さえも遮っている。薄暗い闇の中で揺蕩う水の流れはひどく緩慢で、時の流れさえ緩くなったかのような錯覚をもたらす。
どれくらいここにいるのだろう。
生きているのか、死んでいるのかもわからない。今回はひどく長く潜っているはずなのに、なかなか浮上できそうにない。
息が苦しい。だから呼吸はゆっくりと、静かにしなければいけない。
でも、それは水の中でも外の世界でも同じこと。私にとっては外の世界の方がずっと苦しい。外にいる時には、感覚を最大限に鈍らせる。そうすることで何とか呼吸を続けていけている。
毒のある言葉、棘のある視線、何よりも存在そのものを認知してもらえない苦しさ。こんな感覚を他の人はどうやって処理しているのだろう。
私はずっと生きることに倦んでいた。
逃げ出したい。でも行くところも帰る場所もない。せめて家の中に引きこもっていたいけれど、それも事情が許さない。
死を選ぶことはできなかった。私がそれを選んだら、誰かが私の苦しみを引き受けることになる。
本当は誰も困らないのかもしれない。ひっそりと消えてしまえば、誰しもが私のことなんてすぐに忘れてしまうだろう。
でもひっそりと消えることなんてできない。
仕事がある。この部屋も賃貸だ。私が死ねば、少なからず私に関わった人たちに迷惑をかけてしまう。
いや、それはきっといいわけだ。本当は死にたいわけじゃない。
人は苦手だ。誰かと関わりを持つことは怖い。どうせいつかは壊れてしまうから。好きになっても、信頼しても、いつか終わりが来る。
ありのままの私を理解してもらえないのが怖くて、私はいつも相手の顔色を窺い、相手の望みに合うように自分をコーディネートする。でも、そのうちに嘘だらけの自分に対する罪悪感に押しつぶれそうになる。
それは本当の自分じゃない、でも確かに存在するもう一人の私。
嘘ばかりの関係が長持ちするはずもなく、そのうちに一緒にいることが苦痛で仕方なくなってしまう。
誰にも会いたくない日は数えきれないほどあるし、誰とも話をしたくないと思う日も少なくない。でも本当は心のどこかで、人恋しさを感じ、誰かの腕に包まれたいのかもしれない。
矛盾した思いはますます私を息苦しくさせる。
私に唯一できることは、避難場所であるワンルームの自分の小さな家に逃げ込むことだけだ。遮光性の高いカーテンを閉め、ベッドに体を横たえる。そして目をつぶって、深い水の中へと意識を堕としていく。
嫌な思いや不快な気分を鍵のついた箱に入れて、鎖でぐるぐる巻きにして封印する。そしてそれを深く、深く水の底へと沈めていく。イメージが明確に思い浮かべられれば、記憶は意識の底へと沈んで、代わりに生きるためにコーディネートしたもう一人の私が水面へと浮上してくる。
これは私が生きていくための儀式のようなものだった。
いつも通りの手順で、私は意識を水の中へと沈めていく。鍵のついた箱は意識の深い水底へと沈んでいく。でも今日は代わりに浮かんでくるはずのもう一人の自分が、錘でもついているかのように深く沈んだまま、浮かび上がってくることはなかった。
水の中は冷たかった。実際には、私の体は自分の部屋のベッドの上に横たわっている。そんなことはわかっているけれど、今はもう体は意識にすっかり支配されている。体感と意識がごっちゃになって区別がつかない。
水の中は意識の墓場だった。水底に沈めた記憶の箱があちこちで重なり合って沈んでいる。今まで数えきれないほどの記憶を沈めてきた。水底を埋め尽くすほどの箱の山。私の体はまだ沈んでいく。私は抗うことなく、沈むがまま身を任せた。
言いたいことが言えず、やりたいことをやることに罪の意識を覚えるようになったのは、いつからだろう。考えるまでもない。きっと生まれたときからずっと、ずっとこうだった。
「あなたさえ生まれてこなければ、私は不幸にならずに済んだのに」
そう言ったのは私の母親だ、それは消えることのない呪詛の言葉。私の胸の奥に刻み込まれた呪いの言葉。
いずれ消えるのに、命は必ず尽きるのに、でも無のままでいられずに生まれてきてしまったことが罪、ならば私の存在そのものが罪なのだからいっそ消してしまえばいいのに。
それなのに、あの人は「あなたが頼りなのよ」と同じ口で言った。
存在を否定しておいて、その存在に縋る矛盾。でも私はその矛盾を否定することができなかった。生きることも死ぬことも選ぶことができない。
私に何ができただろう。
壊れないように感覚を鈍らせ、消えることのない罪に目をつぶりながら、ただ静かに呼吸を続ける。いつか消えてなくなるまで。
仄暗い水の中だけが私の居場所だ。
私はそっと目を開いた。部屋の中は水で満たされていた。天井近くにある水面には睡蓮の花が咲いている。水中から見えるのは咲いた花の裏側だけだが、きっと白く清らかな花が咲いているのだろう。
睡蓮の花は根に空気を溜め、水底の土に根を張れるらしい。そして綺麗な花を咲かせる。細い糸のような根が水の中でゆらりと揺れた。
どうして今まで気がつかなかったのだろう。
水の中の根が養分を欲している。居心地が良かった水中には貪欲な根が増殖し、はびこっていた。その根に絡めとられたもう一人の私は抗うつもりはないらしい。きっとこのまま沈んでいくのだ。
壊れないように細心の注意を払っていたつもりだったけれど、嘘で固めた私の分身ももう限界なのかもしれない。
でも不思議と怖くはなかった。息苦しさも消えている。冷たい水底で記憶と共に眠るのも悪くない。私が眠った後にはまた白い花が咲くだろう。
呼吸は小さな泡になって水面へとゆらゆらと上がっていく。水面にいっぱいに広がった葉たちが水中に入ってくる緩い光さえも遮っている。薄暗い闇の中で揺蕩う水の流れはひどく緩慢で、時の流れさえ緩くなったかのような錯覚をもたらす。
どれくらいここにいるのだろう。
生きているのか、死んでいるのかもわからない。今回はひどく長く潜っているはずなのに、なかなか浮上できそうにない。
息が苦しい。だから呼吸はゆっくりと、静かにしなければいけない。
でも、それは水の中でも外の世界でも同じこと。私にとっては外の世界の方がずっと苦しい。外にいる時には、感覚を最大限に鈍らせる。そうすることで何とか呼吸を続けていけている。
毒のある言葉、棘のある視線、何よりも存在そのものを認知してもらえない苦しさ。こんな感覚を他の人はどうやって処理しているのだろう。
私はずっと生きることに倦んでいた。
逃げ出したい。でも行くところも帰る場所もない。せめて家の中に引きこもっていたいけれど、それも事情が許さない。
死を選ぶことはできなかった。私がそれを選んだら、誰かが私の苦しみを引き受けることになる。
本当は誰も困らないのかもしれない。ひっそりと消えてしまえば、誰しもが私のことなんてすぐに忘れてしまうだろう。
でもひっそりと消えることなんてできない。
仕事がある。この部屋も賃貸だ。私が死ねば、少なからず私に関わった人たちに迷惑をかけてしまう。
いや、それはきっといいわけだ。本当は死にたいわけじゃない。
人は苦手だ。誰かと関わりを持つことは怖い。どうせいつかは壊れてしまうから。好きになっても、信頼しても、いつか終わりが来る。
ありのままの私を理解してもらえないのが怖くて、私はいつも相手の顔色を窺い、相手の望みに合うように自分をコーディネートする。でも、そのうちに嘘だらけの自分に対する罪悪感に押しつぶれそうになる。
それは本当の自分じゃない、でも確かに存在するもう一人の私。
嘘ばかりの関係が長持ちするはずもなく、そのうちに一緒にいることが苦痛で仕方なくなってしまう。
誰にも会いたくない日は数えきれないほどあるし、誰とも話をしたくないと思う日も少なくない。でも本当は心のどこかで、人恋しさを感じ、誰かの腕に包まれたいのかもしれない。
矛盾した思いはますます私を息苦しくさせる。
私に唯一できることは、避難場所であるワンルームの自分の小さな家に逃げ込むことだけだ。遮光性の高いカーテンを閉め、ベッドに体を横たえる。そして目をつぶって、深い水の中へと意識を堕としていく。
嫌な思いや不快な気分を鍵のついた箱に入れて、鎖でぐるぐる巻きにして封印する。そしてそれを深く、深く水の底へと沈めていく。イメージが明確に思い浮かべられれば、記憶は意識の底へと沈んで、代わりに生きるためにコーディネートしたもう一人の私が水面へと浮上してくる。
これは私が生きていくための儀式のようなものだった。
いつも通りの手順で、私は意識を水の中へと沈めていく。鍵のついた箱は意識の深い水底へと沈んでいく。でも今日は代わりに浮かんでくるはずのもう一人の自分が、錘でもついているかのように深く沈んだまま、浮かび上がってくることはなかった。
水の中は冷たかった。実際には、私の体は自分の部屋のベッドの上に横たわっている。そんなことはわかっているけれど、今はもう体は意識にすっかり支配されている。体感と意識がごっちゃになって区別がつかない。
水の中は意識の墓場だった。水底に沈めた記憶の箱があちこちで重なり合って沈んでいる。今まで数えきれないほどの記憶を沈めてきた。水底を埋め尽くすほどの箱の山。私の体はまだ沈んでいく。私は抗うことなく、沈むがまま身を任せた。
言いたいことが言えず、やりたいことをやることに罪の意識を覚えるようになったのは、いつからだろう。考えるまでもない。きっと生まれたときからずっと、ずっとこうだった。
「あなたさえ生まれてこなければ、私は不幸にならずに済んだのに」
そう言ったのは私の母親だ、それは消えることのない呪詛の言葉。私の胸の奥に刻み込まれた呪いの言葉。
いずれ消えるのに、命は必ず尽きるのに、でも無のままでいられずに生まれてきてしまったことが罪、ならば私の存在そのものが罪なのだからいっそ消してしまえばいいのに。
それなのに、あの人は「あなたが頼りなのよ」と同じ口で言った。
存在を否定しておいて、その存在に縋る矛盾。でも私はその矛盾を否定することができなかった。生きることも死ぬことも選ぶことができない。
私に何ができただろう。
壊れないように感覚を鈍らせ、消えることのない罪に目をつぶりながら、ただ静かに呼吸を続ける。いつか消えてなくなるまで。
仄暗い水の中だけが私の居場所だ。
私はそっと目を開いた。部屋の中は水で満たされていた。天井近くにある水面には睡蓮の花が咲いている。水中から見えるのは咲いた花の裏側だけだが、きっと白く清らかな花が咲いているのだろう。
睡蓮の花は根に空気を溜め、水底の土に根を張れるらしい。そして綺麗な花を咲かせる。細い糸のような根が水の中でゆらりと揺れた。
どうして今まで気がつかなかったのだろう。
水の中の根が養分を欲している。居心地が良かった水中には貪欲な根が増殖し、はびこっていた。その根に絡めとられたもう一人の私は抗うつもりはないらしい。きっとこのまま沈んでいくのだ。
壊れないように細心の注意を払っていたつもりだったけれど、嘘で固めた私の分身ももう限界なのかもしれない。
でも不思議と怖くはなかった。息苦しさも消えている。冷たい水底で記憶と共に眠るのも悪くない。私が眠った後にはまた白い花が咲くだろう。
0
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
還暦の性 若い彼との恋愛模様
MisakiNonagase
恋愛
還暦を迎えた和子。保持する資格の更新講習で二十代後半の青年、健太に出会った。何気なくてLINE交換してメッセージをやりとりするうちに、胸が高鳴りはじめ、長年忘れていた恋心に花が咲く。
そんな還暦女性と二十代の青年の恋模様。
その後、結婚、そして永遠の別れまでを描いたストーリーです。
全7話
邪神の祭壇へ無垢な筋肉を生贄として捧ぐ
零
BL
鍛えられた肉体、高潔な魂――
それは選ばれし“供物”の条件。
山奥の男子校「平坂学園」で、新任教師・高尾雄一は静かに歪み始める。
見えない視線、執着する生徒、触れられる肉体。
誇り高き男は、何に屈し、何に縋るのか。
心と肉体が削がれていく“儀式”が、いま始まる。
サレ妻の娘なので、母の敵にざまぁします
二階堂まりい
大衆娯楽
大衆娯楽部門最高記録1位!
※この物語はフィクションです
流行のサレ妻ものを眺めていて、私ならどうする? と思ったので、短編でしたためてみました。
当方未婚なので、妻目線ではなく娘目線で失礼します。
17歳男子高生と32歳主婦の境界線
MisakiNonagase
恋愛
32歳主婦のカレンはインスタグラムで20歳大学生の晴人と知り合う。親密な関係となった3度目のデートのときに、晴人が実は17歳の高校2年生だと知る。
カレンと晴人はその後、どうなる?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる